輝いて、一番星 今、おれは真夜中の窓辺でこの日記を書いている。
部屋の時計は、チクタク。
身体は疲れ切っててクタクタ。
それでも眠るには目が冴えて仕方がない。窓外からは穏やかな波の音がしている、これならあと数分もしたら健やかに眠れてる気もする。本当は今までも船暮らしだったのだから、特殊な環境にある訳じゃないだろう。だとしたら、心が落ち着かないのが理由じゃなくて今までは皆のイビキがすごくて眠れなかったのかも、だ。
─── ほんと、コイツ寝息がほとんどしねェから心配にもなるよな〜…。
そっと二階建てベッドを覗き込めば、多少胸を上下させている姿がある。うん、いつ見てもこの髪型は面白い。刈り上げてるのかな、とかマジマジ流石に観察したこともあったけれど、どうやら昔からそうらしい。パイナップルが化けて出たっておれの感想は極々自然だ。綺麗な金髪だなぁ、なんて思ったり。船長さんも綺麗な長髪だ、マルコのと違って波打ってるあの髪───、ヌードルだよなぁ。うん、早く厨房で色々と使える人間になりたい。一度浮かんじまうと頭から離れねェもん。
人間、食える内が華だ。
体が弱れば、生きるのに必要なものがどんどん抜け落ちて行く。食欲がない、どうしても食べられない。そんな時には無理なんてさせたくはない。そいつが食うのが苦しみになっちまったら、コックなんて何も出来ないんだ。だから、食えないならば、食いたくなるような料理を作れば良いんだ。それが、たった一切れのレモンだったとしても。たった一口分のスープだったとしても、妥協しちゃいけねぇ。そう、ガルニ料理長が教えてくれた。
残念なことに、おれは"経験 "ってもんが足りない。理想と実力は伴ってない。味は千差万別好みは様々。世界一のコックなんてものは目指してないが、おれの生き甲斐の為に、おれは妥協も停滞もしちゃいけない。
─── そうだろ?ジル。おれがまだ生きてる理由なんて、たった一つなんだから。
迷い、立ち止まりそうになった時、誓いがおれを強くする。なぁ、おれこの船の海賊達が好きになりそうだよ。
アイツらさ、笑わないんだ。
一回も、誰もおれの夢を笑わないんだ。
笑われるのを覚悟しての言葉を、すんなりと受け止めてくれたんだよ。まるで柑橘のグラニテだ、島を出て初めて口にした甘さに満ち溢れて濃厚な菓子にも素晴らしく感動したけど、それとはまた違う。特別なものとしなかったんだ、当然のことで、それは朝が来たから日が昇って、夜になったから月が昇ったとそれくらいに当然なことで。誰も笑わずに、誰一人嗤わなかった。
でも不安になるからさ、おれ聞いたんだ。マルコは今の所おれの恩人で、でもってすごく当たりが強い!そりゃもう、拳なんか平気で飛んでくるし、ひどい時なんか海に駆り出されたりするんだから、海賊って怖ェ!けど、嫌なヤツじゃないし、正しい。おれだって、生まれた状況に何も不満がなけりゃわざわざ海賊になろうだなんて思わない。この船は強いヤツらが揃ってるけど、海軍に対しての戦闘以外には敵戦に対してかなり好戦的で、おれなんか調理人達は見習い含めて基本的に厨房に籠ってるしかない。
海賊だから当然と言えば当然だし、本当はコックよりも戦闘員の方が本職なんじゃないかって思う位に強いヤツばっかりだ。でも腕や手を傷付けたら厨房で出来ることはグッとなくなっちまう。これはマジだ。ソイツがいくら強くても、痛みがなくても。指先ひとつ切っちまったら出来ることはほぼなくなる。マルコが、アイツなら治癒の力(マルコは悪魔の実の能力者で、その炎には再生の力がある。自分以外にはほぼ効かないって言ってるけれど、他人にだって効果はある。多分、もう少し能力と経験を重ねたら、人一人位直ぐに治せるんじゃないかって思うくらいには)でそんな怪我なら簡単に治しちまうだろう。
それが分かってるからコック達は大人しくしてるんだ。おれは単純に弱いからだけど、ここの戦闘員ばバケモノみたいに皆強い。だから、無理。絶対無理。無理無理。そんな弱々のおれがこの船に乗ってても厄介だってのは分かる。それと、自惚れで良いならおれみたいな弱いヤツが渡って行くには難しい海だから、早めに放り出そうって気持ちが優しさなのも分かってる。(だからと言って、海に物理的に放り出してりゃ一緒な気がするけど)
だから、早く認められるようにならねェと!
