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    なりひさ

    @Narihisa99

    二次創作の小説倉庫

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    なりひさ

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    ガンマト。現パロの二人のループ

    #ガンマト
    cyprinid

    8/8 八月八日、日曜日。今日も良い天気だ。カーテンの隙間からは早朝とは思えない陽射しが入り込んでいる。
     隣のマトリフはまだ熟睡している。あと十分ほどで目を覚ますだろう。急ぐ理由もないから目覚めるのを待った。今日も暑い一日になる。室温計は二十七度。管理された空調は快適な室温を保っていた。
    「……もう起きてんのか」
     ややあってかけられた声に、私は横を見る。まだ寝ぼけ眼のマトリフが私を見ていた。その身体を抱き寄せる。寝癖のついた銀髪に口付ければ、マトリフは大きな欠伸をした。
    「飯なんかあったか?」
    「フレンチトーストにしようかと」
    「お、それちょうど食いたかった」
     私が朝食を作っている間にマトリフはベランダの植物たちに水をやっていた。マトリフは植木鉢に話しかけている。天気の話をしたかと思えば、昨日観た映画の話へと移った。マトリフは昨夜観た映画のラストが気に入っていない。そういえばなんの映画を観ていたのだったか。
     朝食を摂ってから、二人で散歩に出かけた。外は既に暑く、私は大きな日傘を差した。二人で入れるほど大きな傘で、それでも歩けば汗が流れた。
    「なあ」
     マトリフは信号待ちのときに私を見上げた。私はそれと同時に道路向かいのパン屋を指差す。
    「パン屋に寄りたいのだろう。明日もフレンチトーストにしようか」
    「なんでオレの言いたいことがわかったんだよ」
    「ずっと君を見ているからね」
     マトリフは少し驚いたように頬を赤くさせた。無言で肘打ちしてくる。痛くもないそれを私は受け止めた。
    「あのフレンチトーストは君好みの味で作ったのだよ。気に入っただろう?」
    「まあな」
     まだ少し照れが残っている顔でマトリフが言う。こちらをチラリと見上げて、ふんと鼻を鳴らした。
     パン屋で買い物を済ませてから公園で一休みした。公園の時計を見れば十時十五分。だがこの時計は四分遅れているので今は十時十九分だろう。散歩に出ればいつもこれくらいの時間になる。
    「おっ」
     マトリフの嬉しそうな声が聞こえたので財布を出す。公園の隅に小さな車が止まっていた。日曜日のこの時間にアイスを売りにくる車だ。ピンク色の目立つ車体にはアイスのイラストが描かれてある。
    「オレはバニラ」
    「わかっているよ」
     私は立ち上がってアイス屋まで歩いた。バニラを二つ買ってマトリフが待つ木陰のベンチまで戻る。アイスは既に溶けかけていた。きれいな半球の輪郭が崩れていく。
    「お待たせ」
     アイスを差し出せば、マトリフは受け取りながら私が持つアイスを見た。
    「お前がバニラを選ぶのは珍しいな」
     私は自分のアイスを見た。私はチョコ味を好むから、大抵の場合はチョコを選ぶ。あのアイス屋は移動販売にしては珍しく多くのフレーバーを取り扱っていた。チョコもあったのだが、今日はバニラを選んでみた。
    「味を変えれば何か変わるかと思ってね」
    「何かってなんだよ」
     マトリフは溶けて垂れていたアイスを舐めた。私もアイスに口をつける。ひやりとした感触が心地よかった。
    「やはり昼からは家で過ごさないかね」
     私は無駄だと思いながら言った。マトリフは溜息をつきながらアイスを舐めた。赤い舌が白をすくっていく。
    「先延ばしにしてもいい事ねえだろ。ちょっと顔を見せるだけだ」
     午後からはマトリフの師に会いに行く予定だった。私はそれを阻止したいと思い、あらゆる手を尽くしてきた。だが成功はしていない。
    「君の師を嫌っているわけではないと理解してほしい。だが会うのはまたにしないか」
    「別に嫌いでもなんでもいいんだよ。会えば師匠も納得する。挨拶して小一時間ネチネチ言われたらそれで師匠の気も済むだろ」
    「それで済まないとわかっているから言っているのだよ」
     私は語気が強くならないように気をつけた。だがマトリフの表情から不機嫌さが感じ取れた。
     また駄目だった。私は失敗を予感した。どのように伝えてもマトリフは機嫌を悪くする。
    「わかったよ。会いに行こう」
     そう言ったところでマトリフの機嫌はなおらない。わかりやすく口数が少なくなったマトリフに、私は口を歪めた。
