ご覧ください、狂った僕を俺は気が狂っているんだ! 慎重さなんてクソと一緒に投げ捨てたさ!
いちいち戯けた節をつけてそう言うので、聞いていた女は呆れた顔で中空を見上げた。
昔馴染みのこの男と来たら、自ら破産しようと言うのである。
正確にはそう見えるほどに車に金を注ぎ込んでいるのだ。
「まあ、あんたの金だからね。いい大人なんだし止めやしないけど、これからどうするつもりだい? 退職願まで出したって聞いたよ」
「おー、耳が早いな。2階の部署の馬の合わない噂好きの女子たちとは仲良くなれたのか?」
「な訳ないだろ。それだけ話題になってんだよ。ちょっと前、2・3日勝手に失踪したあんたを受け入れてくれた寛容な職場だってのに」
「ははは、感謝している。これは本当だ」
だろうね、と女は頷いた。本心からだ。戯けてみせても真面目で、不義理を嫌う男だと言うのは知っている。でなければ上司のお使いがてらわざわざ訪ねた先で、引っ越しの手伝いなど買って出たりしない。
引っ越し、と言う言葉が適切かどうかも実のところ彼女にはよくわかっていなかった。
男の荷物整理の仕方ときたら、車以外の私財を全て捨てる気かというほどに大胆で乱雑だった。
処分する品の中で最も多くを占めるのは彼が気に入ってそばに置くことにしたはずの書籍たちで、次に多いのがガジェット系。それから机やら棚やらベッドやら、普通の引っ越しであれば使い回しのききそうな家具の類。
最もお気に入りらしいいくらかの本と愛用の小型端末は手元に残し、生活に不可欠な義肢のメンテナンスに関わる道具やパーツだけは抜かりなく揃えて車の荷物にしているあたり、急に心の底の希死念慮に気がついて行動を起こそうと言うのでもないらしい。およそホームレスにもバックパッカー(この場合カーパッカーだろうか?)にも不要であろう少し気の利いた嗜好品を買い込もうとするくせに、睡眠場所をしっかり計算に入れて物量を調整している抜け目のなさが、妙に現実的でアンバランスだった。
一般人が手を出すのを躊躇うほど高額なCPUを載せるのが時代錯誤も甚だしい骨董品のワゴン車なのは、おそらく中身の方に予算をつぎ込んだからだろう。
運転席の周りには少年たちの心をくすぐりそうなライト付きのコンソールやら大型のモニターやらが取り付けられている。外からは分かりにくいが、内側から見ればちょっとした戦闘機のコクピットのようだ。
実際、戦争にでも行くのかと言うほどの強度の装甲で車体は守られている。退路を気にしなければ小さな砦くらいは攻略できそうだ。
「それで? あとは食料? こんなどこまで行っても汚染されている地表のどこに旅行しようっていうのかね。インスタントで私のおすすめはこっちの水のいらないやつだけど」
「このレモン美味そうだな」
「古本を売っぱらった書店の隅にでも設置してくんのかい」
「ふはーはっは、レモン爆弾だ、命が惜しくば逃げ惑うがいい! ……流石に大人として不味いな」
「思ったより理性が残っていたようで感動したよ」
果たしてこの男は本当に自分の知っている彼なのだろうか。
本人の趣味であろう赤と黒の機械の手足も立ち居振る舞いも、文学オタクらしい知識を引用した言葉選びも変わらないけれど、食事の質やら何やらを急に気にし出したのは一体どう言う心境の変化だか。1番ありそうなのは料理系の作品にでも感銘を受けたとかだけれど、それならうるさいくらいにその話をしそうなものだ。
カートに詰められていく、食べるまでに多少の調理がいる品々を眺めながら考えていると、男が食料品コーナーの片隅の花屋に目をやっていることに気がついた。
あんたが小洒落たものに興味を持つなんて、天変地異の前触れかね。スローフードを生活に取り入れようなんて、一体何があったんだか。
