偕老同穴の契り リビングで華やかな旋律が鳴っていた。
暁人はニンジンに包丁を入れかけていた手を止め、背後を振り返った。視線の先、二人で使うにはやや手狭なダイニングテーブルの上で、暁人のスマートフォンが細かな振動を繰り返している。暁人お気に入りのこのメロディは、パートナーであるKKだけのものだ。
今朝、朝食の席で彼から聞いた話では、怪異調査には一晩中かかるだろうとのことだったが、予想外に早く終わったのだろうか。暁人は包丁をまな板の上に置き、ざっと手を洗うと、キッチンと地続きのリビングへ早足で向かった。
ともに暮らしはじめた当初から口を酸っぱくして言い聞かせてきた甲斐あって、KKはここ最近、ようやく予定変更の連絡をちょくちょく入れるようになってきていた。この着信も、そのためのものかもしれない。彼と一緒にご飯を食べられるのであれば、少しくらい夕飯が遅くなってもまったく構わないし、たとえ夕飯には間に合わなくとも、一緒に眠れるならやはり嬉しい。
暁人は鼻歌混じりにスマートフォンを取りあげると、通話ボタンを押した。
「悪いな、急に」
スピーカーから届いた第一声は、唐突な謝罪だった。彼が開口一番にこんな殊勝な言葉を投げかけてくるなど、そうそうあることではない。
暁人は目を瞬いた。
「別に謝らなくていいよ。ダメなら電話とらないし。そう言うKKこそ、急にどうしたんだよ?」
仕事中に電話をかけてきたことや、突然のしおらしい謝罪。暁人は様々な意味をこめて問いかける。
返答までに、ほんのわずかな間があった。
「いや、この時間なら、ちょうど夕飯でも作ってたんじゃねえかと思ってな」
「うん、まあ、作ってたところだけど……」
かすかな笑いを含んだ彼の言葉は、暁人の疑問にまったく答えていない。暁人はかすかに眉根を寄せた。
「ねえ。もしかして仕事終わったの? 晩ご飯はいる? いるならKKのぶんも作るけど」
またいくらかの間があいた。
「いや、まだ終わってねえ。むしろ予定より時間がかかりそうだ」
「そうなんだ」
「おう、だから朝飯もいらねえよ」
「そっか。わかった」
スマホの向こうにいるKKへ、見えもしないのに律儀に頷きかけながらも、暁人は漠然とした違和感を覚えていた。
やたらと殊勝な態度や噛み合わない会話も引っかかるが、なんだかんだ言って真面目なKKが、仕事中に緊急でもない電話をかけてくるだろうか。おまけに、このひどいノイズ。まるでスマートフォンのマイク部分に直接強い風が吹きつけているかのようだ。だが、最近のものはノイズキャンセリングがしっかりしているし、そうでなくとも、彼のスマートフォンには凛子やエドによる改造が山ほど施されている。
これは何か、普通ではないことが起こっているのではないだろうか。
「KK?」
「おう」
「何かあった?」
またしても、不自然な沈黙があった。
「いや」
KKの返答は簡潔で平坦だった。「何でそんなことを訊くんだ」と問い返してくることも、「心配性だなお暁人くんは」と茶化してくることもない。
暁人は確信した。
「何かあったんだね」
「いや別に……」
「KK!」
ごうごうと轟くノイズの向こうで、彼が溜息を吐いたのが分かった。
「あー、まあ、ちょっと色々あって、面倒なことになりそうでな。面倒なだけで大したことはねえんだが、解決までに時間がかかりそうなんだ。だから……」
「大したことないのに、仕事中にわざわざ電話をかけてきたんだ?」
暁人は、だらだらと続きそうなKKの言葉を強引に遮った。胃から喉元へとせりあがってくる冷たい焦燥感を飲み下しながら、意識して嫌味ったらしい声をだす。
「予定に変更があったらちゃんと連絡してって、僕が何度言ってもなかなかしてくれなかったのに?」
KKは挑発に乗ってこなかった。間断なく聞こえていた風の音が、ほんの一瞬、すべて途絶える。
