Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    シンヤノ

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 🍩 🍑 🍇 🎂
    POIPOI 6

    シンヤノ

    ☆quiet follow

    Psyborg。
    Not for meの場合静かに離脱をお願いします。
    ※🐏🔮の2人はライバーとしての体とは別に、現実世界の体と名前を持って存在していると言う設定です。それらも全て妄想の産物であり、実際の彼らとは異なります。
    ※モブの女の子の視点で話が進みますが、彼女から🐏🔮に恋愛感情を向けることはなく、また向けられることもありません。

    2013.11 微修正

    #PsyBorg

    怪物たちの紡ぐ唄タン、タ、タ、タン、
    いい天気に弾む足を石畳に歌わせて、慣れた道を辿りながら節を取る。
    新しい曲を作るときはいつもそう。いく通りもリズムを並べて、頭の中でメロディを重ねていくの。
    学校で出されたばかりの課題を見たときは真っ直ぐな苦手分野に思わず呻いたけれど、これだ!と思うテーマを思いついたあとは早かった。
    目処がつくと気が楽になるよね。ああ、でも随分前のことだから、あれをもとに曲を作るならやっぱりあの時の日記を読み返さなくちゃ。
    私を絶望から救ってくれた彼らの話。
    作ったリズムを追い越して、私は家へと駆け出した。


    その人は私にとって「先生」だった。
    心の中でね。本人に言ったら「もう転職したんだが」と渋い顔をされたから。
    うちの家族は父と母と兄と私と妹の5人家族で、私が10をとっくに過ぎた頃に生まれた妹は全員の宝物だった。
    仕事人間の父も奔放な兄も、妹のこととなれば何があっても時間を作ってくれる。
    その頃住んでいたのはそこそこの都会で、幼稚園が歩いて行けるくらい近くにあったから、私が学校の帰りに妹をお迎えに行くのが日常になっていた。
    「先生」はその幼稚園で先生をしていた人だ。
    背の高い男性で、一見すると少しとっつきにくく見える。でも話してみると穏やかで目配りが優しく聞き上手だった。天使だけれど時々モンスターにもなる子供たちと目線を合わせるのがすごく得意で、小憎らしい天邪鬼で靴を履くのをいやいやいう妹を、うまく誘導して「かえる!」と言わせてくれた時には、私も一緒に先生に懐いてしまった。だから「先生」。

    その先生に、まさかバイト先の小さなバーで再会するなんて、そんな偶然って信じられる?
    しかもこの広いアメリカで!
    最後に聞いたのはもう何年前だろう、笑いすぎた時に出てくる特徴的な、お湯が沸いた時のケトルみたいな笑い声(先生はそれを聞かれるのを酷く嫌がっていて、私も数回しか聞いたことがない。それでも覚えているくらいには特徴的だった)。
    それが客席から聞こえてきたときは幻聴を疑ったし、見覚えのある、でも少し歳を重ねた姿を見つけた時には二度見して、店員があげちゃいけない声を同時に上げていた。先生も同じくらい驚いていたけど。
    先生は私が雇われたばかりのこの店の店長と友達なんだって。近くに住んでいるらしい。
    昼はカフェ、夜はバーになるこのお店に時々来ては、食事をしたりお酒を飲んだり、店長が暇だったり他に友達がいたりすれば彼らと騒いで、帰りにはいつも私を見つけて、「美味しかったよ、ありがとう」と言って、チップをちょっとだけ多めにくれる。
    私だって店長たちみたいにもうちょっと先生と話してみたい気持ちもなくはなかったけど、仕事中だしバイトがサボるわけにもいかないでしょ。それに多分、先生にとって「子供」カテゴリの私がいたらリラックスして騒げないような気もしていた。
    そういうわけで賢い私は必要以上に存在を主張せず、かといって気を使い過ぎないように、つまりは普通の店員とちょっと気前のいい客として、悪くない知り合い関係を築いていたのだった。

    私がどうしてこの先生の、もう少し踏み込んだ話を知ることになったかを説明するには、もう1人別の人の話をする必要がある。
    彼は私の家に……正確には私が居候している兄の家に、下宿人としてやってきた人だった。
    「募集を見たんですけど」とやってきたその人は、インターフォンで現れたのが若い女性であることに困惑していた。下宿人を募集しているなんて寝耳に水だった若い女性こと私も同じくらい困惑していた。「住所間違えたかな……。連絡は入れたんだけど」と気まずげに、けれどしっかりした発音で言った彼は、聞き馴染みの良い静かな声と細身でスタイリッシュな外見を持っていた。
    1人だけ事情を知っていた兄が後ろからドタドタやってきて、雑すぎる説明をしてくれた。その説明によれば下宿人の話は間違いではないらしい。なんでも随分前、私が音楽の勉強をしにこの街に来たいと言い出して家に転がり込むより前に、確かに下宿人の募集を出していて、私の引っ越しのドタバタのうちにすっかりそのことを忘れてしまったんだとか。今日の昼、彼から連絡をもらって思い出したばかりだと弁明していた。弁明になるのそれ?
    なんの準備もしていないリビングに彼を通して、普段使いの紅茶とお菓子を挟みながら話を聞くと、彼はおおよそ2ヶ月近くこの街に滞在する予定だそうだ。そこそこの長期滞在の間、ホテルなんかよりずっとお金を節約できるこの家の募集に辿り着いたらしい。
    兄は彼を迎え入れることに前向きだった。けれど彼の方が遠慮するそぶりを見せていた。
    兄が祖父から譲り受けたこの家は2人で住むには広すぎるくらいだったから、もう1人同居人が増えても生活に問題は全くないと思う。私としては掃除の手が増えるのはラッキーだな、くらいの感想だった。
    「正気? 女の子のいる家の鍵を今会ったばかりの男に渡すつもり?」
    呑気な兄妹の発言に、穏やかに喋る彼が初めて険のある声を出した。
    この一言で、私は彼を警戒する気をさっぱり無くしてしまった。料理もできると尚嬉しいんだけど。庭の草刈りも手伝ってくれないかな。あ、シェパーズパイは好き?
    「……言っておくけど俺、ゲイだからね。警戒が必要なのは妹の方じゃないってこと、肝に命じておきな」
    楽天家2人のラフな説得に、ついに根負けした彼は兄の胸に指を突きつけてそう言い放った。それで兄妹揃って笑ってしまった。多分、実際に来る前に兄が私と同居していることを話していたら、今ここにはいなかったんだろうな。
    まともでユーモアもある、面白い人だ。
    自己紹介と即興の歓迎パーティーの果てに、私たちは彼を「ヴィー」と愛称で呼ぶことにした。

