数年越しのチョコレート 自宅の扉の前で、手に提げたこじゃれた袋をちらりと確認しどうしたものかとKKは思案していた。リボンのつけられた臙脂色のショッパーは、仕事帰りのくたびれた男には似つかわしくなく思えて持っているだけで落ち着かない。
持って帰ってきた以上、暁人に渡す以外の選択肢はないとわかりつつも、それでも今までの自分の言動を思い出すにこっぱずかしいという気持ちが胸にあふれ、ドアノブをつかむことすらためらってしまう。
それでも先ほど「帰る」とメッセージアプリで連絡をいれてしまった以上、この扉の先では可愛い恋人が自分の帰りを今か今かと待っているはずで。結局KKはどうにでもなれと悪態をつきつつ扉を開いた。
狭くはないが広いわけでもない二人の城はKKの帰宅した気配をすぐに暁人に伝えたらしく、玄関とリビングを繋ぐ扉はすぐに開かれエプロンをつけた暁人がひょっこり顔を出す。
「おかえりKK、ご飯出来てるよ」
「おう、ただいま。その、暁人……土産が、あるんだが」
三和土に立ったままそう告げると、暁人は素直にKKに近づいてきた。仕事帰りに土産を持って帰るのは珍しい事じゃない。だからおかしくはないはずだと言い聞かせて袋を手渡した。
「ありがとうKK。おしゃれな袋だね、お菓子かな」
「その……あれだ」
「?」
「……チョコだ」
「――えっ。KKが、チョコ?!」
目を見開いて袋とKKを二度見する暁人に、そういう反応になるよなという思いが半分と、ただのチョコにそんなに驚いてくれるなという思いが半分。
仕事先で報酬だけではなく気持ちとして菓子折が渡されることは珍しくなく、ちょっと高級なチョコをもらってくることもある。これも実はそうだ。――問題は、今日がいわゆるバレンタインデーということだ。
二人が仕事上の相棒から公私共にパートナーとなって数年たつが、実を言えば二人で過ごすバレンタインデーにチョコが介在したことはない。付き合うようになって初めての時から、暁人はKKのためにチョコではなく少し良い酒とそれにあう手作りの肴を用意してくれている。
一年目は食卓に並んだ手の込んだ品を前に「今日なんかあったか?」ときいた朴念仁に、暁人はからからと笑って「一応ね、今日はバレンタインだから。KKはチョコそこまで好きじゃないって言ってただろ? だからこっち」と説明してくれた。まったく出来た恋人である。
ただ後からそれを暁人から世間話として聞いた絵梨佳には「KKさいってー!」とさんざんなじられてしまった。いわく、「こういうのは気持ちであって、形が大事でしょ?!」とのことで。さすがのKKも言わんとしていることはわかる。だが出来ることなら一つだけ言い訳させてほしい。
確かに、暁人からチョコが好きかどうか聞かれた覚えはある。だがそれを聞かれたのは仕事帰りの早朝のコンビニで、チョコが陳列された棚の前での話だ。奢ってやるから好きな食い物を持って来いと言って放牧した暁人がじっと棚を見つめながら聞いてきたから、てっきり買うか迷ってるのかと「食えないわけじゃねえが、オレぁあんまり甘ったるいのはな。まぁオマエが食いたいなら気にせず好きなの選べよ」と答えたのだ。それに暁人は「そっか」と頷き、手のひらサイズの個包装されたチョコを一つカゴに放り込んだ。
――これがバレンタインの前振りだったとわかる人間がどれだけいるのかと訴えたい。しかもだ、この会話が交わされた時期も悪い。……年を越す前だ。もう一度言う、年を越す前、12月だ。せめて2月、もしくは1月末ならば如何にそういうことに鈍いKKでも気づいたと思うのだ、多分。
そんなわけで、二人のバレンタインからチョコというものはすっかり姿を消したのだった。それが悪いとは口が裂けても言わないが、ほんの少しだけ惜しいことをしたなと思う心はある。
「KK、これあけていい?」
「オマエにやったんだ、好きにしろよ」
例年通り用意されたバレンタインプレゼントを堪能し、ソファで二人並んでテレビを眺める穏やかな時間を過ごしていたら、暁人がわざわざお伺いをたててきた。
先ほど夕飯を食べたばかりというのに相変わらずの健啖家だ。これが若さと舌を巻きつつ許可を出せば、若者は期待を抑えられないといった顔でパッケージをあけている。蓋をあけた瞬間にふわりと広がる芳醇な香りに、暁人が鼻をくんと鳴らす。
