ライナスの毛布 金の指環を指に嵌め、途端に襲い来る世界がねじれるような感覚を、目を閉じてやり過ごす。ゆっくり三秒数えて目を開けると、景色は見慣れた屋敷の玄関ホールに様変わりしていた。
「……主様」
帰ってきたことにほっと息をついた女に、暗がりから声をかけるものがいた。夜目の効かない彼女は、そこで初めてホール中央の大階段に腰掛ける執事の姿に気づいた。
「あれ、ラト?」
「はい……おかえりなさい」
「うん、ただいま」
名を呼ぶと、ラトはふらりと立ち上がった。濃いピンク色の髪が、彼の動きに合わせて揺れる。いつも三つ編みに結われている長い髪は下ろされており、シャンプーのコマーシャルかのようにさらりとたなびいた。
「ラトがこの時間まで起きてるの、珍しいね」
彼のほうへゆっくりと歩み寄りながら、女は言った。
月が満ちるごと、情緒不安定になっていたラトの就寝は早い。彼が満月に狂わされることはもうないけれど、体に染みついた長年の生活リズムは早々変わるものではないらしく、いつも二十一時を過ぎると眠そうにしている。
同室のフルーレも、美容のためにと早寝を心がけていて、夜更かしは苦手だ。そのためミヤジも二人に合わせ、地下の部屋は消灯時間を二十二時に設定しているという。
現在時刻は、二十三時少し前。いつもはもっと早く帰ってこられるのだが、今日はたまたま終業ギリギリに急ぎの仕事が舞い込み、残業を余儀なくされてしまった。帰宅が遅れると知らせに戻った際、ロノに夜食を頼んでおいたので、女はそれを食べに来たのだった。
宵っ張りの彼女にとってはそれほど遅い時間ではないが、ラトはいつもなら寝ている時間だ。眠れないのだろうか。そうだとしても、なぜこんなところで座り込んでいるのか。
「いつもどおりにベッドに入ったのですが、目が覚めてしまいまして。胸のあたりがザワザワするので、ここで主様を待っていました」
「そっか……そうなんだね」
淡い微笑を浮かべたラトは、シャンデリアの揺らめく明かりに照らされて、やけに儚げだった。このまま夜の暗がりに解けていってしまいそうな、そんな雰囲気がある。
「ラト」
呼びかけて、彼女は手を差し出した。
「私、これから厨房に行くんだけど、つきあってくれる? 夜の屋敷は暗いから、ラトが一緒にいてくれたら心強いな」
きょとりと秋の空色をした瞳を瞬かせ、ラトは女の手を取った。節ばった、大きな傷だらけの手は、酷く冷たい。
「クフフ……どこへなりとおつき合いいたしますよ。そもそも私は、あなたに会いたくてここにいたのですし」
重さを感じさせない動きで立ち上がり、ラトは笑みを深める。表情が変わると儚い気配はなりを潜め、妖しいまでの艶やかさが漂い出した。
この屋敷が女の帰る場所になってしばらく、ラトともそれなりの付き合いになる。だが、彼の纏う空気は変化の振り幅が大きすぎて、未だに戸惑ってしまう。
内心ドギマギしながら、彼女はラトの手を握りしめた。彼の冷えきった指先が、温度を取り戻すことを願いながら。
厨房に入ると、ラトが明かりをつけてくれた。
キレイに片付けられた作業台の上に、メモが置かれている。ロノが女にあてて残したものだ。コンロの上の鍋にスープが、戸棚にパンが入っているという内容だった。
女は慣れた手つきでコンロの火をつけると、お玉で鍋をぐるぐるとかき混ぜる。手持ち無沙汰そうにしているラトに、器とスプーンを二つずつ出してほしいと声をかけて、自分は冷蔵庫からパセリを取り出した。それを、包丁で細かく刻む。程よく温まったスープを器に移し、片方には彩り程度に、もう一方には山盛りのパセリを乗せたら完成だ。
「よければ、ラトも一緒に食べよう? ラトの分は、パセリたっぷりにしたからさ」
「……ふむ。主様が用意してくださったものですしね。せっかくなので、いただきます」
「うん、ありがとう」
ラトはパセリ以外の食材に興味がない。パセリを大量に投入したとはいえ、さまざまな食材を煮込んだスープを食べてくれるかどうか、正直なところ可能性は半々というところだった。
受け入れてくれたことに安堵した女が礼を言うと、ラトは不思議そうに首を傾げる。
「なぜ、主様がお礼を言うのですか? 用意していただいたのですから、私がお礼を言うべきところでしょう?」
「そうかもしれないけど。でも、ラトが一緒に食べてくれるの、嬉しいから」
「……そうなのですね。よくわかりませんが、主様が喜んでくださったのなら、私も嬉しいです」
「うん。さあ、食べよう。いただきます」
「いただきます」
手を合わせてから、スプーンを手に取る。しょうがの風味が効いたスープは、ロノが作っただけあってとても美味しかった。
しょうがには、食欲増進や疲労回復に効果のある成分が含まれているのだ。疲れて帰ってくる女のことを考えて用意してくれたことがわかって、心まで温まるようだ。