幸いにも、二週間は猶予をもらってる。おれは絶対にこの船に乗って、そして夢を叶えるんだ。ってその為には早く寝ないとだけどさ。この日記が、たった数日で終わらないように、これはおれなりの"航海日誌 "だ。"後悔日誌 "になんかはなりませんように…って、こりゃ眠気も相当だ。寝よう。
あ、そうだ。日誌なら名前を付けないとな。続ける気になるような、気の利いた名前がいい。料理は味覚も嗅覚も聴覚も視覚も重要だけど、気の利いたネーミングも味に関わってくるし。レヴィオーロラ産トリュフとハーブサーモンの蒸しコンソメスープロワイヤル仕立てパスカップ風だのでぎゅっと凝縮された旨みを感じられるのはいい。マルコはまだ寝てるみたいだ、おれも早く寝ないと!そうだ、日誌の名前!!あ〜でも眠い、眠い…字が乱れてきたしもう寝よう。名前はまた今度考えるから、今の所はオールブルー航海日誌(仮)だ!!あらやだ、ダサ!!
おやすみ、おれの日記ちゃん…早めに格好いい名前にきてやるからなァ…また明日、よろしくな!!
PS. マルコっておれのこと嫌がってるわりに、部屋が一緒なことには文句言わねぇの、めちゃくちゃ不思議!!
✳︎
頬が何だか温かかった。
身体もぽかぽかと腕を中心に温かくて、全身がまるで風呂に入ってるみたいで。
湿っていて温かくて、目は開かないのに起きようって気にはならなかったのは何故だろうか。ゆっくりと降ろされたことで何かに持ち上げられていたことを知る。背中に柔らかな感触が、何か別の温もりの残りを分けてくれたみたいだった。小さく耳に残り続ける規則的な水音と、木材か何かの軋む音が酷く心を落ち着かせるものだから、眠気の方が勝ったのかもしれない。あぁ、この音は水車か───けどそれを含めて現状が分からない、ただ、何でだか起きるのが勿体無くて。
窓から指して来た朝日の眩しさに瞼を優しく擽られて、そこでようやく目を覚ましたサッチの顔を覗き込んでいたのは、一匹の白い犬だった。
「………犬?」
「わふっ!!わふっ!わふっわっふふ!!」
「おわぁっ…!!な、何、おいちょっと待っ……あいたぁ〜〜!!!」
サッチが緩く瞳を持ち上げるタイミングより、突進して来た犬の勢いの方が強かった。抱き止めようとして腕に走る痛みに、完璧に油断していたサッチの上体が仰け反ると同時に寝台から頭から落っこちるという鈍い痛みが加わる。
「わふっ!わふわふ!わふ〜〜ん♡」
「待って追い討ち!追い討ちは卑怯…!!」
「………何やってんだい…、朝っぱらから、…頭から起きる文化でもあんのか」
「あるわきゃねェだろ〜〜!あってたまるか!!」
顔面に乗り上げ、さらには前脚でふみふみと瞼まで押して来られるとなると流石に両腕で抱き上げて押し留める。そんなサッチに頭上からの声の主は、どうやら今外から戻って来たようだった。動きを抑えられているにも関わらず笑みを浮かべるようにして落ち着きなく頬擦りをしてくる犬の尻尾が左右に高速に揺れる、男は一匹と一人を前にして目元の赤縁眼鏡を無言で押し上げると、二脚ある椅子の一つを右手で引き寄せ腰を下ろす。
「……まず答えてもらおうか。ひとつ、どうやってここに来たのかは知らねェが、下手な真似をしたら容赦はしねェ。元…とはいえ変なまやかしに左右される程…老いぼれちゃいねェよ」
「………ッ!!」
「わふっ!わふ、わふん!!」
「下がってろい、ステファン……誤魔化そうとしたら、暴れりゃあ、それ相応の報いを受けてもらう。お前が庇おうとしたって、おれにはこの島を…スフィンクスを守り切るって今の所の役目を全うしなきゃならねェ」
瞳をパチクリとさせ、答えない青年に男は溜息と共に眼鏡を押し上げる。待ってくれと代わりに吠えて間に入り込む白犬に泣きたいのは自分もだと声にならない溜息と共に、片手で持ち上げたのは外から持って来ていた水桶だった。庇う為とはいえ、逆さまの状態で胸に大型犬一頭分の全体重を加えられた青年から、いかにも苦しそうな声が上がるも一瞬の隙をついてひっくり返した桶からは、犬を器用に避けて水がぶちまけられていた。
バシャァッ……!!!