「すごい、良い香り。どれから食べようかな」
「何か違うのか」
「数種類入ってるみたいだね。ほらこれ」
差し出された紙には手書きのイラストと説明がかかれていた。「まずはプレーンからかな」とつぶやいた暁人が、箱からつやつやとしたチョコを一つ取り出して口に放り込む。途端にわかりやすく相好を崩すものだから、思わずふっと笑いがもれてしまう。それを見咎め、若者は口にチョコを含んだまま「あに」と言う。
「うまそうに食うなと思っただけだ、無理して口開かねえで大人しく食っとけ」
むぅと唇をとがらせながらも甘さの誘惑には勝てないのか、最初の一粒を溶かして喉に落として早々に次の一粒を慎重に選ぶ姿は、恥ずかしさをこらえて持ち帰ったかいがあったと思えるものだった。
新たな一粒を口に入れる度に目を見開いたり頬をゆるめたりとくるくる変わる表情は見ていて飽きることはない。だが少しだけ、こちらを見ない瞳につまらなさも感じる。
ふと思いついて、チョコに夢中な恋人の肩をかるくつついた。もぐもぐと口を動かしつつも律儀にこちらを見る瞳に少しだけ満たされつつ口を開く。
「オレにも一個くれよ」
こくん、と口内のチョコを飲みこんで暁人は首を傾げた。
「珍しいね、甘いの苦手なのに」
「オマエがあんまりうまそうにしてるからな」
「うーん、そうだな。ナッツ入ったビターなやつ、これならKKでもおいしく食べれるんじゃないかな」
これね、と箱ごと差し出されたのをそっと押し戻してニィと笑って見せた。
「食わせてくれよ」
口移しで、とささやけば、一瞬にして目の前の顔に朱がのぼる。付き合い始めてもう何年もたつし、ときおり夢魔もかくやという魔性じみた表情を見せるくせに、普段はこうやって初々しい姿でKKを楽しませるのはいつまでたっても変わらない。
「KK、酔ってる?」
胡乱げにジト目で言われても頬を染めた状態では痛くもかゆくもなかった。むしろそそられるだけだ。
「あの程度で酔うかよ――ほら」
すすめられたナッツのチョコとやらをつまみとって、閉じられた唇に押し付ける。しばし間が空くものの「とけちまうぞ」という台詞に渋々といった様子でうっすら朱唇が開くので指先で半分ほど押し込んでやる。
口にくわえたまま躊躇する姿を楽しみつつも、人差し指でくいくいとこっちだと誘導すれば、年下の恋人は観念したように目を伏せてそっと距離をつめてきた。
元々隣に座っていたのだから距離が0になるまでさほど時間はかからない。チョコとともに重なった唇を感じた瞬間、腰に手を回してぐいと抱き寄せる。渡されたチョコを口内で二つに分けて、半分を暁人に戻してやった。受け取ったことを確認して、舌先で唇を舐めてやれば抱きしめた体がピクリと震える。一度唇を離して額がくっつくほどの距離で見つめ合い、どちらともなく笑った。
「あめえな」
「そりゃチョコだし……おいしくない?」
「いや、オマエが食わせてくれたからな、うまいぞ」
「……馬鹿じゃないの」
「わりと本気だけどな。オマエからもらった初チョコだろ」
初チョコ発言に、暁人が驚いたように目を瞬かせた。
「KK、チョコほしかったの?」
「……ちょっと違うが、当たらずとも遠からずかもな」
KKがチョコを苦手だとインプットした暁人は、前述した通りバレンタインには酒と肴を用意してくれている。だが、アジトのメンバーには絵梨佳と共同で(というか、頼まれて手伝っていたが正しい)チョコを作っては配っていた。今更欲しいとも言えず、いつも見ているだけだったが少しだけ自分の分がないことに拗ねていたのかもしれない。
恥ずかしいことをしたついでに正直にそれを暁人に話せば、ぎゅっと抱きしめられた。
「ふふ、KKかわいいとこあるじゃん」
「心の狭いおっさんで悪かったな」
「そんなことない、KKの気持ち聞けて嬉しい。むしろ気づかなくてごめん」
「オマエのせいじゃねえよ」
お互いに謝りあった後、「じゃあ」と暁人が続ける。
「来年はチョコも用意していい?」
「……オレも用意してやるよ」
「ほんと? やった、約束だからな」
新しい約束とともにもう一度交わした口づけは、先ほどよりもさらに甘く感じるものだった。