    実際、ヴィーは同居人として申し分なく、とてもよく働いてくれた。
    程度と方向性に差はあれど大雑把な私と兄と違って細かいところに気がつくし、何よりかなりの綺麗好きだった。
    初めのうちは遠慮していたのか汚れた端から黙って片付けてくれていたけど、シンクに洗い物を溜めているのを見た時に堪忍袋の尾が切れたらしい。家主とその妹を並べてお説教を始めた。
    口数が少なく静かなところを好む様子に反して、意外と口が悪いのにはびっくりした。
    b*tchが口癖って、うちのおばあちゃんが生きてたら発狂したんじゃないかな。私も初めて聞いた時はドキッとしたけど、口癖なんだと気づいたら気にならなくなった。むしろ私の方から普通に話してって駄々をこねたくらいだ。
    だって私の前で言っちゃった時は「しまった」って顔をするんだよ。年上におかしいことだけどなんだか可愛くて、この人に変に気を遣われるのは嫌だなと思ったんだよね。
    長年放置された水垢をたっぷり溜め込んだシャワールームを見て、あらん限りの悪態をついたヴィーを眺めながら、その判断は間違ってなかったなと思った。ゴム手袋からマスクまで完全装備を整えて掃除を始めた彼に、これ以上のストレスをかけたら倒れちゃうと思う。
    背中に隠したシンクの排水溝は、彼がシャワールームに夢中になっている間に少しだけでも綺麗にしておこうと思った。


    「あれ?」
    昼下がり、その日は授業の終わりが早くて、バイトに出るまでに少し時間があった。
    真面目な私は、というのはちょっと見栄を張りすぎだけど、思いっきり音を出したい気分になって、自宅に戻ってきていた。
    我が家にはなんと防音室があるんだ。音楽好きのおじいちゃんの晩年の道楽用。
    おじいちゃんが生きていた頃は、小さい私や兄が音楽に興味を持ったことを喜んで、いろんな楽器を触らせてくれたっけ。その遺産を兄が引き継いだのは良いものの、興味がコロコロ移り変わる兄は今ではほとんど使っていなかった。そこに目をつけて転がり込んだのが私ってわけ。行きたい学校も近かったし。
    その防音室から、ピアノの音が漏れ聞こえている。
    兄は仕事の時間だから、この時間にいるとしたら他に1人しかいなかった。
    そっと重いドアを開けてみる。ピアノと一緒に歌が聞こえてきた。
    「ーーー」
    静かな歌だった。
    旋律は綺麗で、壮大なテイストも入っていて、歌詞は伝承を語るよう。
    胸をかきむしりたくなるようにざわざわ心が波立つのは、旋律でも歌詞でもなく、歌い手の感情のせいだろう。
    演奏が終わると、私がいることに驚きも怒りもせず、静かな表情のままのヴィーが振り向いた。
    「……ハンカチいる?」
    「どうして、……ああ、学校が早く終わったんだ?」
    「うん。ねえ、メイク流れちゃう」
    「sh*t……。はぁ、ごめん。なんか今、おかしくて」
    ヴィーは自分の頬に流れる涙を掌の付け根で拭うと、近くにあったティッシュを引っこ抜いてぐしゃぐしゃと水分を吸い取らせた。目尻にきちんとひかれたアイラインが滲む。
    沈黙。
    ヴィーと2人でいるときは珍しくないものだけど、今の沈黙にはべったりと張り付いて剥がれない錆色の感情が、エアコンで調整された空気の底に沈み込んでじりじりと溶け出しているようだった。
    「ヴィー、歌う人だったんだ。夜に防音室を使ってるのは知ってたけど」
    彼がこの家を下宿先に選んだ要素の一つにこの防音室があることは初日に聞いていた。
    ピアノからドラムまで、使い手のいなくなった楽器が行き場をなくして置きっぱなしになっている場所だ。好きに使っていいよと案内したけど、実際に何をするかは深く聞いていなかった。
    「ここで歌ったのは初めてだよ。だけど、うん、歌うのは好きだよ」
    ずっ、と鼻水を啜って、ピアノの椅子に浅く腰掛けたまま彼は答えた。
    「言ってくれたらよかったのに。私、歌もやるんだよ」
    「ふぅん。声楽?」
    「ううん、音楽全般。専門はまだ決めてないけど、プロデュースとか、そういう仕事ができたら良いなと思ってて」
    丁寧な家事をする割にヴィーの起きる時間は遅い。朝はまず見かけなくて、学校とバイトから帰って学校の課題や楽器の練習をして、そろそろ寝ようかなと思うくらいの時間が彼の防音室の使用時間だった。
    「さっきのはヴィーの曲?」
    ピアノの近くに椅子を引っ張ってきて腰掛ける。譜面台には何も置かれていなかった。
    「どうして?」
    「んー……入っている感情が違う感じがするっていうか」
    感覚を形にするには言葉じゃ足りなくて、頭の中の語彙をこねくり回しても子供っぽい抽象的な答えしか出てこなかった。
    少し間が空いて、怒られるかなと思ったら、彼はただ頷いて、ただ、そっか、と言った。
    「えっと、聞いていい? 何かあった?」
    「……」
    「本当は、もうちょっと違う感じで歌う曲だよね。今の」
    彼は涙の乾きかけた目で私を見た。打ち明けようかどうしようか、迷っている沈黙だった。
    私はむやみに人の心に踏み込んで知りたがるのはお行儀の悪いことだと知っている。
    だから、好奇心をいつでも拒絶していいように、できるだけあどけない子供の顔をして無害さを訴えた。話したい気持ちじゃなければ話さなくて良いように。
    「冒頭に……」
    「うん?」
    長い沈黙の後にヴィーは口を開いた。
    「語りが入るんだ、さっきの曲は。凄く……大切な。大好きな人の」
    一度語り始めれば吐き出されるのを待ちかねていたとばかりに溢れ出す言葉が、この部屋に張り付いてじっとしていた感情をぐんぐん立体的にしていって、隠されていた体積の巨大さを見せつけながら、のたうつようだった。