     気まずい雰囲気のまま向かった屋敷で、マトリフの師とさらに気まずい雰囲気になる。バルゴートは笑ったことなど一度もない顔で私を見ていた。マトリフはこのバルゴートの養子であり、幼い頃に引き取られてから最近まで一緒に住んでいた。その家を出て私と暮らし始めたものの、そのことをバルゴートはよく思っていない。
     私はバルゴートからの容赦ない質問にあった。だが何を訊かれるかはわかっていたので、淀みなく答える。バルゴートは幾分か表情を柔らげたが、マトリフが選んだのが私だという時点でバルゴートは許さないらしい。バルゴートの断固反対という姿勢に、今度はマトリフが怒り出した。
     結局、この食事会という名目の私の紹介は失敗に終わった。マトリフは来たときよりも不機嫌そうに家路についた。
    「ジジイの言うことなんて気にすんなよ」
     マトリフは私の手を掴んで言った。指が絡められ、その体温が伝わる。日が沈んだとはいえ、まだ昼の暑さの名残が肌にまとわりついていた。マトリフの手はひんやりと冷たく、細くて骨張っていた。私はその手を愛おしく思い、そっと握り返した。
     私は腕時計を見る。あと数分で十九時だった。夏の短い夜はまだやって来ない。
    「マトリフ」
    「ん?」
    「君を愛してる。何百回伝えたとしても、伝えきれないほどに」
     マトリフは立ち止まって訝しげな顔をした。だんだんと顔が朱に染まるのは、夕焼けのせいではないだろう。
    「よくそんなこと平気で言うよな」
    「伝える時間が残っていないからね」
    「それどういう意味だよ」
     時計の針が進んでいく。マトリフの手が強く私の手を握った。その手から不安が伝わってくる。
     時計の針が十九時ちょうどを指した。
     視界が暗転する。誰かが急に全ての明かりを消してしまったように。
      八月八日、日曜日。今日も良い天気だ。カーテンの隙間からは早朝とは思えない陽射しが入り込んでいる。
     隣のマトリフはまだ熟睡していた。あと十分ほどで目を覚ます。急ぐ理由もないから目覚めるのを待った。今日も暑い一日になる。室温計は二十七度。管理された空調は快適な室温を保っていた。
    「……もう起きてんのか」
     マトリフの声に私はきつく目を瞑った。また同じ一日が始まる。朝食にフレンチトーストを食べて、散歩に出かけてパンを買って、公園でアイスを食べ、マトリフの師との不愉快な食事会に行く。全く同じ八月八日。抜け出すことのできない一日を私は繰り返していた。

     ***

     朝食を食べた後でマトリフはコーヒーを飲んでいた。テレビでは今日も暑い一日になると、わかりきったことを言っている。
     私はマトリフが飲むコーヒーが空になるのを待った。手には物置きから取ってきた結束バンドがある。
    「今日も暑いってよ」
     マトリフは背後に私がいると気づいて言った。
    「そうだろうね」
     マトリフは近くのローテーブルにマグカップを置いた。私はその手を取る。マトリフが何だと言わんばかりに見上げてきた。だがその目には危機感などまるでない。私を信用しきっている眼差しに良心が痛んだ。
     私は何も言わずにマトリフの片手に結束バンドを巻いた。細い手首にプラスチックの輪がぶら下がる。
    「なにしてんだ?」
     マトリフは不思議そうに手首につけられた結束バンドを見た。私は慌てることなく反対の手首にも結束バンドをつける。ジジ、と微かに音がするそれを、マトリフはようやく警戒した。だがまだ私の悪ふざけだと思っているようで、早く種明かしをしろと見上げてくる。その腕を私は捻り上げた。
    「痛ぇ!」
     マトリフの体をうつ伏せにしてソファに押し付けた。骨に皮が張り付いただけの腕が軋む。手首を捻り上げて先ほどの結束バンド同士を新たな結束バンドで繋いだ。マトリフは後ろ手で拘束された格好になる。暴れたマトリフの足が私の脇腹に当たったが、その力さえ本気ではなかった。
    「……悪趣味な奴だな。朝っぱらから何考えてんだよ」
     マトリフはニヤニヤと下品な笑みで私を挑発した。ここでやめたら冗談で済ませてやると言外に含ませている。だが私はそのマトリフを抱え上げると寝室に向かった。その体をベッドへと下ろす。
    「すまないが今日一日は家にいてもらう」
    「……そのために拘束したってか?」
    「そうだ」
    「冗談だろう? おめえの冗談は分かりづらくていけねえ。わかったからもう解け。散歩に行く時間だろうが」
    「今日の予定は全てキャンセルだ。食事とトイレ以外は動かずにそこにいてくれ」
     マトリフの顔がようやく怒りの色を示した。起きあがろうとしたので肩を押す。マトリフは簡単に倒れ込んだ。ベッドに沈んだ身体を押さえつけて私は言った。
