幸せに名前なんてなかったから4 その翌日。予感はしていたがビルの前で死蝋が待ち伏せていた。瘴奸は一瞬足を止めかけたが、何も言わずに通り過ぎようとした。その背を、死蝋が当然のようについてくる。
「おはよ」
顔を覗き込んでくる死蝋に、瘴奸は顔を背ける。屋上に上がるためにエレベーターに乗り込むと、死蝋も乗り込んできた。死蝋は階数のボタンを押さず、エレベーターは屋上へと昇っていく。そもそも、瘴奸は清掃のためにこの時間に出社するが、ビルの中に入る会社の者の出社時間はもっと遅かった。
瘴奸はパネルを見つめるふりをして、死蝋の視線から逃げた。構わずこちらを見てくる視線を針のように感じる。
「やっぱりあんたが誰なのか思い出せないんだけどさ」
その言葉に、一瞬目の奥が揺れた気がした。想定していた反応のはずなのに、どうして胸の奥がこうも沈むのか、自分でもわからなかった。
もしかしたら死蝋が何かのきっかけで前世のことを思い出すと期待していたのかもしれない。
だがそう都合よく奇跡は起こらない。そんなものをほんの少しでも期待した自分が愚かに思えた。
「でも思い出せないのはしょうがなくね?だから俺、なんかもういいやって思ってさ」
明るい声色に余計に憂鬱な気分になる。瘴奸はポケットに手を入れた。薬の存在を手のひらで確かめて気持ちを落ち着かせる。
すると死蝋が瘴奸の腕を引いた。
「……だってあんたはこうやって目の前にいるんだし。とりあえずデートしない?」
「お前、彼女いたろ」
口をついて出た言葉に、瘴奸はすぐに舌打ちしたくなった。余計なことを言ってしまった。
だがすぐに、間延びした笑い声が返ってくる。
「あれ姉ちゃん。三番目の」
軽く首をすくめる死蝋の仕草が、いかにも飄々としている。軽々しくて交際に慣れているように感じられた。
「俺さ、今はフリーだから」
「お前とデートなんてしない」
僅かに体が浮かび上がるような感覚のあと、エレベーターがゆっくりと止まった。瘴奸はエレベーターを出たが、死蝋もついてくる。
瘴奸は外に出ると煙草を咥えた。スタンド灰皿だけが置かれた喫煙所に腰を下ろす。
瘴奸は前世で子どもだった死蝋にあらゆる悪行を教えた。あの夜、軽い気持ちで教えてやった快楽のその矛先が己に向いたときでさえ、酔った勢いだと自分に言い訳しながら止めなかった。
俺がいなければ死蝋は真っ当に生きていた。
死蝋が死んでからはそんなことを何度も思った。だがその度に、そもそも俺がいなければ死蝋は垂れ死んでいたのだと思おうとしてきた。だが、今ここにいる死蝋を見ると、その言い訳すらみすぼらしく感じられた。
「おじさんを相手にしてないで、可愛い子探したらどうだ」
瘴奸は煙草の火を強く吸った。前世でも死蝋が度々女を抱いているのは知っていた。馬鹿なガキが盛りやがってと、大して気にも留めなかった。いつも自分にとって死蝋は愚かな子供でしかなかった。
死蝋が大切だったと気付いたのは、死蝋が死んだ後だった。
影が揺れた。死蝋がすぐそばに立っていると気付いたが、顔は上げなかった。
肩を掴まれる。無理やり顔を上げさせられ、その乱暴な仕草が、昔を彷彿とさせた。
「じゃあ、なんでそんな顔で俺のこと見るの」
どんな顔をしているのか、自分でもわからない。諦めてほしいのか、許してほしいのか、あるいは、何かを終わらせたかったのかもしれない。
死蝋の指が、瘴奸の口元から煙草を抜いた。火のついたままのそれを、自分の口に咥える。
死蝋は目の前に屈みこむと、瘴奸に向けて煙を吹きかけた。
白く揺れる煙の奥で、死蝋の目がこちらを射抜く。
肩の力が抜けた。抗う理由も、残っていない。
唇が触れる。
口付けなんて、昔はしなかったくせに。
それでも瘴奸はされるがまま、目を閉じた。