腕時計「Scout、今は何時だ?」
亡霊のように気配のない上司というものはどんな職場であれゾッとするものである。それが護衛対象であればなおのこと。
「ドクター、何度も言っているが俺はアンタ専用の一一七サービスじゃない。とうとうその持ってる端末の右上の数字が見えないほど目が悪くなったのか?」
「年寄りだと言わないでくれ、さすがの私だって傷つく言葉くらいはある」
左肩にずい、と顎を乗せながら、出会った頃からまったく変わらぬ相貌の男はじっとこちらの左手首を見下ろしてきた。そこにあるのは高級でも高価でもないただの古ぼけた軍用腕時計で、頑丈さから買い替える機会を失ったまま長らく使い続けていた品だった。
「現在、午後の十七時三十七分四十秒。俺はアンタのコートのどのポケットに懐中時計が入っているのかもおぼえてるんだがね」
「あれは作戦中にだけ使うようにしてるんだ。切り替えのためにね」
「そんなものがアンタに必要だったとはな。いつだって頭の中で駒と数字が飛び交ってるものかと」
「うんまあ、仕事は山積みで一分一秒だって惜しい」
「ならこんなところで悠長に部下に時刻なんて聞いてる暇はないだろう」
「今日の君は冷たいな。私は何かしてしまっただろうか」
正面から会話をする気はさらさらないらしく、のらりくらりと話を逸らされる。いつものことではあるが、今日という今日はさすがのScoutもたまりかねるものがあった。なので、
「ドクター、左腕を出してくれ」
「うん?」
疑念もなく差し出された腕の細さにゾッとしながら、自分の手首から外したばかりの腕時計のベルトをぐるりと巻いてやる。
「これで、わざわざ俺なんて探さなくともいいだろう。文字盤の読み方のレクチャーは必要か?」
「…………」
目の前の彼はといえば非常に珍しくポカンと呆けたような表情で自らの左手首を眺めている。その表情にやや胸のすく思いをしながら、その一方で一体何をしているのかと自問自答する自分を覆面の下に無理やり押し込んだ。
「もらっていいのか」
「ああもうアンタにやるよ。気に入らなけりゃそこらへんに捨ててくれ」
「そんな勿体ないことするもんか! 本当にいいんだな? キャンセルはあと半日くらいなら受け付けよう」
「……俺の腕時計がそんなに気に入っていたのか」
「君の一部だ、君と一緒に時を刻んできたものだ、当然だろう」
「そんな大したもんじゃあないんだが」
ひょっとして彼には腕時計を集める趣味でもあったのだろうか。というにはあまりにも安物の量産品であるのだが。疑念は際限なく積みあがっていくものの答えなど聞けるはずもなく、困惑のままにウキウキと声を弾ませる彼を眺めることしかできない。
「嬉しいな、とても嬉しい。だがこのままでは悪いから新しいのを探しにいこう。君の好きなものを選んでくれ」
「おい、アンタ仕事は」
「購買部は艦橋への通り道だよ、クロージャがまだいてくれるといいんだが」
「えっなになに? ドクター腕時計欲しいの? じゃあさ、お偉いさんたちとの会談とかでも舐められないようにこっちのピッカピカの――」
「残念ながら、欲しいのはScoutのものなんだ。彼みたいにタフでかっこいいのはないかな」
「なーんだ。ならさ、そのベルトはドクターにはぶっかぶかだから調整が必要と思うんだけど?」
「商売上手だな、クロージャ。君の才能にはいつも惚れ惚れするよ」
テキパキと進む会話に介入する糸口を見つけられずにいる間に、あれよあれよという間にScoutの目の前には鈍く光るクロームの新品が鎮座ましましていた。
「あまり操作性などは変わらないほうがいいだろうから同一シリーズから選んだが、他に気になるものがあれば遠慮なく言ってくれ」
「どう考えても、俺よりもアンタのほうがこれを身に着けるべきだと思うんだがな」
「嫌だよ、君からもらった時計はもうベルトの調整に出してしまったんだ」