    「すまない」
     すぐに寝室を出て扉を閉めた。マトリフの足音が扉に向かってくる。しかし私は扉の前にソファを移動させていた。
    「開けろ!」
     扉に体当たりでもしたのか大きな音が響く。私はソファに深々と座った。これでマトリフの力では絶対に開かない。
    「そんな事をすると怪我をする。大人しくしておいてくれ。たった一日だ。それも十九時まで。頼むから我慢してくれ」
    「理由を言えよ。師匠のことか」
    「それは私にもわからない。全ての可能性を試してみるしかないのだよ」
    「わけわかんねえよ。オレに言えねえってのか」
    「説明したよ。何度もね。君は信じてくれたときもあった。一緒に解決してくれようとした。だが全て失敗だった」
     私は何回目かのループのときに、マトリフに自分の置かれた状況を説明した。マトリフは最初こそ信じてくれなかったが、説明を重ねれば理解してくれた。一緒に解決しようとまでしてくれた。だが残された時間はあまりに短かった。結局はループを抜け出す方法は見つけられずに、また朝になった。
     本当ならマトリフに相談するのが一番だとわかっている。彼の知恵を借りればこの問題を解決できるかもしれない。だが、それも何十回と繰り返すうちに、心が疲労してしまった。何回やっても十九時には全てが終わり、また朝が来てマトリフは何も知らない状態に戻ってしまう。記憶を引き継いでいるのは私だけなのだ。
    「ガンガディア」
     マトリフの声に思考から抜け出す。マトリフの声は穏やかだった。
    「そこにいるんだろ。なあ」
    「ああ。ここにいる」
    「ここを開けろ。逃げ出さねえし、お前の話もちゃんと聞くからよ」
     それが嘘だと私は知っていた。マトリフを拘束するのは初めてではない。家を出ないようにと説得したが失敗して押さえつけたこともあった。そのときは泣かれたので手を離してしまい、逃げられた。今と同じように結束バンドで拘束したときもあった。その時にさっきのように言われて扉を開けてしまい、隙をついて逃げられた。マトリフに知恵比べでは勝てない。だからマトリフの言葉には一切耳をかしてはいけないのだ。
    「辛抱してくれ」
    「腕が痛いんだよ。擦れて血が滲んできた。なあガンガディア」
     私は手で耳を塞いだ。マトリフの言葉に心がぐらつく。酷いことをしているとわかっていた。だがあらゆる方法を試すしかない。
     夕方になって部屋が赤く染まっていた。マトリフはあらゆる言葉をかけてきたが、私はそれに応えなかった。数回のトイレと食事以外は扉を開けず、そのときにも細心の注意をはらった。
    「ガンガディア」
     マトリフは私の差し出したサンドイッチを食べていた。拘束した手はロープでベッドに繋いでいる。マトリフの乱れた前髪が目元を隠していた。
    「お前が何を考えてるかわからねえよ。昨日までこんなことしなかったじゃねえか」
     私はタオルでマトリフの口元を拭った。マトリフは私に身を寄せると憐れっぽい眼差しで見上げてくる。
    「オレに不満があるのか? だったら言ってくれよ。オレはお前とずっと一緒だって約束したじゃねえか」
     私は食器とタオルを持って立ち上がった。マトリフに背を向けて部屋を出る。扉を閉めるときもマトリフを見なかった。
     時計の針は十八時半を指していた。あと半時間。このまま何も起こらずに十九時を一秒でも越えたら、すぐにマトリフを解放しよう。そうして全てを話して、許して貰えるまで謝り続ける。きっとマトリフならわかってくれる。
     そのとき、チャイムが鳴った。嫌な予感が背筋を這い上がってくる。急いでモニターを確認すると、そこにはバルゴートが映っていた。
     チャイムがもう一度鳴る。バルゴートとの食事の約束から数時間が経っていた。マトリフの携帯電話の電源は切ってある。約束の時間になっても来ず、連絡も取れないから会いにきたのだろう。マトリフがバルゴートにここの住所を教えていたとは知らなかった。
     だとしても問題はない。出なければいいだけの話だ。応答しなければ諦めて帰るだろう。マトリフの気紛れをバルゴートも知っているはずだ。約束をすっぽかしたくらいで深く追求しないだろう。
     だがバルゴートは去らなかった。モニター越しに目が合う。向こうからこちらは見えないはずなのに、全て見透かされているような気がする。バルゴートはチャイムを押すのをやめると、ポケットに手を入れた。何かを取り出している。それが何かすぐにわかった。鍵が開いた音が玄関から聞こえたからだ。
     私はすぐに玄関へと向かったが、すでにバルゴートは廊下まで来ていた。老人とは思えない威圧感で迫ってくる。
    「マトリフ!」
     バルゴートの声が響く。それは寝室のマトリフにも届いたようだ。
    「師匠!」
