《綾人蛍》 雨落石 雨樋を流れた水が地面を打つ音は、逢瀬を隠すのにはちょうどいい。湿気を含んだ蛍の髪を混ぜ、その身体を掻き抱いて、どうか降り止まないでくれと願いながら瞼を閉じる。
そんな綾人を憐れに思った天が気を遣ったのか、目覚めの時間にも関わらず、外はどんよりと暗いままだった。曖昧になった夜と朝の境目に部屋を去るきっかけを失い、ぼんやりと雨の音に耳を傾ける。木の葉が揺れる音も、鳥の声も、すべて等しくさあさあと飲み込んでいった。
絶えず響く音がうるさくて、それでいて静かで世界から切り離されたような空間。シーツを擦った蛍とぱちんと目を合わせたはずが、その瞳は、綾人の向こう側、どこかずっと遠いところを見ていた。
「いいの、行かなくて」
「ええ、まだ」
あと少しでも貴方と共にいたいから。そう伝えてしまったら、きっと蛍は泣き出してしまう。だから代わりにその寝癖を整えるだけにとどめたはずが、予想外にじわりと滲んだ涙が枕に沈んでいった。瞬きするそばから続いてはらはらと落ちてくる。
やさしくしないで、とは、昨晩も聞いた。その首筋に薄く残る噛み跡も、大きな手の形に赤くなった手首も、そして綾人の背中がシーツと擦れるたびにぴりぴりと痛むことも。全てその願いが叶った証拠だった。
それでもまだ、やさしくしないでと言う。これ以上どうしたらいいのだろう。大切な人を大切にして何が悪いのか。
いや、悪いのだ。この国においては、綾人の立場においては。
「蛍さん」
「なんでもない」
「目が腫れてしまいますよ」
蛍には、血筋も、その身分を保証するものもないから。それは稲妻において、弱い存在だった。社奉行様の「ふさわしい人」にはなれない。誰かが言ったわけではないが、互いにそう理解している。そしてそれは結局紛れもない事実だった。
いっそ囲い込んでしまえばいい。くだらない圧力など全て無視すればいい。綾人にはそのための方法も、実力だってあるのだから。蛍だってあちこちに十分な人脈を持ち、その行動は政治にさえ影響する。説得するだけの材料なら揃っていた。
周りの反対を振り切って契りを結んで。
「泣かないで、どうか」
そして蛍は、後ろ指をさされながら生きていく。その立場を狙っていた権力に縋りたい馬鹿な連中からの、外の人間を引き入れるなと古い文化に拘る馬鹿な連中からの、汚い僻みをその小さな背に受けて。
綾人には、愛した人にそれだけの負担を強いる覚悟がなかった。実際に弱くてどうしようもないのは、綾人のほうだ。
だから、はっきりと蛍の顔が見える今、その肌に触れる勇気もない。ふるりと震えてシーツに包まり直す蛍を温めたくても、この手が触れることを許せなかった。その涙を拭う資格さえ、綾人にはありはしない。
「すみません」
「どうして謝るの」
「いえ……いえ」
いっそその手を離してしまえばいい。それなのに、もがけばもがくほど、絡まった指は解けなくなる。じわじわと全身を毒が回るように、蛍に溺れて沈んで。その腕に首を絞められる心地が癖になっていった。
「綾人さん、泣いてる」
「そう見えますか」
「それ以外に見えないよ」
綾人よりも温かい手が、跡を撫でていく。まつ毛を掠めたくすぐったさに身を捩れば、蛍は濡れた目尻を輝かせてくすりと笑った。どうしようもなく愛しくて、苦しい。
最低だと突き放してくれたら。近づくなと嫌がってくれたら。諦めきれない理由を蛍に求めても仕方がないのに。綾人の頬を抓る手は、きっとそんな責任転嫁すら受け取ってみせるだろう。よっぽど、強い人だから。
「目、腫れちゃうよ」
情けないところまですべて晒して、なお、共にあることを選べない。綾人が捨ててしまえばいいのだ、家臣を、家族を、何もかも。そんなことを蛍が望むはずもないが。
強くなった雨が、蛍の声すらかき消そうとする。綾人の名を呼ぶ優しい響きさえも奪っていく。
婚姻とは、実にくだらない。綾人にとっては蛍も立派な家族だというのに、その輪に含めることが許されないだなんて。
「貴方に、出会わなければよかった」
数度瞬きを繰り返してまたほろりと雫を落とすだけで、蛍は何も言わない。それでよかった。うんとも、ううんとも、どちらも聞きたくなかった。
蛍に出会った不幸と、蛍に出会わなかった不幸。それすらも選択することができない自分が、ひどく惨めに思われた。
貴方に強請られたから、なんて言い訳がなければその体を抱きしめられない男のことなど、どうか許さないで。