「不思議ですね」
静かにスープを口に運んでいたラトが、ぽつりと言った。パセリ以外をほとんど食べない彼には珍しく、器の中身が空になっている。
「どうかした?」
「温かいものを食べてお腹が温まる、というのは理解できるのですが……このスープを飲んでいると、胸の辺りまで温まる感じがして。ふむ、これはどういうことなのでしょう?」
図らずも、ラトも女と同じことを考えていたらしい。彼は不思議でたまらないという顔で、中身のない器を覗き込んでいる。
それは、ラトが嬉しいと感じているからだ。そう解説してやることもできたけれど、女は「それは不思議だね」と話を合わせ口を噤むことを選んだ。
幼い子どものように、思ったことをそのまま声に出すラトのことだ。胸の温かさが喜びであることを知れば、自分がなにに喜んだのか考察し、気づいたこと全部を教えてくれるだろう。それは、あまりに面映ゆい。
パセリを山盛りにしただけの、アレンジとも呼べない味変だが、ラトに喜んでもらえたのならよかった。用意した分を完食してくれたことも嬉しい。そんなふうに思って、女の胸もまた優しい温もりに包まれた。
使った食器や器具をキレイに片づけてから、二人は厨房を後にした。
ラトは当たり前のように、女を寝室までエスコートした。ドアの前で、就寝の挨拶をする。ラトの動きに合わせて揺れる長い髪に彼女は、そういえば彼は上手く寝つけなかったのだということを思い出した。
心配になって、訊ねる。
「ラトは、眠れそう?」
玄関で会ったとき、胸がザワザワすると言っていたから、もしかしたら良くない夢を見たのかもしれない。平和な国でのほほんと生きてきた女からすれば、ラトの過去はあまりに凄惨だ。もし、昔の夢を見たのだとしたら。
乗り越えたと彼は言うが、受けた傷や痛みが全て消えたわけではないはずだ。食事を分け合うことで、冷えきっていた彼の体を温めることはできたかもしれない。だが、心のほうはどうだろう。
そんな女の不安とは裏腹に、ラトは穏やかな顔で首肯した。
「はい。あんなにざわめいていた心が、今は嘘のように穏やかになっていますから。……主様は、今夜はこのまま、こちらで過ごされるのですよね?」
「うん。そのつもりだよ」
「でしたら、安心して眠れます」
微笑んで、ラトは女の手を取った。そして甘えるように、あるいは祈るように、柔い手のひらに頬を擦り寄せる。
「主様が屋敷にいない日の夜は……長くて、深くて、寂しさに溺れてしまいそうになります。でも、こちらにいてくださるときは耐えられるんです。朝が来たら、またすぐ主様に会えますから」
「ラト……」
ほとんど衝動的に、女は空いているほうの手もラトの頬に当てていた。言葉にならない感情を発散するかのように、手を動かす。黒猫執事の頭を撫でてやるときと同じ、いのちを慈しむ手つきだ。
ラトはしばらく、女にされるがままにしていた。けれどやがて、掴んでいた手を離して、一歩分だけ足を後退させる。
「主様の手は温かくて、とても名残惜しいですが……私はそろそろ部屋に戻ります。いつまでも、こうしてお引き止めするわけにいかないですしね」
そう言うわりに、ハア……と大きなため息をつくものだから、女は思わず苦笑を零した。
ラトは、いつでも気分の向くまま振舞っているように見える。しかし女といるときの行動には、いつも気遣いや優しさが見て取れた。今も、彼女を休ませるために、自分の欲求を抑えているのだろう。
「おやすみ、ラト。ラトの見る夢が、いい夢でありますように」
「私は大丈夫です。きっと、あなたの夢を見ますから。主様も、できれば私の夢を見てくださいね。そうすれば、朝まで会えなくても寂しくありません」
「う、うん……そう、だね」
「では、主様。おやすみなさいませ。また明日、一緒に過ごしましょう」
頭を垂れるラトにひらりと手を振って、女は寝室に入った。
なんだか、すごいことを言われた気がする。直前のやりとりを反芻して、彼女は頭を抱えた。
ラトが女に対して抱いているのは、家族に向ける感情だ。彼自身が以前、そのように言っていた。同室のミヤジとフルーレ、そして主人たる女のことを、家族のように思っている、と。
だというのに、勘違いしてしまいそうになる。女に向けられるラトの言葉の一つひとつが、あまりにも熱烈で。
あんなふうに、言われてしまったら――
「…………こっちで過ごす時間、もうちょい増やすか」
長く、深く、寂しい夜が、彼を飲みこんでしまわぬように。夜更けにはおやすみを、陽が昇ればおはようを、日毎言えるように。
明日、目が覚めたら、一番にラトに会いに行こう。そして、今夜見た夢の話をするのだ。ラトの夢には、本当に女が登場しただろうか。