「ただいま〜…って、さすがにみんな寝てるか」
リビングへ続く戸を開きながら条件反射のように零れた言葉に、深幸は自らで応えた。
日を跨いだ午前零時過ぎのこの時間に明かりの1つも付いていなかった為、暗がりの中には誰もいないものだと思ったが、部屋の角でデスクのライトにぼんやりと照らされる丸い人影に気付いた。
該当する人間なんて1人しかいない事はわかっていながらも、肩が微かに飛び跳ねた。
賢汰の耳にはヘッドホンが装着されており、深幸が入ってきた事には気付いていないようだったのが幸いだった。
新しいデモでも聞いているのだろうか、後ろ姿だけでは深幸にはわからなかった。
「…ったく」
パチッ、と、静かな室内で音を立ててリビングのメインの照明を付けると、さすがに顔を上げた賢汰はヘッドホンを外しながら振り返り、深幸の姿を確認した。
「あぁ、深幸か。おかえり」
「ん、ただいま」
同じ家に帰る、と言うのは、同じ家に住んでいるのだから今だからこそ当たり前になっているが、礼音や涼からとは違い、賢汰の「おかえり」には、深幸は未だにむず痒いものを感じていた。
バイトから帰宅する時間的に、こうして出迎えてくれる率は賢汰が圧倒的に高い。
今日のように自室ではなく、リビングで作業をしている事も少なくないせいで、尚更だ。
いい加減慣れても良いのにとは思いつつ、そう簡単にはいかないものだから困る。
挨拶もそこそこにパソコンへと向き直る賢汰を見届けながら、深幸はため息を一つ零した。
今夜は何時までこうして作業をし続けるのだろうか。
脳裏をふと過ぎり、深幸は自らで驚く。
照明を付けたばかりの目の慣れない状態では、今こちらを向いた賢汰はいつものように口端を少し釣り上げて笑み、いつも通りだなという事だけ。細かい顔色までは伺う事が出来なかった。
涼しい顔をして何でもそつ無くこなしているように見せているが、過労が祟り時折医者のお世話になっている事も知っている。
深幸に知られたところで構わない、と思っているのか、決まって迎えの連絡が来るからだ。
無理をするなと言っても、この男は薄らと目の下のクマを携えた顔で、これぐらい大したことは無い、と言う。空で浮かぶ程には何度も聞いたセリフだ。
都合よく人の事を使っておきながら、こちらの忠告に聞く耳を持たない事への腹立たしい気持ちと共に、深幸は毎度悲しくなった。
人には言うくせに、自分では聞かない、頑固で融通の効かないところが本当に嫌いだ。
何故、賢汰の事を考えて俺の方が苦しくなっているのか。
わけが分からない。
分からないのに、嫌いなのに。
諦めて見逃し続けられるほど弱くもなく、強くもないと悟ってしまった自身に、堪えるように唇を噛んだ。
深幸の足はゆらりと賢汰のデスクの方へと向かい、消えないどころか大きくなるその気配に賢汰は再び振り返った。
深幸の浮かべる苦虫を噛み潰したような表情は、今夜のバイトが忙しかったからなのだろうか。
また小言が飛び出してくるのかと思えば、どうやらそうでもないらしく賢汰は首を傾げた。
「…少し休憩するか」
意図が読めず、読めたところで定かかどうかはさておき、自分用のコーヒーのついでに深幸の分も淹れてやるかと賢汰が立ち上がった。
チェアの背もたれにいつものジャケットをかけたまま、深幸の傍を横切ったところで、ほんの小さな衝撃を受け賢汰は立ち止まった。
すとん
微かな布ずれの音と共に、後ろから肩に重みを感じた。視界の端に垂れる艶やかな金髪を確認して、ただただ賢汰はその重みを受け止める。
腕を回すでもなく、何を言うでもなく、触れずにただそのまま。
耳元で深幸の呼吸を感じた。
てっきり泣いているのかとも思ったが、それは乱れもなく、穏やかに、吸って吐いてを繰り返している。振り払うでもなく、賢汰の呼吸もゆっくりと足並みを揃え始めた。
ソリの合わないはずの深幸と賢汰で、文字通り息を合わせているこの時間が、賢汰には少し愉快に思えた。
伏せたままの表情は横目では全く伺えず、身長差を考えると、首が痛くなりそうだな、つらくないものなのだろうか、などと、雑念も浮かんだ。
どんな気持ちでこうして深幸が身を任せているのかは、賢汰には到底分かりようがなかった。
「…何も、言わないんだな」
ようやく口を開いた深幸は、探るように囁いた。
声色は至極落ち着いていたが、あまりに近すぎるせいか、微かに震えて聞こえもした。
「何か言って欲しかったのか?」
「いや…、別に」
口ぶりとは反して、離れる様子はない。
賢汰からの返答もいつもと特段変わりなかったが、目を閉じ、先程とは違い至近距離で存在を確かめた事で僅かに安堵を覚えた。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、同時に顔を上げていくと、賢汰の肩は軽くなった。
深幸の重みの名残りを撫でながら振り返ると、真剣な面持ちの深幸に思わず賢汰の瞳が揺れる。
揚げ足でも取ってやろうかなどという意地の悪い考えも瞬時に去ってしまい、踵を返そうとした刹那、深幸の絞り出すような声に賢汰は耳を傾けた。
「賢汰、」
「なんだ?」
「…もっと、頼れよ」
それは、何度も聞いた言葉だった。
なのに、胸が少し締め付けられたような気がするのは、先程の重みがまだ肩に残るからなのだろうか。
「そうだな」
いつも通りの言葉を返しながら、賢汰は2人分のコーヒーを淹れる為に深幸へ背を向けた。