    その人と俺は、仕事の関係で出会ったんだ。
    矢継ぎ早に喋る声はうっかり力加減を間違えて捻った蛇口みたいで、うるさいのが苦手な俺は初め上手くやっていけるか不安に思っていた。
    彼は自分自身を妙に低く評価していた。怖いものが結構多くて、Noを沢山身に飾って守ろうとしているような人だった。でもそのNoが人を傷つけるのを見るのも、結局同じくらいに怖いんだろうと思った。
    そんな怖がりだから、同じように怖がりの人間によく気がつくんだと思う。
    人の輪を外側から眺めてじっとしているような人間の隣にそっと座って、無理に中心に連れて行くんじゃなくて、座った場所に一緒に砂の城を作ってくれるような、望むならいつでも放っておいてくれるような、そんな優しい人だった。
    そうやって見ている内に、力を込めすぎた蛇口の不器用さも可愛く思えてきた。滔々と流れるように語る彼の声が大好きになった。
    俺が今の会社で初めて作った曲に、彼の声を入れて欲しいと頼んだのはそういう理由だった。
    彼は自分の声を極端なほど嫌っていたけれど、おかげで最高の曲になったと俺は思ってるよ。事実、沢山のファンが支持してくれた。
    俺たちの仕事は実際に会う必要のないものだった。インターネットが世界中どことでも繋げてくれる。活動内容はタレントのようなものをイメージすればわかりやすいと思う。
    基本的に個人で活動ができて、求めれば仲間を得ることもできる良い環境だった。中でも同期の仲間とは特別なつながりがあった。
    その特別なつながりの1人が彼だったのは、俺にとって大きすぎる幸運だったんだと思う。
    彼とは趣味もよく合った。
    演出の上でロマンスの真似事をしようという案が出た時も、面白がって周りを置いて行くほど沢山の設定を語り合った。
    ファンが見ている前でも見ていない時でも、暇があれば彼と話して、時々恋人の真似事をした。それで満足していればずっと幸せなままでいられたはずだったんだ。
    つまるところ、俺はそれだけでは満足できなくなってしまった。本当に彼が好きになって、どうしようもなくなってしまった。
    文字だけのやり取りじゃなくて、本当に抱きしめて欲しくなった。
    声だけのごっこ遊びじゃなくて、本物のキスをして欲しくなった。
    彼の体温や、匂いや、低い声が振動させる空気をこの身で直接感じたい。優しい指で頬を辿って、身動きが取れないくらいに強く、強く抱きしめてもらえたらどんなに幸せだろうかと、毎日、そんなことしか考えられなくなった。
    演出の延長線上で少しずつ探りを入れて、彼のNoが減っていることを確かめていった。デビュー当時はオフで会うなんて絶対にNoだと言っていたけれど、関係を積み上げていけば、いつかはこのNoもなくなるんじゃないかって期待していた。
    長期の休暇をとってこの街にきたのは、彼がこの街に住んでいることを教えてくれたからだった。俺はそれをNoが消えたサインだと思ったんだ。
    いや、それは建前で、ただ俺がそう思い込みたかった。我慢の限界は本当はとっくに超えていて、もう止められないところまで来ていた。
    そうして勢いこんで彼の近くにやってきて、連絡をして拒絶されたのが今の状況ってことだよ。
    彼は優しいから、拒絶というほど強い言葉は使わない。たまたま用事があって街にいないとか事情を作って、いつもと同じようにこちらを気遣った言葉を送ってくれるけど、でもどんなに条件を変えても会えないと言われ続ければ嫌でも分かる。
    彼は俺に会いたくないんだ。彼は、俺とは本当のロマンスを求めていない。今回のことで、俺の気持ちが彼の望むラインを超えてしまっていることにも気づかれただろう。もうこれまでの関係に戻ることも難しい。この休暇が最後のチャンスなんだ。ここで会ってもらえなければ、きっと、俺たちは終わってしまう。
    彼のことだから、いきなり切り捨てるなんてことはしないんだろう。傷つけないように少しずつ距離を置いて、最後にはフェードアウトしていくんだろう。
    想像だけでもこんなに苦しいのに、本当にそうなったら、息が止まってしまうんじゃないか。
    彼は俺を愛してるって言ってくれるけれど、俺が望む形では愛してくれない。
    今の仕事が終わって、その先も続く関係を望んでくれない。
    どうしたらいいんだろう。彼が俺から離れていって、完全に、関係性を断つときが来たら、苦しくて苦しくて、もう生きていける気が全然しないんだ。