彼は通話を切ろうとしている。確信が胸を刺し、暁人の胃が激しく縮みあがった。考えるより先に言葉が飛びだす。
「そっちに行く!」
「来なくていい」
KKが静かに即答した。
「言っただろ、面倒なだけで大したことねえって」
声音こそ穏やかだが、妙に早口だ。
「嘘つくなよ」
「嘘じゃねえよ」
これまでの不自然な間が嘘のように、ぽんぽんと小気味よい応酬が続く。それだけなら普段どおりなのだが、KKお得意の、暁人をからかって楽しむような意地の悪い言葉が、いっこうに彼の口から出てこない。
やはり、何かが起こっているのだ。彼がこんな不自然な行動をとってしまうほどの、ひどく恐ろしい何かが。
暁人は手汗で滑るスマートフォンを握りなおした。深く静かに息を吐きだしてから、もう一度、ゆっくりと吸いこむ。
「助けに行くから」
きっぱり言い切ると、KKは押し黙った。
「あんたを助けに行く。だから、詳しい場所を教えて」
答えを待つことなく暁人はたたみかけた。
「言わないなら、勝手に繋がりを辿っていくから」
「バカ! やめろ!」
元刑事の本気の怒鳴り声にも、今の暁人を怯ませる力はない。むしろ、それほど大変な問題が起こっているのだと、自ら白状したようなものだ。
暁人はKKを真似て、わざとらしく鼻をならした。
「嫌だね」
あれこれと勝手に膨らんでゆく嫌な想像と、全力疾走したあとのように早鐘を打つ心臓、背筋を伝うぬるついた冷や汗。縋るようにスマートフォンをきつく握りしめながら、しかし口調だけは余裕ぶったまま、暁人はうっすらと笑った。
「あんたでも危険を感じる場所に、状況も分からない僕が一人でつっこんでいくのと、あんたが素直に場所と状況を教えて、僕が凛子さんやエドさんたちと連携をとりながら助けに向かうの、どっちがいい?」
声にならない唸り声が、ノイズを越え、はっきりと耳に届いた。
夕陽で赤く染まったリビングに、暁人のやや速まった呼吸音が響く。いつの間にか全身に不必要な力が入り、両肩が大きく上がっていた。自覚した暁人は、スマートフォンを握る手とは逆の手をダイニングテーブルにつき、固く目をつむった。KKが好んで置いているアナログ時計の、チクタクと規則正しい秒針の音に意識を集中させ、胸のうちだけでひたすら数を数える。
しばらくして、吐息交じりの低く静かな声がスマートフォンから聞こえた。
「マレビトとやりあってるうちに、近くにあった祠を壊しちまってな」
「え、祠って……」
暁人は呆然と目を見開いた。
「つまり、神様の家をダメにして、怒らせちゃったってこと?」
「一口に神と言ってもピンきりだが……。まあ、そういうことだ」
想像していた以上の事態に絶句していると、はぁ、とKKが大きな溜息をついた。
「これで分かっただろ。相手はそこらの雑魚妖怪やマレビトなんか目じゃねえ大物だ。だからオマエは大人しく……」
この期に及んでまだ何かごちゃごちゃ言いかける分からず屋の言葉を、暁人は一刀両断した。
「神様だろうと関係ない。そこに行く」
「暁人!」
音が割れるほどの大声に、負けじと言い返す。
「うるさい! 行くって言ってるだろ!」
両足に力をこめて踏ん張り、ひゅっと音をたてて息を吸いこんだ。
「いいから、場所を言えよ!」
いつになく乱暴な命令口調で怒鳴ってから、一転、暁人は調子を落として付け加えた。
「じゃなきゃ、勝手にあんたのとこへ行く。これは脅しじゃないから。本当に一人で行くからね」
これまでで一番長い沈黙があった。暁人は黙ってKKの答えを待った。
数分、あるいは数十秒。
「……正確な位置までは分からねえが、ここは○×県△□市の、」
感情を押し殺したような、ごく低い声で伝えられるおおよその住所と、場所の目印になる特徴を、暁人は素早くメモした。