疑問は口から出ることはなく、そのまま会計まで流れていった。
軽口でプライベートに入り込める関係ではもうないことをお互い承知しているから、こうして馬鹿を手伝えるのだ。
*
色づいた鮮花を買うだけでそれなりの奢侈にあたる世界で、チープなマーケットの片隅に並ぶ花々の彩りの多様さは、おそらく時代遅れの粗悪な技術で染色体を弄ってできているのだろう。
あの過去の技術レベルでも似たようなことをしていたなと何処かで読んだ話を思い出しながら、プリザーブドフラワーの瓶を車の後ろの荷物の山の1番上に詰める。売っていた中で1番可憐な華やかさを持つというだけで購入を決めたのは少し軽率だったか。グラデーションの花弁は物珍しい気がしたのだけれど、正直こうした花に関する自分の知識は当てにならない。
まあ、他にもよさそうなものは沢山買ったのだし。
自分で自分に言い訳をしながら他愛のない考え事に思考を戻す。物珍しい花を作る方法の探究は数あれど、最も簡単に青い薔薇を作る方法は、色水につけて細胞液に染み渡らせるのだったか。
見ようによっては哀れなそれは、今の自分に少し似ている。
唐突に弾き出された過去の世界から未来に戻って、現在。
パラレルワールドの一つに属するこの世界は、記憶にある世界とは似て非なるものだった。
地表の汚染は変わりがなく、国中の不穏の芽も積まれていないまま。しかしレジスタンスはまだことを起こしておらず、薄氷の平穏を享受する世界で、男はほんの数日無断欠勤をやらかした不良職員になっていた。
奇しくも時空を飛ぶ前の自分の語りが予言になったことに、本来ならば笑うところだ。しかし男の関心は全く別のところにあった。
浮奇を迎えに行かなくては!
自分がほとんど生まれた時代に近い場所に弾き飛ばされたなら、彼も同じように元いた時間軸に飛ばされている可能性が高いだろう。
もしくは弾き出されたのはこちらだけで、彼はまだあの過去の世界で配信を続けているのか。ともかくもまずは同じ過去に戻ることが肝要だ。
未来は途方もなく枝分かれしているが、過去はこの未来に確実につながっている。彼がどこにいるにせよ、まずは時間の糸を辿るべきだ。
そのためにレジスタンスの拠点に乗り込んで、研究の集大成を俺のために使わせてもらうことにしよう。
国が手を出し戦争になれば一大事だが、1人の気狂い野郎が無茶をやらかす分には1人射殺されるだけで済む。
ニュースに俺の顔が出たら、知り合いはさぞ仰天するだろうなぁ。
自慢ではないが、正気の頃の俺はそりゃあ思慮深かったので。
昔であればこの行動に至る前に、あらゆる可能性を考え尻込みしていただろう。
迎えに行ったところであいつは他の誰かを見つけて慰められているだろう、だとか。
再会した時には俺のことなんかどうでも良くなっているだろう、だとか。
予定していた準備が全て終わって1人になった運転席の窓に片肘をつき、男は息を吐いた。
太陽の代わりに辺りを照らし出した人工灯の輝きを遠くに見て、ふと、シャツの下から首に下げたチェーンを引きずり出す。細い銀のチェーンの先に通しておいた指輪が顔を出し、遮光ガラスごしの鈍い光を弾く。滑らかなはずの表面には、よく見ると自分の粗い取り回しのせいで細かい傷がついていた。
慌てて指先で拭うもどうしようもなく、気に入りの色で染めた金属製の指を恨んだ。全てが片付いたら専門の店に相談に行くか。
角度を変えて眺めれば、埋め込んだ赤と紫の石の輝きは変わっていないようだった。
ほっと息を吐く。これが傷ついていたり、あまつさえ無くしたりしていたら、あいつほど装飾品に強い思い入れを持たない自分でもしばらくへこんでいたところだ。