    バイトのシフトが終わって、ロッカーで着替えながら私はため息をついていた。
    あの後寝かしつけて、次の昼に会ったヴィーは落ち着いていた。あまりに普段通りな様子に、あの感情は常に彼が身の内に隠し続けているものなんだと知った。
    それはとても辛くて苦しくて、でも、少しだけ羨ましい気がした。
    いいなあ、私もその人なしでは生きられなくなるような、全身全霊で誰かを愛するような経験をしてみたい。それは今まで触れた歌や物語の中でぼんやりと育まれた憧れのようなもので、私にとっては酷く遠いものだと分かっていた。
    「はあぁ……」
    「大きなため息だなあ」
    二度目のため息には返答があった。
    「わぁっ!?」
    「可愛い妹がもう1人増えでもしたか? 俺はもう幼稚園の先生じゃないから、面倒を見てやれないのが残念だ」
    先生!何でここに!
    叫びを飲み込んで、素早く周りの状況を確認する目ざとい私。
    分かったのはここがロッカールーム手前、つまりは店内で、私はお客さんのいる前で盛大にやらかしたってことだ。考え事をしながら惰性で帰宅準備を完了させられる自分の有能さを自慢したいところだけど、正直店長の方を見るのが怖い。
    幸いにも店内にお客さんは少なくて、私のやらかしを目撃したのは先生だけのようだった。
    「シフトは終わりだろう? よかったら話し相手になってくれないか。職場で食事をするのが嫌じゃなければだが」
    ああ、でも君のお兄さんがすぐに迎えに来るか。こまごまと私の都合を心配してくれる様子は何年も前に懐いていた先生そのままで、久しぶりにゆっくり話せそうな気配に私の心ははしゃぎはじめた。
    「お迎えが来るのは夜のシフトの時だけだから大丈夫。今季の限定プレート気になってたんだよね。ドリンクセットもつけていい?」
    「奢らせるのが上手いな、お嬢さん。いいよ、デザートはつけなくていいのか?」
    「つけるつける! やったー!」
    ちゃっかりボックス席に座ってシフトを交代したばかりの同僚を呼ぶ。先生が注文をしている間に今日の夕食当番のヴィーに外で食べる連絡を入れて、準備は完璧だ。
    「にしても久しぶりだよね。私がいない時に来てたりした?」
    「いいや。しばらく仕事で来られなくてな」
    「今は何の仕事をしてるの?」
    「文章を書いたり人と企画を立ち上げたり……まあ、色々だよ」
    濁した所をあえてつっこむことはせず、言われた通りの仕事をしている先生を想像してみる。パリッとしたスーツを着込んで、オフィスのカンファレンスルームで打ち合わせをしている姿が思い浮かんだ。何だか難しそうな仕事だな。緩めの服に可愛いエプロンで子供たちに引っ張り回されている先生しか知らない私にはうまく想像ができない。
    「それで、さっきのため息はどうしたんだ? 店長に虐められでもしたか?」
    冗談と雑談を挟んだ後に、先生にとっての本題がやってきた。顔見知りの子供が目の前で悩んでいるように見えたっていうだけで放っておけなくなっちゃうところ、お人好しだな。ため息を聞かれた手前言いにくいけど、深刻に悩んでいるのは私じゃないんだよね。うーん、奢らせるのが申し訳なくなってきた。
    「んー、恋って難しいなーって」
    「恋愛相談と来たか。おじさんにはお役に立てそうにないな」
    「おじさんだからこそわかることもあるんじゃないの? いい感じの昔の恋の話でも教えてよ」
    「No. 若いお嬢さんには刺激が強すぎる」
    「なにそれ聞きたい。録音してもいい?」
    「絶対にしないぞ」
    軽妙に打ち返される会話は楽しくて味を締めちゃいそうだ。次のシフトで鉢合わせた時に店員として振る舞えるよう気合を入れておかないと。
    私がセットのカフェオレとミニデザートまでしっかり平らげた頃には外はすっかり暗くなっていて、先生が家まで送ってくれることになった。至れり尽くせりが過ぎる。
    絶対に彼女に困ったことないよねえ。夜道に思わずこぼしたら、呆れながらそんなことはないと返された。嘘だぁー。
    「常に彼女の2人や3人キープとか出来そうなのに。あ、彼氏の方がいい?」
    「謎の高評価を頂いてるところ悪いが、できたとしてもやらないからな。一度に何人も気にかけられるほど俺の懐は大きくない」
    「でもそっか、相手を泣かせるようなことはしなさそうだよね。ずっと1人を大事にしてくれそう」
    「素敵な想像をありがとう。そろそろ話題を変えようか」
    「恋人を泣かせたりしない……っていうのは難しいかもしれないけど、泣かせちゃったとしてもフォローをちゃんとしそうだよね。大事なものを大事にするのが得意そう」
    「……どうかな」
    それからプライマリースクールに行った妹の話に話題が移って、私の学校の話になる頃に家の門にたどり着いた。リビングとキッチンと防音室に灯りがついているから、今日は2人とも家にいるんだな。
    「送ってくれてありがと。お茶くらい飲んでいく?」
    「いいや、今日は帰るよ。バイト終わりなんだ、ゆっくり休むといい。また店でな」
    「オッケー、今度うちにも遊びにきてね」
    次に店で見かけたら、心を込めて接客しようっと。
    手を振って別れて、鼻歌を歌いながら玄関からリビングに向かう途中、ちょうど防音室につながる廊下から出てきたヴィーと鉢合わせた。
    「あれ? 誰か来てた?」
    「ううん、知り合いに送ってもらっただけ」
    「ふーん。あ、そうだ。メロディを思いついて弾いてみたいんだけど、ここって夜にピアノはまずい?」
    「あー、まずいね。防音室でもちょっと漏れちゃって、ご近所から苦情をもらったことがあるから」
    「そっか。それなら明日にしようかな」
    「作曲してるの? 私も聞いていい?」
    「もう少し形になったらね」
    彼のような強烈な感情を持つ人から生まれる曲ってどんなだろう。作曲家の中にも自分の状況を感じさせない人はいるけど、何となくこの人は、口数の少ない穏やかさの影にしまった、燃えるような熱を歌う人のような気がした。
    分かっている。この予想には私の願望が入っている。熱を歌ってほしいのは私だ。何故なら、私は……。


    3回目の歯磨きをしてようやく息をついた。うがいはもう何回したかも分からない。
    口の中が気持ち悪くて、それを意識するたびに数十分前の出来事を思い出して、冷たい水で全てを押し流せないかと何度も何度も口に含んで、吐いてを繰り返していた。頭が痛い。気持ち悪い。
    「ちょっと、大丈夫?」
    人の手が背中に触れたことに驚いて咄嗟に振り払う。こんなに狭い洗面所なのに人が入ってきたことにも気づかなかった。
    「吐いてるの? 危ないから電気つけるよ」
    ぱっと蛍光灯の強い光が部屋を覆って、対照的に晒された私の顔にヴィーは相当驚いたようだった。
    「何……どうしたの。ひどい顔だよ、ちょっと……」
    心配して肩を支えようとした気配にびくりとする。過剰に警戒したそぶりに気付いたのか、彼は手を止めた。
    「人に触られるのがきつい?」
    自分の状況を言葉にする余裕もない私は、察しのいい答えに感謝してこくこくと頷いた。
    彼はオーケーと短く答えると、一旦洗面所を出て行って、キッチンで何かを作り始めた。