     バルゴートはその声を聞くと真っ直ぐに私へ向かってきた。バルゴートを取り押さえようとするが避けられる。武術すら極めているというのは本当だったらしい。私はなんとかバルゴートを後ろから羽交締めにした。体重をかければ流石に動けないらしい。
    「師匠! いるのかよ師匠!」
     寝室の扉が音を立てている。マトリフが体当たりをしているのだろう。扉の前に置いたソファが少しずつ動いていた。バルゴートはそれを見ると私の腕を掴んだ。
    「本性を表したかケダモノめ」
     その瞬間に私は投げ飛ばされていた。床と天井が見えたかと思ったら、背中から落ちた。ガラス張りのローテーブルが私の下で粉々になっている。いくつかが背に刺さったのか、焼けるような痛みを感じた。
    「師匠!」
     その間にバルゴートは寝室の扉を開けてしまった。
    「無事かマトリフ」
     バルゴートがマトリフの拘束を解いているのが見えた。二人の目がガンガディアに向けられる。マトリフの目には恐怖があり、バルゴートの目には憎悪があった。私は立ち上がったが、もう動けなかった。バルゴートがマトリフの手を掴んで部屋を出ていくのが見えた。絶望感が身体を満たす。
     時計の針が十九時を指す。また朝が来た。

     ***

     八月八日、日曜日。今日も良い天気だ。カーテンの隙間からは早朝とは思えない陽射しが入り込んでいる。
     隣ではマトリフが眠っていた。先ほどまで見ていたものは霧散している。全てがやり直し。いや、むしろ安堵すべきか。あんな終わり方はしたくはなかった。バルゴートに手を掴まれて去っていく姿がまだ瞼の裏に残っていた。
     まだ眠っているマトリフに手を伸ばす。閉じた瞳に口付けてその身体を腕の中に閉じ込めた。マトリフは目が覚めたのか身じろぎをしながら私を見上げてくる。
    「……もう起きてんのか?」
     胸に込み上げてきた苦さに堪えきれなくなった。マトリフを愛おしいと思うと同時に、終わりのない世界に気持ちが挫けてしまった。目頭が熱くなて視界がぼやける。マトリフをきつく抱きしめて頭に顔を埋めた。
    「ガンガディア?」
     もう離したくない。どうせ終わらないのなら、この腕に閉じ込めてどこへも行かず、何もしないままでいたい。
    「……おい、どうした」
     マトリフに胸をたたかれて腕を緩めた。もうマトリフの意に反したことはしたくない。マトリフは涙を流している私に驚いた。頬がその手で拭われる。
    「悪い夢でも見たのか?」
    「ああ、そうだ。これは悪い夢だ」
     だめだ。立ち上がれない。気力が全て失われてしまったようだ。マトリフは止まらない私の涙を困惑したように見ていた。こんな情けない姿を晒したくはなかった。これではまるで幼子だ。
    「そうか、悪い夢か」
     マトリフは呟くと私の頬を撫でた。立ち上がってカーテンを少しだけ開けると、携帯電話を手に取った。操作したのち耳に当てている。
    「師匠、悪りぃけど今日は行けなくなった。ああ、ガンガディアの調子が悪いんだよ。だから、いや、そんなのいらねえから。来たって開けねえぞ。あんたが来たら余計に悪くなるんだって。来んなよ。そのうち埋め合わせはするから。じゃあな」
     マトリフは通話を終えると携帯電話をベッドに放った。そのままベッドに腰掛けると、私の肩の手を置いた。手のひらが包むように肩に触れる。
    「……いいのかね?」
    「いいんだよ。オレこそ悪かった。お前を追い詰めてた」
     マトリフはベッドから降りると私へと手を伸ばした。
    「オレと一緒に逃げようぜ」
     マトリフは悪いことを企むような顔で言った。薄暗い寝室で囁くその姿は蠱惑的な悪魔のようだった。
    「逃げる? なにから」
    「バルゴート師匠からだよ。見舞いに来るって言うから、来んなよって言ったけどよ、あれは絶対に来るぜ。ここの住所は教えてねえけどさ、どんな手を使っても来るからさ」
     私は背筋に寒いものを感じながらマトリフの手を取った。すると不思議と体が動いた。手を引かれて身支度を整えると、財布だけを掴んでマトリフは部屋を出た。
    「どこへ行くつもりかね」
    「どこだっていい」
     マトリフは私の手を引いて近くのバス停まで行った。ちょうどバスが停まっており、マトリフは行き先も見ずにそれに乗り込んだ。
     バスは私たちが座ると扉を閉めて走り出す。発車のわずかな振動が体に伝わってきた。
     私は車窓からの景色を眺めた。最近越してきたこの街の風景が過ぎ去っていく。車内のぬるい空気が天井につけられた扇風機でかき混ぜられていた。
     マトリフはそのバスを途中で降りると近くのコンビニで飲み物とパンを買った。そしてまた次に来た別のバスに乗り込んだ。その行動には計画性も目的もないように思える。