「んがっ…!!鼻に…鼻…!!」
「……しかも、アイツの姿を借りてくるだなんてのは…理由があっても許せねェよい…」
「わふっ!わふっ!わんわん!!」
ひっくり返したのは真水ではない、潮の香りが染み込んだ海水だった。悪魔の実の能力者、少なくともマネマネの実の能力者は今の所死亡が確認されていない。きな臭いところでは、動物系幻獣種九尾の狐の変身能力ではあるが───。
拳に肩から力の入るマルコに、盛大に海水を掛けられた青年は鼻を抑えて蹲るも、すぐに片腕を抑えて両目を瞑る。
「あいっててて…、さ、流石に水掛けんのは…つか、おっさん…、」
「─── おっさん?」
男の片眉が跳ね上がる。
ステファンに頬を舐め上げられ慰められる青年は、右腕を抑えながらも鼻から逆流した海水のせいで半ば涙目になりながら瞬きの後にゆっくりと瞳を開いていく。いつか恐れた、草原を思わせる緑の瞳が向ける眼差しの強さに男の方が、まさかと眼鏡を片手で押し上げる。この青年を浜辺で見つけた時よりも、動揺が激しかった。
「……おっさん、誰…?つぅか、ここ、どこ…?」
「……分かんねェなんてこと、あるか。じゃあ、何でお前はあの浜辺に居た。船はどこだ?どうやってここまで来た、まさか…星と一緒に落ちて来たって訳じゃねぇだろい」
「どうやって…って…、……あの、ちょっとマジで身体だけ起こして良い…?何もしないっていうか、出来ないっていうか…答える前に頭に血が昇って死にそう…」
「…………マルコだよい」
「え?」
「おれの名前だ」
「あ、どーもご丁寧に…、おれはサッチ…それで……」
片腕を引っ張り上げる力は随分と強くはあったが、負荷を掛けないように起こしてくれたことにサッチは若干安堵しながら軽く頭を下げる。まだ髪から滴り落ちる海水は肌に張り付いて居心地は悪かったが、途端に寄せられる眉はそれから来るものではなかった。思わず、口元に掌を置いて視線を彷徨わせる。自分の名前はサッチだ、当然のことで分かりきっている。それでも、まるで言葉を忘れてしまったように舌が顎に張り付いて動かせない様な感覚に、戸惑いを隠せないのはサッチだけではない。脚を組み直し言葉を待つ男の眉は顰められ、ステファンと呼ばれた犬は不安そうに鼻を鳴らしている。
「おれ…は何だ?」
「……おちょくってんのか」
「違うって!…おれ、何でここに居るんだ…?そもそもどこから来たんだ…?」
両方の掌で頭を覆う。
自分の名前は分かる、思い出すことが出来る。
それ以外を、思い出すことが出来ない。
マルコの眉間に寄せられた皺が、ゆっくりと別の形で寄せられて行った時、不意に伸ばされた掌にサッチの肩は大きく跳ね上がっていた。まるで、そこから自分を傷付ける脅威を少しでも軽減しようとする動きに───一瞬、宙でピタリと止まったマルコの手はサッチの肩に確かに寄り添っていた。
「おれ……、おれ、本当に何も…、」
小刻みに震え続ける姿は、見たいものではなかった。
「…分かったから。落ち着け…深呼吸しろ。吸って…吐いて…そうだ、ちゃんと出来てる。吸って…、吐いて……、吸って……吐いて……、吸って……吐いて…嘘じゃねェんだな、何も覚えてない。……何かこの犬に対して思うことは…?」
声掛けに合わせて素直に呼吸を繰り返すサッチに、マルコは背に手を添えたまま顎で白い犬を指し示す。
「………犬ぅ…?」
「わふ!わふ!!わふわふん!!」
「えっと───、可愛い…、お前これ、髭なのか…?立派だな…、……でっかいし…白いし……、人懐っこい……、あ、あったけェ…、」
「わふぅん?」
モニョっと毛並みに埋もれて、サッチは目元を緩める。人間、骨格と表情筋の構成をどれほど似せた所で顔が作り出す表情は異なってくる。特に違いの出やすい笑みの作り方は、頬を舐める犬を抱き留め眉尻を垂らして笑う昔から変わらない笑顔だった。
「……って腕いてェェ!?何これ、何これェ…!?結構ザックリと行っちゃっ…逝ってるゥゥ!?」