「凛子さんたちはもう知ってるの?」
「いや、まだオマエだけだ」
思いがけず早く終わった怪異調査に、事務所で待つメンバーへ直帰の連絡をすませ、山の麓まで下りたところでマレビトに遭遇した。そして、この事態に発展したのだという。
「なんせ相手が相手だ。オレ一人でどうにか収められそうなら、そうするつもりだったんだが、思ったより旗色が悪くてな」
本当は暁人にも電話するつもりはなかったのだと暗に言っているKKの、自嘲のにじむ乾いた笑い声を聞きながら、暁人は泣きたいような心持ちになっていた。
例のあの夜が明ける直前、黄泉平坂で。亡霊だったKKは、もう思い残すことなどないと言わんばかりの清々しい声で、暁人にパスケースを託した。あのときの彼の、朗々と芯の通った声は、間違いなく本物だった。彼は家族と世界を守りきり、約束通り暁人を妹のもとへと導いたことで、心の底から満足していた。山ほどあっただろう未練に折り合いをつけ、素直に成仏する気でいた。
そんな男が、今、暁人に電話をかけてきている。彼は惜しんでいるのだ。暁人とともに暮らす何気ない日常を。そして、甘えているのだ。これほど露骨で思わせぶりな電話をかけてくるくらいに。
「KK」
「なんだ、暁人」
暁人が彼の名を呼べば、彼もまたすぐに暁人の名を呼び返してきた。
「ちゃんと約束する。一人で突っ走って無茶したりしない。だから……」
何度も唾を飲みこんでから、暁人は努めて静かな声で言った。
「だから、KKも約束して。一人で勝手に諦めないって」
お願いだから、と胸のうちだけでつけ加える。
「僕の命はKKが握ってるってこと、忘れないでよ」
「……卑怯者め」
地を這うような低音が、暁人の鼓膜を打った。
どっちがだよ。喉元までこみあげた言葉を、暁人はとっさに呑み込んだ。かわりに、笑い混じりに本音を吐きだす。嘘偽りのない本心を。
「バカでも卑怯者でも何でもいいよ。……この先もKKと一緒にいられるなら」
笑いで紛らわせようとした声のふるえは、おそらく彼にも伝わっているだろう。暁人が、何気なさを装う彼の声から、強い違和感を覚えたように。
暁人はそれでも良かった。それで良かった。何かと一人で突っ走ろうとする、分からず屋の自称一匹狼には、きっちり理解してもらう必要があるのだから。
目に痛いほどの夕焼け色からひっそり暗い藍色へ。急速に色を失いつつあるリビングを、暁人はゆっくりと見渡した。陽射しがないというだけで、体感温度はあっという間に下がってゆく。カーテンの隙間から入りこんだ夜の気配が、暁人の全身を押しつつんだ。
ここから先は、この世ならざる者たちの領分だった。KKの言葉どおり、祓い屋としてはまだまだひよっこの暁人など、吹けば飛ぶ程度のちっぽけな存在でしかない。だが、それでも。
暁人はテーブルについていた手を離し、しゃんと背筋を伸ばした。スマートフォンの向こうにいるKKの名を、己の胸に刻みこむように、はっきりと呼ぶ。
「絶対に助けるから」
わずかな沈黙のあと、くっと喉の奥で笑う声がした。
「頼もしいねえ、頑固者の暁人くんは。まあ、オレが全部片づけちまう前に、せいぜい頑張ってくれ」
「助けてもらう人のセリフじゃないよ、それ」
「オレは頼んでねえからな」
傲岸に笑うKKの声には、あの夜明け前と同じく、芯の通った力強さがあった。
きっと、今の彼に電話をかけてきた当初の弱気はない。普段のKKも十分強いが、覚悟を決めた彼はもっと強い。もしかすると、本当に自力で何とかしてしまうかもしれない。それならそれで、出会い頭に一発殴ってから、遠慮なくご飯を奢ってもらえばいい。そのうえで、ご当地グルメを山ほど買ってもらうのだ。
暁人はみぞおちの前で拳を握りしめて気合いを入れると、まずは事務所に向かうため、リビングを飛びだした。