浮奇と交換したペアリングにらしくもなく唇を寄せたくなったのは、やはり、寂しいからだろう。
変わらない状態でこれを持って来られてよかった。思い出の縁なんて、効果的な演出でもなければ思い入れを持たないものだと思っていた。
自分達を象徴する小さなアメジストとルビーを指輪に使いたいと提案してきた彼の、はにかんだかわいい顔といったら。思い出して勝手にニヤつく口元を片手の指で無理矢理抑えこんだ。
石を指輪の裏に埋め込んで2人だけの秘密にするのも浪漫があったが、柔らかさのない機械の指では石か装甲のどちらかを痛めてしまうので諦めた。代わりに石は表の彫刻の意匠に潜ませて、裏には互いだけが知る言葉を。
パステルカラーの砂糖菓子のような提案をする気恥ずかしさに耐えかねたのか、尻すぼみになる柔い声。顔ごと逸らした目線の代わりに上気した耳朶が晒される。期待と、甘えと、少しの怯えに震えた肩を、どうして今すぐ抱きしめられる場所にいないのか。愛を守護するという濃い紫の石は変わらず美しいけれど、こんな小さなカケラだけでは何もかもが足りない。こんなことなら行儀良く並ぶ石のように、存在ごとしっかりと繋ぎ止めておくべきだった。
やたらと小説に引用される花言葉やら石言葉やらに皮肉げな感情を抱いているのは今でも変わらないけれど、この石一つで言葉では足りないものを形にできるならそれもいいじゃないか、なんて。後付けの理屈を捏ね回しながら仕方なく受け入れるポーズをとった卑怯者が、引き離された後で一人思い入れを積み上げているのだから世話はない。
ひとり醜態を晒して回るかっこつけに、微笑んで付き合ってくれた恋人の慈悲深さたるや。
再会して、浮奇が誰かの腕に巻かれているのならそれでもいいと思っている。
なぜなら俺には、相手を殴って奪い返す権利がある。
あるいは、俺のいない間こいつを慰めてくれてありがとうと感謝を述べて、横から攫って行くだけの余裕がある。
浮奇本人に俺のことなんてもうどうでもいいと言われたら、泣いて縋って薄情を責めて、無くした居場所を取り戻そうと足掻いてみせる激情があり、それを許されると思えるだけの信頼がある。
約束したんだ。
自分の外側に幸せを託すなんて不安定、悍ましいくらいの不用心、痛々しいくらいの幸福!
疑り深く用心深く、心の専守に懸命でいた頑なな己を信じさせた。数十年生きて擦り切れた心をあっという間に作り替えられた。
信じるに足るだけの時間と、言葉と、態度と、存在の全てを尽くして繰り返し教え込まれて、手を伸ばすことすら恐れ多いそれに溺れ、もう元の色さえ思い出せない。この世で最も心地のいい侵略の甘受!
さあ、出発しよう!
BGMは爆音で行こう。
陽気でファジーなジャズ・ミュージックを鳴らしながら、緊急アラームとレーザービームとサブマシンガンの海に飛び込もう!
時代錯誤なレトロでぼろのキッチンカーに、馬鹿みたいにハイテクノロジーを詰め込んで、欲張った土産をたんまり載せて、時空を超えてお前に会いに行こう。
自分に都合のいいパラレルワールドを作る話なんてクソ喰らえだが、どう時間をいじくったところであいつは俺に都合よくなんてなりやしない。
浮奇、お前は今どうしてるんだ?
泣いているだろうか? 怒っている? 腹を空かせてないか? 頼むから安全な場所に居てくれよ。物理的にお前をどうこうできるやつはそうは居ないだろうが。
お前の情がとても深くて、心が柔らかく、でも芯がとびきり強いことを俺は知っているよ。
どこに行ったって1人で生きていける。強いやつだ。賢いやつだ。綺麗で可愛くて、魅力的な人間だ。どの時代にだって、お前を愛したいと思うやつが現れるに違いない。
だとしても、お前には俺がいないと駄目だろう?
そうとも俺は、狂ってる!