「一応言っておくと、おれがお前さんを見つけた時には既に負傷してたからな」
「え、あ、そう…ありがとうございます…、」
「───何でだ?今、海水ぶち撒けられたって相手に、普通礼を言うか?まるで…、……まるで……、」
右腕を摩り涙目になりながらも、頭を下げるサッチに男は金髪を片手で掻き上げながら睨み付ける。長い指の間から覗く口元が何かしら意味を持った言葉を続けた様だったが、返事は酷くあっけらかんとしたものだった。
「だってほら、おれ…これ手当されてるし…、水が掛かってないところは乾いてる。浜辺でそのままだったなら、多少なりとも砂が着いてたって良いのに、おれの服にも何も着いてない…ってことは、ここで手当してくれたん…だと思うんですが、チガウンデスカネ……」
「……はぁぁ……、ステファン!」
「わふん!!」
「サッ…、ソイツを風呂場まで連れて行ってやれ。おれは一旦、村長達に話を付けてくるよい。服は適当に引っ張り出しておいてくれ」
「えっ!いや、服…風呂まで貸してもらうのは…、ひっ!!」
ブンッ……!!!
上着を肩に羽織り、既に脚を玄関まで向かわせる男に慌てて立ちあがろうとしたサッチだったが綺麗にブレることのない軸を以って眼前スレスレに駆り出された右脚に、へにゃりと腰から力が抜けていく。恐怖も驚愕もあったが、有無を言わさぬ明らかな圧が込められていた。
「おれが、仮にとは言え助けた患者を海水まみれでほっぽり出す男に見えると。そう言いてェのか、若造…?」
高速で左右に振られたせいで、サッチの頭部が大袈裟ではなく飛んで行きそうになる。
「じゃあ、今の所は記憶もねェ、今いる場所も分からねェ、身寄りもねェガキが出来ることは何だ?」
「お、大人しく…指示に従うこと…デス…、」
「そうかい、気が合って何よりだ」
顔の表情筋だけを使った笑みの底知れぬ寒気に、サッチは今度は首を縦にブンブンと音を立てて振る。その動きは、男が脚を下ろし家から出て行くまで止むことはなかった。
「わふ!わふわふ!!」
「あ〜〜はいはい…、大人しく従うって…あのオッサン、足癖の悪さ凄くね?めっちゃ怒るし、怖いし、ただのオッサンじゃねェな……、……あ、文句は言ってないのよ、言ってないから秘密にして…えーと…ス…、」
枕元から脚元までを、さぁ動け頑張れと促す犬に渋々身体を起こしながらサッチは額をガシガシと擦る。思い出せないことがあまりに多過ぎるが、確かに動いてみなければ脚元はいつまでたっても定まらない。
「ス…スウェンソン…違うな、スタインバーグ…でもねェ…、す…ス…そうだ、ステファン!違う?」
「!!わふん!!」
「よーしよしよし!ステファン!おまえ、人懐っこいなァ〜、おれ、サッチっていうんだ。仲良くしてくれよ、ステファン」
「わふっ!!」
男は玄関のドアに背を預ける。そうでもしなければ、足元は覚束なく歩ける自信がなかった。ステファンは決して人懐っこい犬ではない、寧ろその逆だ。縄張り意識が強く、仲間と認識した人間には限りなく忠実な番犬にも癒しを与える友にもなってはくれるが、そうでない相手に対してはマルコがまず敵意がある相手ではないと教えでもしない限り獰猛な獣としての素質が勝る。ステファンが自分達と出逢うまでの環境が環境だった。
「……勘弁してくれ…、間違いねェ…、だが…それなら何だってアイツは…あんなに若ェ…、なんで…、おれ達のことを……、」
ギュッと強く瞳を瞑ってから、マルコは眼鏡越しの視界からの迷いを払う為にゆっくり背を扉から離す。確かに、昨夜、星に願いを掛けはした。あまりにも多くの願いを掛けてしまったが為に、星から落ちて来てしまったのか。
「……しっかりしろ、……理由が何にせよ…アイツはもう居ねェ…、……もう戻って来ねェんだ……、」
この場からもう一歩も離れたくないと、泥の様に重たくなる脚をそれでも動かさなければならなかった。それが、マルコがこの歳になるまで翼に重ねて来た重さを含んでいたとしても。
サッチがこの世を去って、もう二年の月日が流れていた。
