桜の中で 花見がしたい、そう言いだした暁人に従って外出することにしたのは二人の休日が重なった午後のことだった。前からそうしようと決めていたわけではない突発的な『デート』だが、二人で出かけることを好む恋人と暮らしていると良くあることだ。
どこが良いかと頭の中で地図を描きながら自分の部屋で着替えを始める。あんまり気張った格好をするのも年甲斐もないかと考えたが、二十以上年下と付き合っている時点で今更だし、年が離れている分少しでも釣り合うような、少なくとも暁人に恥ずかしいと思われるような姿ではいたくないというオッサンの見栄で多少は余所行きの服を引っ張り出した。
部屋から出ると暁人はもうすでに準備を済ませてリビングのソファに座っていた。オレを見て機嫌よさげに近づいてくる。
「ずいぶんご機嫌だな」
鼻歌を歌い出しそうなぐらいの様子にからかってやると「まあね」と素直な返事。
「あんたとの久しぶりのデートだからかな」
目元をほんのり朱に染める姿は惚れた弱みかもしれねえぐっとくるものがある。このまま二人きりで家にこもっていたい気持ちを押し込めて「桜と言ってもたくさんあるが……どこがいい?」と尋ねれば「夏にあんたと見た桜を、もう一度見たいんだ」と言われ、あの日のことを一つ一つ大事にしてくれることがわかり胸がじんわりとあたたかくなった。
そのまま二人で家を出て、途中のコンビニで飲み物と軽くつまめるものを買った。酒を買うか迷ったが暁人の「あの夜っぽいものを買っていこうと思って」に手を引っ込めた。緑茶に握り飯、いちご大福に桜餅、そして和歌コーラに唐揚げ。「多くねえか?」と言えばきょとんとした顔で「そう?」とのたまうコイツの食欲はあの夜ほどではないにしても健在だ。まぁ、うまそうにあれこれ食ってる暁人を眺めるのは生きてるという感じがして嫌いじゃない。
「あ、猫。あの夜にもいた子かな」
「そうかもな」
せっかくの休日だ、焦ることもないので気の向くまま暁人のやりたいままに移動する。それでも男二人の足なのでさほど時間をかけずに目的の場所に着いた。あの夜と同じ桜が、青空の下で美しく咲き誇っている。ちょうど満開に近くタイミングもばっちりだったようだ。運が味方しているのか、オレ達以外の人もゼロとはいかないがさほどいない。
「わぁ、きれいだなぁ」
「そうだな」
そうやって無邪気に言って暁人が桜の木の側に駆けてゆく。その後ろをのんびりとついてゆくと、暁人がこちらを振り返り満面の笑みを見せた。
「夜桜もきれいだったけど、青空の下も最高!」
綺麗なのはオマエだ、なんてベタなセリフが出かけるほどに絵になる光景だった。
青空と満開の桜、温かな日差しと風にさらりとひるがえる暁人の艶のある黒髪。柔らかで穏やかな姿に幸せをかみしめる。だが同時に後ろめたさも感じた。春の柔和な光に照らされる暁人の整った相貌、その右側にはうっすらと傷の名残。明るい場所でようやく確認できる程度に薄くはなりはしたが、それが服に隠されたしなやかな体にも残っていることをオレは知っている。そして右の視力がだいぶん下がってしまっていることも。
8月23日、長い夜が明けた朝をオレはアジトのソファで迎えた。暁人に「おやすみ」と言われた後そのまま此岸を離れるのだと当然のように思っていたオレはそれはもう混乱した。全ては夢だったのか、それとも現在がそうなのか。ひどい二日酔いのように痛む頭を抱えながらどうにかエドに連絡すると珍しく肉声で返答があり、そこからは後始末に追われた。凛子と絵梨佳も戻って来れたのは幸いだった。残されたのがオレだけならもっと苦労しただろう。
だが慌ただしい中でも頭から暁人のことが離れなかった。会いにいかねばという気持ちと、会って良いのかという気持ち。せめて無事を確かめたいとエドと凛子に暁人の居場所を探してもらうことにした。とは言ってもオレが暁人のことで知っていることは少なかった。年齢と名前、住んでたマンションが火事になったことと、そして妹が渋谷中央病院に入院していたこと。病院関連はセキュリティや情報保護関連で厳しかったらしいが、オレの必死さと凛子自身暁人に世話になった自覚があるせいか思ったよりもはやく暁人の現状を調べ上げてくれた。まったく優秀な二人に感謝するしかねえ。
わかったのは、麻里はすでに亡くなり暁人が妹と同じ場所に入院しているということ。バイク事故での入院だと聞いてひゅっと息をのむ。アイツと出会ったときのことを思い出したからだ。車との衝突事故で死にかけていた暁人。だからこそオレは体を奪おうとアイツに取り憑いた。
青ざめたオレに気づいたのか「命に別状はないそうだ」と言い添えられ安堵の息をついた。次いで凛子に「会いにいくんでしょう?」と聞かれたが、すぐには頷けなかった。まだオレは迷っていたからだ。それでも無事な姿を一目みたいという思いは抑えられなくて、昔のツテを使って昼間ではなく夜に訪ねることにした。生きて眠ってる暁人を確認すればこの矛盾めいた気持ちも収まるだろうと、そう思って。