    「どこへ行くのかそろそろ教えてくれないか」
     窓から見える風景は見知らぬ街になっていた。これは街を周回するのではなく、遠くへ行くものらしかった。目的地の地名は随分と南のほうだった。
    「どこでもねえよ。適当に乗っただけだからな。オレが知ってる場所に行ったら師匠に見つかっちまうだろ」
     マトリフは焦る様子もなくパンをかじっている。車内アナウンスが停車を告げたが、マトリフに降りる素振りは全くない。
     そのまま二人でバスに揺られ続けた。それは久しぶりの休暇のようだった。私はループの中でずっともがき続けてきた。必死で抜け出そうとしてきたがその全ては無駄だった。マトリフは私の手を掴み続けている。それは久しぶりに感じた穏やかな時間だった。
     やがてバスは終点に着いた。扉が開いた瞬間に潮の匂いがする。降りれば目の前に海が広がっていた。
     バスはまた来た道を戻っていった。マトリフはもう海に向かって歩きはじめている。私は手を引かれるままについていった。
     海はこの季節なのに誰もいなかった。海水浴場ではなく漁港のようで、わずかばかりの白浜はあるが、そこで海水浴を楽しむ者はいなかった。太陽は既に傾きはじめている。たった数分のようにも思えていたのに、随分とバスに乗っていたようだ。私の時間の感覚はとうにおかしくなっているらしい。
     マトリフは靴を脱ぎ捨てるとズボンの裾を捲り上げていた。陽射しは傾いているが、気温はまだ高い。私も靴を脱いだが、靴下を脱ぐ前にマトリフに手を引かれて波に足をつけた。波がすぐに靴下を通り越して肌に触れる。日光で温まった海水は心地よさとは程遠かった。
    「どうやって帰るつもりなのかね?」
     私たちを運んだバスは引き返していった。こんな辺鄙な漁港に交通手段が豊富にあるとは思えない。今は何時だろうか。携帯電話はおろか時計すらつけてこなかった。
    「そこまで考えてねえよ」
     マトリフは足で海水を蹴っていた。仕返しとばかりに波はマトリフの膝まで濡らす。マトリフは驚いた声をあげて私を振り返った。その不貞腐れたような顔に思わず笑えば、マトリフは私の元まで波を蹴散らしながら戻ってきた。
    「やっと笑ったな」
     そう言われて私はマトリフの行動の真意を悟った。これは彼なりの元気付けだったのだろう。
     マトリフは珍しく皮肉を込めずに笑みを作ると、浅瀬に片膝をついた。そのせいでズボンの殆どが濡れてしまっている。
    「何をしているんだ。いくら暑いからといって」
     マトリフの手を掴んで立たせようとするが、逆に手を掴まれてしまった。
    「お前も鈍いよな。このポーズでもぴんとこねえのかよ」
     私は言われた意味を考えようとマトリフを見つめた。マトリフは片膝をついて私の手をとっている。それはまるで古風なプロポーズのようだった。
    「お前言ったよな。死ぬまでオレを愛し続けるって」
     それは私がマトリフに告白したときの言葉だった。私は何度マトリフに断られても諦めきれずに思いを伝え続けた。やがてマトリフは根負けしたのか私の言葉に頷いてくれた。
     マトリフの横顔が夕焼けに染まっている。燃えるような赤が色素の薄いマトリフの髪をオレンジに変えていた。
    「オレもお前を愛し続ける。オレが選んだのはお前だってこと忘れるんじゃねえぞ」
     私は言葉をなくして頷いていた。屈んでマトリフを抱き上げる。その体を抱きしめれば、ほのかに太陽に照らされた匂いがした。
    「忘れるわけがない。私はずっと……ずっと覚えている。全てを」
    「ああそうだ。お前は記憶力がいいもんな。ちゃんと覚えているか、今日のこと。最初の今日のこと」
     マトリフの言葉に目を見張る。私はマトリフを下ろしてその顔を見た。
    「なんのことだ」
    「オレのせいなんだ。オレがお前を今日に閉じ込めてちまった」
    「それは……このループのことを言っているのか」
     一瞬のうちに怒りで顔が熱くなった。全てを壊してしまいたくなる衝動に駆られる。それに耐えるために手を握り締めた。マトリフは私から目を逸らさなかったが、痛みに耐えるように唇を噛み締めていた。
    「すまねえ。でも耐えられなかったんだよ」
    「では抜け出す方法も知っているのだろう。教えてくれ!」
    「オレからは言えねえ。それが条件なんだ。頼む。あの日のことを思い出してくれ。最初の今日のことを」
    「これでは駄目なのか。この今日では駄目なのか!?」
     マトリフは顔を歪めた。夕焼けが沈んでいく。
     視界が真っ暗になった。
     また八月八日がきた。今日も良い天気だ。カーテンの隙間からは早朝とは思えない陽射しが入り込んでいる。

     ***

     隣を見ればマトリフはまだ眠っていた。いつも通りの光景だ。マトリフの瞼を縁取る睫毛が揺れている。