「( お前をたった一人で…暗く寒い所で逝かせちまった…あの死に顔を、おれは一日も忘れられないってのによ……) 」
✳︎
「そうですか…今朝話を聞いた時には、またマルコさん一人にこれ以上重い役目を押し付けてしまうのではないかと…」
「そんな顔しねェでくれ、これはおれが好きでやってることだよい。ここの近くに、オヤジやエースの墓もある…おれはオヤジに人にしてもらったんだ、世間の言う通り賤しい育ちではあるが…世話になった恩人の故郷を守るのは…ただの親孝行だ」
しおしおとすっかり皺の深く刻まれた揺り椅子の老爺の掌に、マルコは掌を重ねる。この老体にしても、背負に背負って生きて来た人生だったはずだ。おじいちゃん、と心配して背中を摩ってくれる幼い孫もいれば、温かなコーヒーの入ったカップをそっと静かに机に置いて、目礼と共に孫の手を引く息子も居るが、彼もまた妻を早く亡くしていた。この世界の悲しみが自分一人だけにだけ降り注ぐものではない。
誰もが、自分だけの悲しみをひっそりと抱えて生きている。それが、人生を生きるということだった。
「とにかく、あの若造は得体は知れねェが、悪い存在じゃねェ。記憶ってもんを失った…いつまでここにいるかも分からないあやふやな存在だ。ただ、ここにいる間はおれが保証人になる…なぁに、"二回目 "だ、慣れたもんだよい」
「は…今何と…仰いましたかな?申し訳ない、昨今は耳がまた遠くなったもので…」
マルコは笑って首を左右に振る。
口を付けたコーヒーの香りに、また昔の様なコーヒーを再び飲めるかも知れない、と気を許せば浮かぶ自分の考えだけは頗る甘い。
「いや、とにかくだ。ここにいる間はあれはおれが見てる。本人も混乱してるみてェだが、悪さしたら…するヤツじゃねェが、世の中の常識ってもんから…二十年は取り残されてるヤツだと思ってくれ。映像配信電々虫でも見たらぶっ倒れるだろうな…」
「あのォ…」
「ん?」
ぷるぷると老爺の掌が上がる。
「スフィンクスには映像電々虫も入っておりませんが…」
「………そういうこともあらァね」
にっこりと笑うマルコに、にっこりと笑う老爺であった。
✳︎
「おれの持ち金で入れるか…、いや、ある程度設備が整ってねェとかえって逆手に取られるからな…出来るだけ、情報は手に入れてェところだが、盗聴されてりゃ世話ねェし…、」
「マルコ〜〜!!おはよう、マルコ!」
顎に手を当てて、焼け石に水でもアレかとぶつぶつ呟いていたマルコに草原の向こうから駆け寄って来たのは帽子を被った幼い少女だった。慌てすぎたか、なだらかな丘を一気に降りて来たからか、頬を林檎の様に赤くしながら脚を急がせるその姿に、片腕でマルコは緩やかに抱き留めてやる。
現状だけで言うなら、酷く平和な光景だった。
「おっと、走らなくてもおれは飛んで行ったりしねェよ…おはよう、ルルゥ」
「えっへっへ!ねぇ、これね、このパンをマルコさんに持って行きなさい…って母さんが!」
頬をまだツヤツヤと赤くしたまま差し出されるのは蓋付のバスケットだ。
「ララが?毎回ありがたいねェ…どら」
中身を覗いてから礼をしっかり伝えようと掌を蓋に掛けたが、思わぬ制止にぱちりと瞬く。
「待って!まだ開けないで、まだまだ…、だめよ、お家に着いたからにして、今はダメ!」
「………?そりゃ構わねェが」
「約束よ!帰ってからだからね〜〜!!」
「だから走るなって…あぁ、行っちまったかよい…、」
また転ける、そうは呟きながらも口元には頬に当たっては抜けていく春風の様に柔らかな笑みが浮かんでいた。決して、義務感だけでこの島にいるのではない。既に肉体という檻から解き放たれた魂は不滅だ。敬愛する父親も、可愛く思う弟も、今までに輝いては星の様に流れて行った家族達も掌に掴んだまま、どこまでも自分が守られれば良かったが指の合間から取り残して来た命はあまりに多過ぎる。