本来なら入ることの出来ない時間帯に、オレは一人で渋谷中央病院を訪れた。一応ナースステーションに声をかけるが話が通っているので何を言われることもない。薄暗い廊下に暁人と二人で歩いたことを思い出す。その時と違ってもちろんマレビトはいない。だがどうしてもあの夜のことを思い出してしまう。時間が歪んでいたからどれだけ一緒にいたのか正確なことはわからないが、それでも短くて濃い時間をオレ達は共に過ごした。だからだ、だからきっとこんなにあの子供が気になるのだ。
真夜中だ、もう寝ているだろうとゆっくりと病室の扉を開ける。閉じられたカーテンを音をたてないように開けば、そこにいたのは紛れもない『相棒』で。ベッドの上で点滴に繋がれ包帯と眼帯に包まれた姿にぐぅと喉が鳴る。
オレが、持ってゆくはずだった傷。オレが彼岸に渡る際にコイツの傷は全部もってゆくつもりでいたんだ。ひどい目に遭わせたせめてもの償いと礼として。だがオレはなぜだかこの世に残ってしまった。死んだはずのオレがほぼ無傷だったというのになぜコイツがという思いはぬぐいきれない。それでも。
「オマエが、生きてて良かった……」
万感の思いを込めた言葉は自然と口からこぼれる。これで満足だと言い聞かせて帰ろうとしたその時、暁人がうっすらと目を開けた。まずいと思う暇もなくばっちりと目が合ってしまう。ぱちぱちと、数回の瞬き。やがてかすれた声が暁人から出る。
「KK……?」
「……おう」
「夢じゃ、ない……?」
夢だと言って消えても良かったが、あまりに不安そうに顔をゆがめるのに耐えられず頷けば暁人は嬉しくてたまらないとでも言うように破顔した。
「KKだ……生きてる、良かった……」
「オマエのおかげだよ、暁人」
言って頭を撫でてやれば気持ちよさそうに目をつぶる。初めて触れたその髪は見た目以上に柔らかくて、暁人の心のようだった。
そう、暁人がいたからこそこの世もオレ達も救われた。それが報われなければならないと心底思う。今までさんざん苦労したんだ。平穏で普通の幸せを掴んで欲しい。だからこそオレの存在は邪魔になるだけだ。
また眠気が来ているのか、うつらうつらし始めた暁人を目に焼き付けた。
「オマエが真っ当に生きていけるよう、願ってるよ」
「……行くの?」
もう来ないの? とも聞こえたのは気のせいか、オレの願望か。何も言わずにただ頷いてみせると「そっかぁ」というどこか心細げな声が病室に広がった。
「KKも、いなくなるんだ。そっか、そうだよね」
いつもそう、と諦めたようにもれたつぶやきにオレは首をかしげる。あの夜に見なかった諦観に満ちたそれが、オレの心をひっかいた。思わず「暁人……?」と声をかければ、子供はすでに半分夢の中だった。「大丈夫、慣れてる」となんてないことのように言う。そのまま小さく口角をあげオレの手を一撫ですると瞼が完全におちてゆく。
「KKは、幸せになれよな」
すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえはじめ、暁人が夢の世界に旅立ったことを知る。だがオレは暁人の『KKは』という部分に引っかかりを感じていた。同時に暁人がもはや天涯孤独と言っていい身の上だと思い出し、何とも言えない心地になった。両親は早くに亡くなり、和解できたとはいえ妹も亡くなった。ひとりぼっち、そんな言葉が頭をよぎる。
オレには未だ、暁人との繋がりがある。細いそれを意識すれば、伝わる『寂しさ』『不安』『諦め』……二十歳そこそこの子供が抱えるには重いそれにオレは顔を歪めた。同時に感じるうっすらとしたぬくもり――『喜び』『期待』。
もう一度、起こさないように髪に触れる。
……側にいてやれば、オマエの心は少しでも満たされるのか?
病院で再会したあの日、暁人が立ち直るまで、一人で立って歩けるようになるまでその手を引いてやれたらと思った。人生の先達として、明けない夜を共に駆け抜けた相棒として。
――なのにだ。蓋を開けてみりゃミイラ取りがミイラになっちまった。満たされたのも、救われたのもオレ。柔らかな温もりと真っ直ぐな眼差し、一途で素直な愛は依存するに十分な麻薬のようで。若い体に溺れてもう後戻りは出来ない、離してなんかやれない。せっかく昼の世界に帰ってきたというのに、一緒に歩くのは夜の世界。祓い屋なんていう怪しく因果な商売だ。
ぼうっとしていたら、気がつけば暁人がすぐ側に来ていた。のぞき込むように近づかれ思わずのけぞると、「KKぇ?」と少し不機嫌そうにこちらをにらんでくる。
「どうした」
「どうしたはこっちのセリフだけど」
何度も声かけたのに気づかなかったの誰だよ、と口をとがらせる姿に「悪い」と返せば薄い色の瞳がこちらを見透かすようにきらめいていた。すっと手を取られて指先をつかまれる。
「……また、変なこと考えてない?」
「別に、気のせいだろ」
ごまかしたオレに暁人はそのままふーんと納得いかないように鼻を鳴らした後、居丈高にこう続けた。
「一緒にいれて、幸せだよ。あんたもだろ?」
そうじゃないと許さないとばかりの強気な口調の裏に、不安が少しだけにじんでいるのをオレは、オレだけはわかる。
コイツのこう言うところがかなわない。答えの代わりにつかまれた指先を逆につかみ返して、ぎゅっと力強く握ってやれば桜に負けないぐらい綺麗な笑顔。――オレはきっと、これを見るために還ってきたんだ。