     私はマトリフの言葉を思い出していた。最初の今日を思い出せとマトリフは言ったが、それはどれほど前のことだろう。繰り返しすぎて最初の今日ははるか昔のことのように思えた。
    「……もう起きてんのか」
     かけられた声に肩が跳ねた。私を見るマトリフはまだ眠たそうに目を瞬いている。私は起き上がって眼鏡に手を伸ばした。クリアになった視界でマトリフを見てからふと気付く。この光景を見たことがあった。それも寸分違わぬ光景だ。そしてそれが最初の今日と同じだと気付く。私は今と同じように行動したはずだ。私は必死で思い出す。何百回と繰り返した今朝のなかで最初に私は何と言ったのだったか。
    「朝食は何がいい?」
     声が震えないように気をつけながら言った。不思議と言葉は滑らかに口から出ていく。
    「なんでもいい」
     マトリフは盛大な欠伸をしている。まだベッドから出る気はなさそうだ。その姿にやはり既視感がある。これも最初の今日に見た光景なのだろう。
     私はこのループの中でとってきた行動を思い返した。そのどれもが今日を終わらせることはできなかった。では逆にとらなかった行動は何だ。それは最初の今日と同じ行動をすることだ。
     マトリフは最初の今日を覚えているかと言った。それはもしかすると、もう一度あの最初の八月八日を繰り返せという意味かもしれない。
    「今日も暑そうだ」
     私はカーテンを開ける。逃げるようにマトリフは寝返りをうった。包まったシーツから細い脚が出ている。私はそこへ指先を滑らせてから部屋を出た。
     私はどうにか記憶を掘り起こしていった。キッチンへ行ってバケットが残っているのを見つける。前日に食べきろうと思ったが残ってしまったものだ。私がそれを手に取っていると、マトリフが起きてきてコップに水を汲んだ。そのままベランダへ向かう。
    「植物はワインを飲まない」
     私はベランダの背に向かって言った。洗われたワイングラスを目に止めたからだ。昨夜は二人でワインを飲んで、酔ったマトリフは植木鉢にワインをやっていた。こいつはワインが好きなんだ、とおかしな事を言いながら。
    「そりゃそうだろ」
     振り返ったマトリフが呆れたように言う。そうだ。マトリフはワインのことは覚えていなかった。
    「君が昨夜その植木鉢にワインを飲ませていたのだよ。二日酔いになっていないか?」
     マトリフは笑っていた。私の冗談だと思っているらしい。酔った君は陽気になり過ぎると言おうとしてやめたことを思い出した。
     私はバケットを使ってフレンチトーストを作った。それは甘味が足りない、正直にいえば美味しくないものだった。私は何度もフレンチトーストを作ったので今では完璧に作ることができる。だが最初の失敗作と同じになるように、わざと砂糖を少なくして作った。
    「悪くねえよ」
     マトリフは食べながら言った。マトリフは食に関してはわかりやすい。美味しければ顔を綻ばせながら食べるし、素直に賞賛する。このフレンチトーストが不出来であるのは一目瞭然だった。
    「いや、これは成功とは程遠い」
     自分の失敗を再演するのは居た堪れなかった。背にじわりと嫌な汗をかく。私は大きく切った一口を口へと押し込んだ。
    「君の友人に料理を習いたいよ」
    「お前ほど健気な奴はそういねえな」
     マトリフは言いながらフレンチトーストを完食した。後片付けはマトリフがして、私はテレビをつけてニュースを見た。全て暗記したほどのニュースを我慢してすべて見る。今日も暑くなると、屋外で汗を流しながらリポーターは言った。
    「散歩に行こうか」
     テレビを消してから言った。マトリフは嫌そうな顔をしている。
    「朝のほうが気温も低い。運動不足は不健康だと話しただろう」
    「途中の公園でアイス買おうぜ。じゃなきゃ行かねえ」
     私は了承してマトリフを家から連れ出す。外の日差しは朝のものとは思えないほどで、たった数分歩いただけで汗が流れた。日傘が欲しいと思ったが、最初の日は差していなかった。
    「あそこで涼んでいかないかね」
     信号待ちのときに私は道路向かいのパン屋を指差した。
    「もう一度フレンチトーストに挑戦したい」
     私はフレンチトーストの失敗を悔いていたはずだ。マトリフとの関係において私は常に完璧を目指していた。
    「明日はオレが作るか?」
    「では一緒に。君の好みを教えてほしい」
     マトリフははにかむように笑った。その表情に胸が高鳴る。愛おしいと思った瞬間が日常に散りばめられていた。私はマトリフの手をそっと握る。するとマトリフも握り返してきて、そのことにまた感動していた。
     パン屋であの日と同じように買い物を済ませてから公園に向かった。アイス屋を探しながら歩く。不思議なことに何百回と通った公園が、初めて来たかのように新鮮に見えた。
