Beehive ポケットの中ではもうずうっと、ことり、と固くて冷たい金属製の〝それ〟が出番を待ち構えたままでいる。
まぁまぁ、そう焦らないでよ――なだめるような心地になりながらポケットづたいになぞりあげ、ぬるい息を吐く――何度目かのルーティーンを終えたところで、あらかじめ用意しておいたせりふを頭の中で思い起こすようにする。
物事にはしかるべきタイミングだなんてものが何よりも重要――いや、時には勢いに任せることだって求められることだけれど。
迎え入れてすぐ、はなんだか違う。いっそのこと帰り際にでも、とも思ったけれど、なんだかそれもよくない気がする。有無を言わさず、みたいな感じがするし。
昼食の片づけを終えて、録画していたドキュメンタリー番組(絵画修復士と俳優が海外の美術館のバックヤードに潜入する、だなんて特集番組で、予想以上に見応えのあるものだった)を並んで見た後――ぬるくなったコーヒーを淹れなおしてすこし一息ついて、おそらくは近況報告だとか、次の休みにはまたどこかにいこうか、なんだかんだでこうして家でふたりきりで過ごすのも悪くないのだけれど、なんて話になって――うん、やっぱり〝いま〟がいい。
こくり、とちいさく息をのんでポケットの中をたぐりながら、洗面所から帰ってきた鴫野くんがソファの片側に腰を下ろすのを見届けた後、ゆっくりと唇を押し開くようにして話を切り出す。
「――あのね、鴫野くん。ちょっと渡したいものがあるんだけど」
「ああ、なに?」
言葉につれるようにして、猫みたいな切れ長の綺麗な瞳が、ぱちぱち、と軽やかなまばたきをこぼす。
蝶の羽ばたきみたいに軽やかな睫毛の震えや、あまやかな色を静かに落とした吐息に色づく気配――間近でしばしば目にする機会がこんなに増えたって、いつまでも慣れることなんてすこしもない自分に、改めてなんだかおかしくなる。
「遅くなってごめんね――押しつけがましくないかなとか、なんかいろいろと考えちゃって」
ポケットの中へと手を入れて、もうずっと前から出番を待ちわびていた〝それ〟をおそるおそると手渡す。
キーホルダーも何もついていない、ごくごくシンプルなスペアキーは、入居の契約時に受け取ってからずっと出番もないまま引き出しの奥にしまい込まれていたものだった。
「遠野くん、これって……」
うろたえたようすを隠せないままの淡く揺らぐまなざしをじいっと見つめながら、ゆっくりと息を吐き出すようにしながら答える。
「ほら、来てもらうたびにわざわざ呼び出してもらうっていうのも億劫でしょ? もっと早く渡しておくべきだよな、とは思ってたんだけど……いつでも来てくれていいから、僕は」
わずかに震えて見える掌の上で、こちらの普段使っている〝それ〟とはまるで違う未使用の鍵は鈍い光をしずかに跳ね返す。
「ごめんね、ほんと。いまさらだよね。重いだとか、迷惑だとかそういう風に思うんなら受け取ってくれなくたって別に――」
ぽつりぽつりと弱気な口ぶりで返せば、いつもとは打って変わって、かぶせるようにすこし強気な言葉が投げかけられる。
「そんなことないから……ありがとう」
答え終わるのとほぼ同時に、開かれたままだった掌がぎゅっときつく握られる。どこか子どもじみて見えるそんな仕草やすこし滲んでほつれた言葉尻に、かすかに火照った胸の奥からは、じわりとにじみ出すような愛おしさとしか呼べないものがしずかにこぼれ落ちる。
いつもこうだ――、鴫野くんと過ごす時間は、自分ひとりでなら気づけるはずもなかった言いしれようのないいくつもの感情をこの身へと教えてくれる。それらひとつひとつが、こんなにもあたたかくて心地よいだなんてことも。
「ほんとにありがとう――大事にするから。安心してね、いきなり来たりとかはしないからさ。大事でしょ、そういうのって」
「あぁ、うん……ありがとう」