    暖かいハニーレモンジンジャーは、ジンジャーを多めにして作られているようで、そのキリリとした辛味が、ぐちゃぐちゃに頭の中を苛んでいた口の中の感触を消してくれるような気がした。
    一口ずつちびちびと手作りのドリンクに口をつけて、詰まっていた息をようやく吐き出せた頃には、もうかなりの時間が経っていたと思う。
    その間ヴィーは何を聞くわけでも話すわけでもなく、ただただ見守るための沈黙で、過敏になりすぎた私の神経をゆっくりと慰めてくれた。
    「……ヴィーはさ」
    「ん?」
    「キス、したことあるんだよね」
    「まあ……そうだね」
    「どうだった?」
    「えっと」
    「気持ちよかった? 嬉しかった? ラブソングだって、ドラマでだっていうもんね、キスは甘いとか、気持ちいいとかって。私、私には、わかんない。わかんないよ。いつもわかんない。何がいいのか全然、本当に、今も、わかんなかった……!」
    付き合っている彼にキスをされたの。
    あちらから告白されて付き合い始めた彼だった。
    正直言って私は彼のことをよく知らなかったけど、一緒にいるうちに少しずつ好きになるようなこともあるかもしれないと考えた。実際、彼は私にすごく気を遣ってくれて、スマートじゃないけれど、精一杯大事にしようとしてくれているんだろうなと思えて、だからいつかを期待した。ヴィーのような、激しく心を焼いてしまう苛烈な感情を持てなくても、いつか彼をゆっくりと好きになれたらいいなあ、なんて夢みたいなことを考えた。今までに付き合ってきた他の人たちとは、キスをされたりされかけたり、その度に無理だと思ってすぐに別れてきたけど、今回こそは大丈夫だったらいいなあ、なんて。
    彼のキスが下手なのか私には比較できない。でもやっぱり今回も、口の中に舌を突っ込まれて舐め回される行為になんの喜びも感じなかった。
    私はその生産性のない無意味な時間の間、他人の皮膚の匂いだとか、滲み出た細胞液の味だとかをできるだけ意識しないようにしながら、早く終わらないかな、他の人は本当にこんなことを楽しいと思えるのだろうかと、思考をあさってに飛ばすことでどうにかやり過ごした。
    キスが終わった後に相手が心から醒めた顔をしていたら悲しいと思ったから、誤魔化すために何とか笑って、照れたふりをして顔を逸らした。
    彼のキスは1度では終わらなかった。軽く嫌がったのは、戯れだと思われたのかもしれない。2回、3回と求められて仕方なく応じた。
    最後まで平静に振る舞えたのは我ながら上出来だったと思う。
    結局いつも通り家に帰ってきてから泣いて、泣きながら歯を磨いて口を濯ぎ続けて、今こうして、互いが恋愛の対象にならない下宿人の存在に心からの平穏を得たのだった。
    「私、おかしいのかなあ。彼を好きになれたら楽しいと思えるのかなあ。
    あんなに気を遣ってくれているのに、どうしてかな、いつも疑ってるの。きっとこの人は女の子と、そういう、キスとか、えっちなこととかしたくて気を遣ってくれてるんだろうなあって、きっとそういう人ばかりじゃないと思うのに、それだけじゃないって信じたいのに、そういう片鱗を見つけるたび、無理なの。大事にしてくれる人は私も大事にしたいのに、全然大事にされてるって気にならないの。そういうことを求められてるのを感じるたびにもう無理ってなっちゃう。
    おかしいよねえ。みんなあんなに恋愛はいいものだって、キラキラしたものだって、どんな歌でも言ってるのに、私は全然、いいものに思えないの。
    私、このままずっと誰も愛せないのかなあ。それとも我慢して、みんながいう幸せの通りに振る舞えば、いつか私にもわかる日が来るのかなぁ。
    でもそれってすごく、そんなの、分からないのに、そんなのさ……」
    私のどうしようもない告白をヴィーは黙って聞いていた。
    再びジワリと溜まりはじめた涙に直接触れることなく、ティッシュの箱から何枚か雑に引き出してこちらへ突き渡す。一見冷たいその対応がありがたくて、鼻水を垂らしながら笑った。
    「別に、いいと思うけどね。自分の心に正直でいれば。嫌だって思ったんでしょ。他人の幸せと自分の幸せが同じじゃなきゃいけないなんて、そんなのは……ディストピアだよ」
    彼の言葉はぎりぎり人を苛立たせないゆったりしたペースで、訴えかけるような強さはなく、華やかな言葉を選ぶこともなかったけれど、水のように自然に響いた。それは相手の言葉を噛み砕いてから、考え、湧き出した本心だけを掬って届けようとする、真摯さだけが出せる音だった。
    「君が愛を知らないかどうかって言われたら、知ってると思うけどね。
    俺がここに来てからずっと、兄妹で仲良く暮らしてるところしか見てないけど。時々喧嘩しながら、お互い言いすぎたかもって後悔して謝りあって元に戻るって、誰も好きになれないやつに出来ること? 俺は君たちが5人家族で、歳の離れた可愛い妹の初めての学校の制服の写真を待ち受けにしてることを知ってるよ。お父さんが身だしなみに無頓着で、変なTシャツを擦り切れるまで着ちゃうことも、お母さんがそれに呆れながら、一生懸命服を整えてることも知ってるよ。そういう話を楽しそうにしてたのは演技だった? 違うでしょ。そういうことができちゃう人が誰も愛せないなんて、それは、結論を急ぎすぎじゃないかって思うけどね」
    「むー……子供だって言いたいの?」
    「少しね。でも、大事なのはそこじゃなくて」
    彼は考え考え言葉をつなげた。普段は待っていられない私も、言葉を大事に紡ごうとする姿勢に、これは大事な待ち時間だなと気づいて、大人しく鼻を啜りながら続きを待った。
    「別に、触れ合ったり、そういうのがなくってもさ。できなくても。相手を大事に思う気持ちがなくなるわけじゃない。人とやり方が違っても……愛し方が、相手の求めるやり方と違ったら、伝わらないこともあるだろうけど、だからって、愛がなくなるわけじゃない。
    だから、つまり……ええと。……たぶん、話し合い必要なのかもしれない。わからないけど、こう……『あなたにとっての愛情表現が、私にとっては辛いんだ』って。言葉は選ぶ必要があるだろうけど、できるだけ正直に。2人ともが我慢しすぎずいられるように。
    欲しい愛し方が違うって気づいて、それでも一緒に、繋がっていたいと思うか。繋がっていたいなら、相手の愛し方と自分の愛し方の差を、どうやって埋めていけばいいのか。お互いに居心地の良い場所を、手探りだけど、探して行こうって思ってくれるなら……そんな面倒くさいことに付き合ってくれる相手となら、きっとずっと、どこまでも一緒にいられるような気がする」
    その言葉は柔らかい土を潤す雨みたいに、ゆるやかに染みていった。
    ハニーレモンジンジャーの甘酸っぱさにようやく頭が追いつく。カップに入った薄切りのレモンを食んで、私は彼の言葉をじっくりと咀嚼した。
    ふと隣を見ると、彼自身、自分の言ったことをもう一度咀嚼しているような、他の誰かの説得を身のうちに馴染ませようとしているような、少し難しい問題を出されてまごつく子供のような、ひとりぼっちの夜の道で小さな灯りを遠くに見つけた人のような、戸惑った顔をしていた。
    沈黙が落ちる。
    空になったカップをテーブルに預けて、私はヴィーとは反対側に体を倒した。ソファーのクッションに半分顔を埋める。
    「私、ヴィーのこと好きだなあ」
    「は?」
    「そんなめちゃくちゃ嫌そうな顔しなくてもいいじゃん、失礼な。あーあ、ヴィーとずっと一緒にいられる人は幸せだろうなぁ」
    ヴィーの顰めっ面がおかしくて私は笑った。居心地悪そうな顔。半分くらい照れ隠しなのがばればれ。
    「人を好きになるって難しいね。大事にしたくてもうまくいかないことって、きっと、いっぱいあるんだろうね」
    私はクッションに完全に顔を埋めて目を閉じた。真っ黒な視界の中で考えるのは自分のこと、彼のこと。それからヴィーと、顔も知らない彼の好きな人のこと。
    話し合ってうまくいくなんて限らないけど、でも、全部うまくいく想像をすることは成功の第一歩のような気がした。
    これから彼と話をして、それでうまくいかなかったら、私もちょっとは傷つくだろう。そうしたら少しだけ泣いて、ちょっとだけ甘いものでも食べて、それからこの優しい隣人の恋がうまくいくよう応援しようと思った。
    うまくいってくれたら最高だけど、うまくいかなくても、この人がもう一度立ち上がっていけるようにできたらいい。
    無くしてしまったら生きていけなくなるような、その存在に魂を預けざるを得ないほど純粋で臆病に人を想える人。そういう人が目の前にいて、今私と同じソファでお茶を飲んでいる。
    ただそれだけのことが、今の私には救いだった。