    「あれだ」
     マトリフが指差した先にピンク色の車があった。そのまま一緒にアイス屋の列に並ぶ。この気温だからアイス屋は盛況だった。
    「オレはバニラ」
    「私はチョコを」
     てきぱきと盛り付けられたアイスを受け取って座れる場所を探した。しかしみんな考えることは同じで、木陰のベンチは埋まっている。アイスは暑さにやられて溶けていく。私はそれを舐めつつ記憶を辿りながら歩いた。そうして見つけた小さな木陰に入る。
     私は正面にあった公園の時計を見た。まだ昼過ぎだ。
    「何時に行くのだったかな」
     バルゴートとの夕食は早めの時間に予定されていた。それはもちろん、食事がメインではないからだ。
    「探したい本があるから早めに行っていいか」
    「ああ、構わない」
     本当は嫌だったのだが、度量が狭いと思われたくなくて私はそう答えた。今思うと幼稚さに羞恥心が込み上げる。私は出来る限りの穏やかな笑みを浮かべた。マトリフにとって恥ずかしくないパートナーであることが、私には必要だった。
     二人で向かったバルゴートの屋敷は暗然としていた。どこか地下牢を思わせる雰囲気に、気持ちが沈んでいく。マトリフの指が呼び鈴を鳴らした。
    「おかえり。マトリフ」
     バルゴートはしかつめらしい顔で私たちを出迎えた。おかえりという言葉に私は眉間に皺を寄せる。
    「オレは本を探してくる」
    「では私も手伝おう」
     二階へと上がるマトリフの後を追おうとしたらバルゴートに呼び止められた。ああそうだったと私は思い出す。
    「よければこちらを手伝ってくれないか」
     バルゴートはキッチンのほうを見た。命令されたわけではないのに有無を言わせぬ雰囲気がある。
    「お客に頼んですまないが」
    「いえ、お手伝いさせてください」
     私は快く引き受けた様子を装ってバルゴートと一緒にキッチンへと向かった。
    「今日はお招きありがとうございます」
     私は言いながら手に下げていた紙袋を差し出す。そこにはマトリフと選んだワインが入っていた。昨夜飲んだのと同じもので、マトリフが味を確かめたので間違いはない。バルゴートはワインを受け取るとラベルを見た。
    「マトリフが選んだのだな」
     バルゴートは手際よくワインの封を開けるとコルクを引き抜いた。そのままグラスに注いでいる。手伝えと言われた割に食事の準備は整っており、オーブンの中では肉が焼かれているところだった。バルゴートはワインを一口飲んで味を確かめるようにしている。気まずい沈黙が続いたが、それを破ったのはバルゴートだった。
    「あの子とはどこで出会った」
    「大学です。マトリフが非常勤講師をしているときに」
    「生徒に手を出したのかまったく」
     バルゴートは厳しい顔でワイングラスを傾けた。この会話も何度交わしただろう。もっと良い返答もできたのだが、それではあの日と異なってしまう。
    「いえ、マトリフには私から一方的に思いを寄せていただけで……それもずっと断られていました。返事をもらったのはついこの前で」
    「それで早速の同棲か。先に言っておくが、私はお前たちのことを認めていない」
     温度を一切感じさせない言葉に胸が冷える。何と言われるかわかっていても、実際に面と向かって言われると堪えるものがあった。
    「ガンガディア、運ぶの手伝ってくれ」
     二階からの声に小さく会釈してその場を離れた。もやもやとしたものを抱えながらマトリフを探す。二階に上がればすぐマトリフが待っていた。
    「ジジイの言うことなんて気にすんなよ」
     マトリフは私の手を掴んで言った。指が絡められ、その体温が伝わる。その気遣いにこたえるために笑みを浮かべようとするが、苦笑いにしかならなかった。
    「こうもはっきりと言われるとは」
    「ああいう人なんだよ」
     マトリフは私に数冊の本を渡すと、そのまま手を引いて階段を降りた。
     食事中もバルゴートの容赦ない質問が続いた。だがそれらにはマトリフが答えていった。マトリフの手がテーブルの下で私の手を掴んでいる。それが心強かった。
     マトリフは食事を終えるとさっさと立ち上がった。
    「じゃあオレたちは帰るから」
     引き留めようとするバルゴートに、マトリフは全く取り合わなかった。私はマトリフの本を持って一緒に屋敷を出た。
     外は夕焼けに染まっていた。まだ昼の暑さが残っており、それが足元から体を覆った。私はまだ不愉快さを抱えており、それが表情に出たのかマトリフが気遣わしそうにこちらを見ていた。
    「悪りぃな」
     私は何か答えようとして、何も言えなかったのだと思い出す。バルゴートによってこれまでの努力を打ち砕かれた気がしていたからだ。