握り込むようにしていた掌をゆっくりと押し開き、親指と人差し指の先で摘んだそれを自らの視線の高さへと掲げるようにしながら、ぽつりとささやき声がこぼされる。
「これってさぁ、僕のほかにも持ってる人っていたりするの? ちゃんと事前に連絡してから行くようにはするけどさ、万が一鉢合わせたりしちゃったらよくないでしょ」
ぱちり、と軽やかなウインクをこぼしながらかけられる言葉に、どこかしら戸惑いを隠せないままに答える。
「……そんなこと無いから」
いざという時のためにも、両親のどちらかに預けておくべきなのだろうかというのは入居の契約時にはすこし考えたけれど、『たとえ親子であっても他人は他人だから』というきっぱりとした線引きを明示されていたため、ずうっと出番もないまましまいこまれていたのだから。
「家族が訪ねてくるようなことだって滅多にないからさ。そういう時でも、必ず事前に連絡はくれるようにって言ってあるから」
首を傾げながら答えるこちらを前に、にっこりとあの、どこか悪戯めいた笑みを浮かべるようにしながら鴫野くんは答える。
「そっか、ならいいんだけど――ほら、郁弥あたりになら渡しててもおかしくないよなあって思ったから。いざという時のために、みたいな感じで」
「……鴫野くん、」
こらえきれない苦笑いをこぼしながら、ばつの悪さをかみ殺すようにぎゅっと指先を握り込む。
無理もない話だとは思う――彼らの輪の中に加わることを赦されてからも暫くは、わざとらしいほどにいびつな棘をまとった態度を貫き通すことで〝彼らの思う遠野日和〟像を崩さないようにと勤めていたのはたしかなのだから。
「……鴫野くんはさ、」
お得意のつもりの澄ました笑顔で取り繕うようにながら、わざとらしく不機嫌を装うような口ぶりで僕は答える。
「どんなふうに思ってるわけ、僕のこと」
「郁弥のことが大好きなんだよね、嫉妬してもしょうがないくらいにって」
ぱちり、とウインクをこぼしながら告げられる言葉に、心はあっけないほどに軽やかなさざ波を起こす。
「わざと言ってるでしょ、それ」
ひどくぎこちない仕草でそっと手を伸ばし、くすぐるような手つきでやわらかな髪にそっと触れる。
指先をはらはらとすり抜けていく感触の穏やかな心地よさに酔いしれるようにしていれば、かすかに漂う甘い香りがたおやかに鼻先をくすぐる。かすかな熱を帯びて滲んだまなざしのすぐその先には、抗いようのない誘惑に駆られるこちらをただ穏やかに受け止めるかのような、瞼を細めたやわらかな笑顔――彼にとってはきっと、ごくありふれたスキンシップに過ぎないはずなのに――ふたりきりの時にだけ行われるこんな時間が訪れる度、途端にゆるやかに流れ出すひどくあまやかで心地よいこんな空気は、時の流れを静かにゆるませるかのような不思議な錯覚をもたらしてくれる。
「……鴫野くん、あのね」
ごくり、とちいさくため息を飲み込むようにしたのち、吐息まじりの言葉を静かに洩らす。
「そこまで線引きが出来てないわけじゃないから……さすがに」
家族や兄弟に限りなく近いなにか――あれからいくばくかの時間を積み重ねていく中で、自らと郁弥との〝つながり〟に自分なりの整理をつけようとした結果、落としどころとして得た実感はそれだった。郁弥の実の兄であるところの夏也くんからのこちらへの振る舞いにもそういったところは感じられるのだから、あながち間違いではないと思うのだけれど。
こほん、とわざとらしい咳払いをこぼし、きっぱりとした口ぶりで僕は答える。
「いつでも来てくれて構わない、だなんて思う相手は君しかいないし、君だけだよ」
「遠野くん……、」
見つめ合うまなざしの奥で、穏やかな温もりに満ちた色が幾重にも折り重なるようにしながら乱反射する。夕焼けの色にもどこか似た、おだやかであたたかなその色彩に、軋んだ心の内が心地よく揺らぐ。