結局、誰からも頼まれてはいない自分の意思に従って生きているのだ。死者の言葉に縛られてはいない。美しく清らかな天の世界が存在していたとして、海賊の自分達がそこに辿り着けるかは別だが───その内、また会える。それは駆け抜けた先に胸を張って切れるゴールテープでなくてはならない。それが、マルコの誇りだ。
「戻ったよい───、ステファン?……あ、」
鍵を掛けても来なかった。盗まれるような価値のあるものはそもそも何一つないが、疑ってすらいなかった。バスルームでの物音に、今更ながら傷を負った腕で風呂は無理だったかと珍しい失態にマルコはバスケットを木製テーブルに下ろし、仕切り直しとばかり頭を掻きながら扉をノックする。
「今戻った…あー…、中に入っても?」
サッチ、そう名乗ったうえに自分でも確信している筈なのに何故かその名前で呼ぶことができない。舌が絶妙に回らなくなってしまう自分に軽い溜息を吐きながらマルコは再度扉を叩く。途端に静かになるバスルームの気配に、指先から徐々に血の気が引いていく。
まさか、昨夜からの一連の出来事は夢か願い過ぎるが為の幻覚だったのか?───
心臓が嫌な音で、嫌な走り方を胸の中で始める。
精神面で自分でも落ちに落ちたとは思っていたが、まだそこまで病んではいないと思っていた。だが、全てが幻だったとしたらどうする。誰も居ない空間に話し続ける自分を想像すればゾッとしたが、自分の家だというのに恐る恐るバスルームの扉を押し開いたマルコは別の意味で心臓が止まってしまいそうだった。
濡れそぼる髪から湯を滴らせたままの、腰にタオルだけ巻いた青年の掌には剃刀が抜き身で握られていた。虚ろな、緑の瞳に全身に鳥肌を立てると同時にマルコはその掌から剃刀を叩き落とす。
「おわっ!!ちょ、ちょっ…!?」
カランカラン、とタイルのフロアを転がっていく無機質な音が室内に響く。
「──────ッッ!!落ち着け!早まるんじゃねェ…!!そんなことさせる為に、おれァ助けた訳じゃねェよい!!」
「そんなって何ィ…!?あ、勝手に使ったの、やっぱりまずかったァ……?」
「止血…、どこだ、どっち切った…!!」
首か、手首かと掴みにかかるマルコに向けられる瞳は、その掌から燃え上がる青い焔を鏡の様に映し出す。傷を探し出そうとする必死の形相も同時に。
「どちらかというと剃り落としましたァ…!!うう…ちょっと整える筈が……って何その焔〜〜!?」
「剃り落と…!?……、」
つるんっと若者の瑞々しい肌に、顎に、確かに記憶にはトレードマークの様に生え揃っていた筈の顎髭がない。マルコは大きく息を吸って、吐いてと繰り返した後にサッチの脳天に拳を落とす。
「……驚かせんな、アホンダラァ!!」
「いひゃぁい!!勝手な勘違いしたの、そっちじゃん!!ってか、その焔何!?何それ!!なんで熱くねェの、もっかい見せて!?」
「見せる訳ねェだろクソガキ!!バスタブにちゃんと入ったのか!!」
「っっ……暴力眼鏡〜〜!!」
「だーれが暴力眼鏡だ、こりゃ伊達だ!!……誰が老眼鏡じゃクラァ!!!」
「ひーん、言ってないィ〜〜!ちょっと思っただけなのに〜!!」
「わふ〜〜?」
口元にマルコの下ろした手のパンツを咥えてトコトコと現れたステファンが一番冷静に、青年の頭を小突き続けるマルコを見上げる。その様子が、あまりにも楽しげでもあるから、わふっという独特な笑顔を落としては尻尾を振ってその場を後にする。
今日はポカポカと春日和だ。
サッチが何故ここにいるのかだとか、そもそも生きているだとか、随分と懐かしい姿になっているかだとか、細かいことはどうだって良い。人間には人間の理屈があるように、犬には今を生きる理屈があるのだ。
曰く、泣いているより笑っている方がいい。
サッチだって、死んでいるより生きている方が絶対に良いのだ。
ソファに飛び上がり自慢の髭を、良い髭だと褒められる毛並みの下には鼻先をくすぐるパンの香り。揺れる窓際のカーテン、懐かしい賑やかな喧騒。
愛しい家族がふらりと戻って来てくれた、それだけの話なのだ。
輝いて、一番星