    でもいつだって現実はそう簡単にうまく行ったりしない。


    休暇がそろそろ終わるから契約解除の手続きをしてほしい。
    珍しく午前中から起きてきたヴィーと兄の会話を聞いた時、私は思わずリビングのソファーから跳ね起きて2人に駆け寄った。窓からの逆光で見えづらいヴィーの顔を覗き込む。そこには達観したような、穏やかな表情が浮かんでいた。
    「……いいの?」
    「うん。作りかけの曲、よかったら聞いてくれる? 完成したらだけど」
    「それはもちろんいいよ! でもそうじゃなくて」
    「いいんだ」
    窓越しにきらきら光る空気に埋もれるような声音で私を止めて、彼は今までで1番綺麗に微笑んだ。

    「いいんだよ、もう」



    ヴィーとのお別れは明後日に決まった。
    私は胸の中にもやもやを抱えながら、夜のシフトを乗り切った。
    閉店作業を終えた後は、深夜まで明かりのついている店長の知り合いの店の軒先を借りて兄の迎えを待つ手筈になっている。これが面倒で夜のシフトは可能な限り入れないようにしているけど、今だけは時間設定付きの夜が有難かった。結論が出ないと分かっている考え事の不毛さを、大人になった私は知っている。
    近くのオープンテラスの喧騒を聞きながら、私は店の敷地の端っこの一人きりの椅子の上で膝を抱え、簡易的な1人の空間で遠慮なく心の内の引っ掛かりを取り出した。

    ヴィーは彼とちゃんと話せたのかな。
    もういいって言ってたけど、それって何がいいの?
    もし彼に会えたとかならあんな言い方はしないはず。
    あんな、自分をずたずたにしちゃうような想いに一日二日で決着がつけられるわけないよね。
    これからも彼と一緒にいられるような方法を見つけられたの?
    それとももう、諦めちゃった?