得意げに瞼を細めた優しい笑みを浮かべながら、ささやくように優しい口ぶりで鴫野くんは尋ねる。
「ねえ、それって僕が遠野くんの恋人だから?」
「……知ってるでしょ、そんなの」
「いいでしょ、聞かせてよ」
くすくす笑いながら、しなやかな指先をこちらのそれへとそっと絡められる。
ああもう、ほんとうに。募るように胸の内で膨らんだ愛おしさを持て余すような心地になりながら、噛みしめるような心地でぽつりと答える。
「いつでも遠慮しないで帰ってきてくれたらうれしいなって思ったからだよ、〝恋人〟にはね」
答える代わりのように、うっとりと瞼を細めた優しい笑みが手渡される。
ほんのりと火照った指先でこちらの服の袖を遠慮がちにぎゅっと掴みながら、〝恋人〟は尋ねる。
「ねえ、遠野くんがいる時はもちろんだけどさ、家で待ってるのはいい? 用事で遅くなる日だとか、遠征から帰ってくる前とかにさ」
「いいけど、別に……」
寧ろそのため、みたいなところだって大いにあるのに。疑念を隠せずにいるこちらを前に、うんと得意げにほほえみかけながらの優しい言葉がこぼれおちる。
「あぁ、よかった。ほら、いくらいつ来てもいいって言ってくれてたってさ、そういうのがあんまり好きじゃない人もいるでしょ? それにさ、僕、夢だったんだよね。遠野くんが帰ってきたら、僕からも『おかえり』って言ってあげるの」
かすかに潤んだ瞳でじいっとこちらを見つめながら手渡される言葉のぬくもりは、あたたかな雨のように心の隅々まで静かに染み渡る。
そういうところだよ、ほんとうに。口には出さない言葉をそっと飲み込めば、痺れるようなそのあまさに、のぼせてしまいそうなほどのぬくもりを味わう。
「すごくうれしいよ、ありがとう」
「……よかった、ありがとう」
見つめ合うまなざしと、あたたかな吐息混じりにこぼされる言葉――その両方が、いとおしさのありかをこちらへとうんと優しく手渡してくれる。
「それとさ、もうひとつお願いがあるんだけど」
「うん、なあに?」
ぱちぱち、とまばたきをこぼしながら告げられる問いかけに首を傾げながら尋ねてみれば、どこか悪戯めいた子どものような無邪気な笑顔と言葉が手渡される。
「キーケースがほしいよなあっていうのを思ってたんだよね、ちょっと前から。気がつくと鍵がいろいろと増えて来ちゃったもんだからさ。実家でしょ、おじさんの家でしょ、車の鍵でしょ、それに、遠野くんの部屋ね」
最後に付け加えられた〝それ〟をささやく言葉には、こらえようのないあたたかな色が滲む。
「……だから、せっかくなら遠野くんとお揃いがいいよなぁって思って。色違いにすればさ、取り違えちゃうこともないと思うし」
得意げに笑いかけながらもちかけられる「提案」に、おだやかに心は弾む。
「いい案だと思うよ、すごく」
「よかった。うれしいな、すごく。一緒に選ぼうね、いいのがあるといいんだけどさ」
「鴫野くんの分は僕が払ってもいい?」
「うん、じゃあ遠野くんの分は僕が払うね」
たとえ形式上だけのものだとしても、なんでもない日のプレゼントはなんだかそれだけで特別にうれしい。
「……うれしいな、すごく」
うっとりと瞼を細めながら落とされる言葉はどこか独り言めいた無防備なやわらかさをまとっていて、あたたかな光のように心の隅々までをおだやかに照らし出してくれる。
「ねえ、そんなに?」
わざとらしく意地悪めいた口ぶりで尋ねるこちらを前に、やわらかに火照った言葉がそっと手渡される。
「……そうだよって言ったら、遠野くんは迷惑?」
「あるわけないでしょ、そんなこと」
照れ笑いで答えながら、うんとあたたかなため息を静かに飲む込む。
見過ごしてしまいそうな、ほんの小さなかけらたち。
そのひとつひとつを優しく積み上げるようにしながら、ふたりの間を隔てる心の距離はまたこうして近づいていく。