どうしてそんなに嬉しそうなのかはさっぱりわからないが、少なくとも上司の機嫌が良いというのは仕事のやりやすさに多大なる影響を与えるものである。そもそも、彼が何を考えているのかなど出会ってからこちら理解できたことなど一度もないのだから、これだって考えるだけ無駄ではあるのだろう。渋々とすすめられるがままにケースから取り出した新品の腕時計は当たり前のようにしっくりと手首に馴染み、その表面にニコニコと上機嫌な上司の顔を映している。ここまで来たからには逆らうだけ無駄だ。遅い昇進祝いのつもりで受け取ることにして、Scoutは疲れた――それでも聞く者によっては幸せそうな――ため息をついたのだった。
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「彼の部屋の整理のために君の手を借りたい。ずっとあのままということにも出来ないからな」
君は彼の私室に入ることを許された数少ない人間だと聞いてる。そう告げた怜悧なフェリーンの目の下には誤魔化しきれないほどのひどいクマが浮いていた。
彼がこの艦から姿を消して一か月、もう一か月も経ってしまったのかとその時間経過の速さに改めて驚いてしまう。多忙を理由にできるだけ考えずにいたことは否定はできない。だがその不在の大きさについて正面から考えられるほど傷痕は浅いものではなかった。
与えられたキーをかざせば、記憶の中の通りの無機質な部屋がScoutを出迎えた。何度も足を踏み入れたことがあるはずなのにいつだってよそよそしいその部屋は、主が不在となったところでいっこうに変わりなく異物を歓迎しない。その針の筵のような雰囲気に安堵しながら、指定された通りの書籍やファイルを片端から持って来たボックスへと積み上げていく。彼の部屋には私物と呼べるものが極端に少なかった。プライベートといえる時間などほとんど持っていなかったのだから当然の帰結なのだろう。何もかもが頭の中に入っていたから、資料などもすぐに手放してしまうため残されていたファイルはどれも内容がちぐはぐで、その思考の一端すらつかむことは難しかった。そうやって俺たちが何もかもを押し付けてしまったから、彼の両脚はもうどこにも立つことが出来なくなってしまったのだ。
頼まれごとはすぐに終わってしまった。リストと照合し抜けがないかをもう一度だけ確認する。彼のいないこの場所になど一秒だっていたくはないのに、出て行こうとする足は凍り付いたように動かない。短くはない時間をここで過ごしたことがあるはずなのに、詳細な内容を思い出すことはあまりにも困難だった。まるで彼が記憶ごとその魔法の指先で封をしていったかのように。違う。思い出したくないのは俺自身だ。この部屋には、あまりにも多くの思い出が残っていた。
のろのろと顔を上げた先、彼が良く腰かけていた作業机の上にひとつ残された物を見つけた。それは何の変哲もない腕時計だった。まるで不意の用事に置き忘れ、今すぐにでも持ち主が取りに現れそうなほどに無造作に、その傷だらけの腕時計は机の端に置かれていた。
「――――――――」
言葉など、出ようはずがなかった。いつも通り、彼にはわかっていたのだ。自分の身に何が起こるのかも、その結果どうなってしまうのかも。最後に見た血まみれの姿を思い出す。こちらのことなど一瞥もせず、震える足取りで支えられながらどこかへ去っていくその後ろ姿を。もちろん持ち場を離れることなど論外で、防衛線を維持していなければ最悪全滅していてもおかしくない、そういう戦況だった。掛ける言葉など何もなく、交わす意思すら存在しえない。それすらもまた彼の予想のうちの出来事にすぎなかったのだろう。それでも、
「どうして、連れて行ってくれなかったんだ」
机の上の腕時計は男の慟哭などそ知らぬ顔で、ただただ正確に時間を刻んでいた。
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「私は彼の顔を眺めるが好きなんだけれど、彼はどれだけ遠くからでもこちらの視線に気づいて振り返ってしまうんだ。だから時刻を聞いて腕時計に目線を落とす一瞬の横顔を存分に――って何故『聞かなきゃよかった……』みたいな顔をするんだ、Ace! 君から聞いてきたことだろう!?」