    「わっ」
    突然路地から現れた背の高い男の人が倒れ込んできて、私の思考は中断された。
    私の椅子の近くの段差に躓いてバランスを崩したららしい。しかもそのまま動かない。頭打ってない!? 大丈夫!? っていうか、
    「さ、酒臭……、って、えええ、先生!?」
    酔っ払いは知り合いだった。
    私はそりゃあもう驚いた。普段口に出さない愛称がうっかり飛び出だすほど仰天した。こんなところで何やってるの!?
    酔っ払い、もとい先生は相当お酒が回っているらしく、揺すっても叩いても名前を呼んでもふにゃふにゃと意味の通じていない返事が返るばかりだ。しゃべれるのはよかったけど、これ、どうしよう!
    助けを求めて店の中を覗いたけど、お客さんたちはすごく盛り上がっていて、店員さんはみんな忙しそうだ。ここで寝てれば閉店までには気づくだろうけど、夜に意識のない酔っ払いを放置して無事を保証できるほどこの街は優しくない。
    後少しすれば兄も来るだろうし、兄に頼んで……でもうちの兄じゃ抱えて帰るのは無理だよ! とりあえずタクシー!?
    混乱した頭で懸命に1番いい方法を模索する。大きな体を転がして壁に立てかけるように座らせて、スマホでタクシーを手配するアプリを開いた。すぐにきてくれそうなことにほっとして、そして重大な過ちに気づく。私、先生の住所知らない!
    うちに連れて帰るしかないかな? でも明日も仕事とかあるだろうし。
    大体、先生ってお酒に強かったよね? うちのお店で友達と飲むのを見てたけど、いつでもみんなを介抱する側だったはずだよね? 1人でいるときはこんなになるまで深酒するタイプだったってこと? それってなんだか意外だな。あっ、タクシーが来ちゃった!
    起きて先生! 寝るのは住所を吐いてからにして!
    「起きてってば〜!ね〜!運転手さん困ってるよ〜!今もう料金かかってるから困るのは自分だよ〜!ね〜!おーきーてー」
    「えーと、大丈夫?」
    かけられた声に顔を上げると、そこにはヴィーがいた。どうして?と聞くと兄に頼まれて代わりに迎えに来たんだと言う。
    「その人が彼氏?」
    「違う違う。知り合いなんだけど、酔っ払っちゃったみたいで全然起きないの。意識はあるし手もあったかいから急性アルコール中毒じゃないと思うんだけど、住所がわかんなくて」
    「困るね。Hey……もしもし? 聞こえますか?」
    ヴィーはしゃがんで、壁に寄りかかって俯いた先生の頭に顔を近づけた。ちょっと乱暴にペチペチと頬を叩きながら声をかける。ううん……、と先生が唸る。そして、私の知らない名前がぽろりと口から溢れた。

    「浮奇……」

    ヴィーの手が固まった。

    「……、……ふーふーちゃん……」

    目を見開いて零れ落ちたヴィーの呟きに、それまで私がどれだけ騒いでも開かなかった先生の瞼が震えて、ゆっくりと、魔法のように持ち上がる。

    「浮奇……?」

    ヴィーの短く浅い呼吸がヒュッと空気を震わせた。色白の手がうろうろと伸びて項垂れる男の前髪に触れかけ、空を掴み、無理矢理引き剥がすように指先を引いて、体全体で後ずさった。

    「待ってくれ、浮奇!!」

    それを許さなかったのは先生の両腕だ。
    私からはヴィーの背中を掴む手しか見えない。でも服に寄った皺の深さに、目の前の人を離すまいとする意志の強さを感じた。
    「俺が悪かった! 俺が臆病だったから、お前から逃げ続けたから、だから……、お願いだ、浮奇。俺を捨てないでくれ。見限らないでくれ。頼むから、浮奇……」
    「ふーふーちゃん……」
    ヴィーは縋り付く腕を自分の手で優しく辿った。行き着いた先で震える先生の頭を撫でて髪に触れ、力を込めれば消えてしまうんじゃないかと恐れるようにそっと抱きしめて、そして、ハッと辺りを見回した。
    完全に困っているタクシーの運転手さんと、輝き始めた私の瞳とかち合った。
    気の利く私はよく躾けられた賢いわんこよりも機敏に立ち回った。興奮のままに今私がすべきことを叫ぶ。大丈夫、わかった、全部わかってる!
    「その人だったんだね! その人だったんだ!
    気にしないで、私、タクシーで帰るから。
    2人でゆっくり話してね!うちの部屋を使ってもいいからね。
    私今日は早く寝て、絶対邪魔しないって約束するから!」
    どうかしっかり話してね。2人なら言わなくたってうまくいくに決まってるんだけど!
    私は1人だけ置いて行かれている可哀想なタクシーの運転手さんを猛然と車に引っ張って、我が家の住所を押し付けた。
    逃げ出すように走り出した車の中で、流れる夜の光に祈りを捧げる。
    お願いだから幸せになってね。優しい先生と優しいヴィーならきっと絶対大丈夫だけど!
    うまく行かなかったら今度は私が暴れてやるんだからね。2人の顔も名前も知ってるんだから。
    幸せになって。幸せになってね。それで全部落ち着いた後でいいから、途方に暮れたままの私に、この世界に愛なんてものが本当に存在するんだってことを教えてほしい。
    ちょっとお高いタクシー代だって今日はどうだっていい。私のやらかしたことはひょっとしたらお節介とか余計なお世話だとか言われるのかもしれない。
    でもどうしても、他人向けの装飾なしの愛だとか恋だとかを目の当たりにした事実に、震える胸を抑えきれなかった。



    ✳︎


    「浮奇……」
    「何」
    「離してくれ」
    「やだ」
    「顔を見たいんだ、頼む」
    正気を取り戻した声に請われて、浮奇はゆっくりと腕を緩めた。
    緩めるだけ、離しはしない。明確な意志を訴える腕に、抱きしめた彼は文句を言うことなく、むしろそれを真似るように自由になった両手で浮奇の背中を辿り、頭を包み込むようにして親指で頬を撫でた。
    目を合わせ、眦を下げてつぶやく。
    「本当に、浮奇なのか」
    「そうだよ。そっちこそ……本物?」
    揺れる瞳で浮奇が問うと、ああ、と返事が返る。
    聞き馴染んだ電子を伝う声とは僅かに違う、同じ空気を震わせて届く声を、それを発する喉を直に見て、たまらずその首元に頭を寄せた。
    「ふーふーちゃんだ……」
    いつも仮想空間で戯れにするよりも控えめに、すり、と頭を擦り付けると、抱きしめかえしてくれる腕がある。あったかくて、安心して、駄目だ。涙ぐんだ顔を隠すために一層近く擦り付けた。
    「すまん、酒臭いだろ」
    「酒臭い。なんでこんなに飲んでるの。いつも俺に酒の飲み方を覚えろって言う方だったじゃん」
    「それは……」
    「はっきりしなよ。言っとくけど、こうなった以上もう逃さないからね」
    キッと目に力を入れて睨みつける。弁明も誤魔化しももう受け付けない。意志を叩きつけるつもりでファルガーの瞳を覗き込み続けると、往生際悪く揺れていた眼差しがついに浮奇の瞳に重なった。
    「お前に、見限られたと思ったんだ……」
    「どう言うこと?」
    ファルガーはようやく観念して、抱え続けた自分の懊悩を浮奇の前に曝け出した。


    浮奇がこの街に来た、と言うサプライズの連絡から後、連日のように送られてきた数々のメッセージ。
    そのどれもが大なり小なりファルガーの心を揺さぶり続けたが、最も衝撃を与えたのは、それらのどれよりも短い昨日の夜の一文だった。

    『もう会わなくてもいいよ、困らせてごめんね』

    捨てられた、と思った。
    浮奇を信じきれず、迷い続ける自分についに愛想を尽かしたんだと。
    最初に連絡が来たとき、街から離れていたのは偶然だった。仕事だった。嘘じゃない。
    けれどいよいよ家に帰る日が近づいてきたあの日、俺は、怖くなってしまった。
    直に会ったら、浮奇は自分に幻滅してしまうのではないか。
    これまでに散々自分の声や性格を呪うさまを見せていたから知っているだろうが、俺は自分に自信がない。何もかもを愛せない。ファルガーと言う、多くの人間の協力で作った魅力的なフィルターを通すから何とかやっていけただけで。
    お前がくれる優しさや気持ちは、ファルガーと言う沢山の才あるアーティストやプロデューサーに形作られたキャラクターのものなんじゃないか?
    俺が、ファルガーを構成するただの一要素であることに気づいて、現実で一緒に過ごしてその乖離を意識してしまったら、途端に夢から覚めてしまうんじゃないか。
    そう思ったらいてもたってもいられず、俺は街の外に居続けるための次の予定を入れた。
    今すぐでなくてもいい仕事を片付けにオフィスへ向かった。祝辞だけですませようと思っていた疎遠な友人の結婚式に出席した。出なくてもいい親戚の集まりに顔を出したし、時間ができたらと考えていた遠方の病院のアレルギー検査も受けに行った。
    そうやって時間を稼いで、もう一度、円満にファルガー越しの関係に戻れる方法を模索していた。何の装飾も纏わない、俺自身が愛される幸福を夢に見ながら、何も見ていないふりをした。
    いよいよ外でやることも尽きて、それらしい理由を掲げずにお前に嘘をつく罪悪感に耐えることもできず、ひっそり街に戻ってきたのが数日前。それから最後のメッセージを受け取って、半日。
    そう、半日は正気を保ち続けた。死人のように脳の動きを止めて、ただ日々のルーティーンをこなすだけだったが、少なくとも半日はまともなふりをできていた。
    でもそれで限界だった。
    いつもお前と通話していた家にはとても居られなかった。何もかも放り出して逃げ出して、まだ明るいうちから誰も知り合いのいない店を選んで浴びるように酒を飲んだ。
    何も考えたくなかった。
    お前を失いたくなかった。
    まだ失っていない頃の、夢を見ていたかった。

    ぐすぐすと、大の大人がぐずりながらする告白を、浮奇は黙って聞いていた。
    「浮奇、浮奇。何か言ってくれ。お前が本物なら、その声で教えてくれ。捨てないでくれ。許してくれ。お前がくれるものを失ったら、もう生きて行ける気がしない」
    震えを止められないまま、逃すまいと縋り付く男の体温を感じる。求め続けた男の声が、生々しい呼吸と鼓動を伴ってうなじを掠めていく。
    「愛してるんだ…………」
    浮奇は男の後頭部にそっと手を伸ばし、軽く梳いて、やや乱暴にその髪を引っ張った。
    「痛……っ」
    「馬鹿ふーちゃん」
    涙に濡れた男の頬を両手で覆って、眉をぎゅっと寄せながら目を合わせる。
    「俺を舐めないでくれる? そうだよ、俺はファルガー・オーヴィドが大好きだよ。だけどそれは、ふーふーちゃんが、君が大好きだからなんだからね。順番を間違えないで。ファルガーはそりゃあ魅力的だけど、俺の好み知ってるでしょ。セクシーなでかい胸とたっぷりした筋肉が大好物なんだよ。それなのに君が誰より1番だって、言い続けてきた理由をどうして考えてくれないの」
    流れる涙を一筋舐めて、挑戦的に睨む。
    「もう絶対、絶対に許さないから。君がそんなに会いたくないならそれでもいい、別の方法でずっと一緒にいられるようにできればそれでいいって、お利口になろうとしてあげたのに、もう駄目だよ、許さない。ちゃんと愛してくれなきゃ許さない。絶対に逃さない。俺から逃げた分だけめちゃくちゃしてやる」
    ちゅ、ちゅ、と涙に濡れていない鼻の頭や額にも口付けて、精一杯意地悪く笑った。
    「大好きだよ、ふーふーちゃん。愛してる。会えて嬉しい。もっとたくさん声を聞かせて。抱きしめて。俺を失いたくないって言うなら、きちんと教えて。リアルでなきゃできないやり方で愛してよ」
    返事は噛み付くような口づけで、もうそれだけで何もかもが満たされた。
    現実世界で唯一互いを繋いできた声を失う代わりに、それ以外の全てで存在を重ねて、実在を確かめるように、決して失いたくない相手を抱きしめた。


    ✳︎


    私が愛を想う時はいつも、あの2人を思い出す。
    それは私にとって相変わらず不可解で、気味が悪く、厄介なものだけど、それでも彼らを思えば幸せなものなんだろうって信じられるから。

    今、2人はどうしているかな。
    この曲が出来たら、連絡をとってみるのもいいな。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    🙏💘💞💞💞💞😭🙏💯😭😭😭❤💜😭👏💞👏👏👏💖❤👏🙏🙏❤💜❤💜🙏😭🙏😭😭😭🙏🙏👏❤💜❤💜❤💜❤💜❤💜❤💜❤💜😭😭💖💖🙏❤💜
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works