     交通機関を乗り継いで最寄り駅についた頃には、夕暮れが終わる頃合いだった。
     ここまでの行動は全部最初の今日と同じにできたはずだ。残り時間は少ない。私はこれからの行動を思い出そうと遠くを眺めた。夕焼けの中を黒い鳥が飛んでいく。ぬるい風が吹いていた。
     ちょうど公園の横に差し掛かったとき、マトリフが立ち止まった。
    「なあガンガディア」
     マトリフは視線を地面に落として言いづらそうにしていた。私はマトリフの向かいに立つ。マトリフは顔を上げて私を見た。
    「後悔してねえか?」
     私はこの質問にはっきりと否定できなかった。マトリフへの愛は揺らいでないが、自分への自信がすっかり萎んでしまっていたからだ。私はマトリフに相応しくない。そう考えてひどく落ち込んでいた。私は後ろめたさを表すようにマトリフから離れて背を向けた。公園のフェンスに手を置いて、情けない声で言った。
    「君こそ私でよかったのかね」
     そう言ってから私はふとあることに気付いた。この先の記憶がない。突然に白紙のページをめくってしまったようだった。日が陰ってくる。私はそれまで時間を見ていなかったことに気付いて慌てて時計を探した。
    「気にすんなって言っても無理だよな」
     公園の時計はあと数分で十九時を指すところだった。この先に何が起こるのか。私は忙しなく目を動かしてあたりを見た。
    「だけどよ、オレが選んだのがお前だってこと忘れるんじゃねえぞ」
     マトリフの言葉に振り返る。途端に驚きで目を見開いた。車が車道をはみ出して高速でこちらに向かって来ていた。まるで私を狙って轢き殺そうとしているような動きだ。マトリフも音で気付いたようで驚きで目を見開いている。マトリフの横ぎりぎりを車が通過した。その光景がスローモーションのように見えた。マトリフが無事だったことに安堵したが、もう私の目の前に車が迫っていた。マトリフが必死にこちらに手を伸ばしている。私も咄嗟に手を伸ばしていた。
     視界が混濁して黒く塗り潰された。全ての音が消える。
     目を開けると私は歩道に転がっていた。慌てて起き上がるとすぐそばで車が横転している。咄嗟にマトリフを探すと、急に抱きつかれた。
    「無事か!?」
     マトリフは私の体を確かめるように触れた。私は混乱しながらも自分の体を見る。怪我らしいものはなかった。
    「君は……君は大丈夫か」
    「オレはなんともねえ。お前ほんとに大丈夫なんだな」
     周りでは事故と知って人が集まりはじめていた。車はさっき私が立っていた場所に突っ込んでいる。車体が当たった公園のフェンスはひしゃげていた。あれに当たってはただではすまなかったはずだ。巻き込まれた人はいなかったようで、運転手が周りの人によって助け出されいる。
     私は何かに呼ばれた様に公園の時計を見た。時計はちょうど十九時を指している。私はループに連れ戻されると思って身構えたが、何も起こらなかった。そこでこの時計が数分遅れていたことを思い出す。
    「ガンガディア」
     見ればマトリフは私の手を掴んでいた。その手が震えている。
     その姿を見て私は唐突に思い出した。本当の八月八日の十九時。私はマトリフとこの公園の前を通りかかり、暴走した車にはねられた。迫りくるバンパーを見たとこまで覚えている。すぐに視界が暗転して、そこからは何も見えなくなってしまった。遠くにマトリフの声を聞いていたが、やがてそれも聞こえなくなった。それが私の死の瞬間だったのかもしれない。そして目が覚めたら、また八月八日の朝に戻っていた。私は自分が死んだことを忘れて、ずっと同じ日を繰り返していた。
    「私は……生きているのか?」
    「そうだ」
     すると近くに車が止まった。運転していたのはバルゴートだった。視線だけで乗れと促される。
     私たちは事故の騒ぎから抜け出してバルゴートの車に乗った。滑るように車は発進する。
     私はまだ自分が体験したことが信じられていなかったが、マトリフの説明を聞いてようやく納得した。やはり本来の八月八日の十九時に私は死んでいたようだ。
    「オレはお前がいないことに耐えられなかったんだよ」
     マトリフは俯いて言葉を振り絞っていた。その思い詰めた声に胸が締め付けられる。自分の死よりも、そのことがマトリフを苦しめたことがつらかった。
     悲しむマトリフを見かねたバルゴートはある提案をしたという。それがこのループだった。私が死を回避できれば、新しい未来が続くという。だが、ただ死を回避するだけでは駄目で、変えるのは私が死ぬことだけ。他のほんの些細なことでも変えてしまえば、ループからは抜け出せないらしい。
    「私が成功しなければどうなっていた」
    「お前なら出来るって信じてた」
    「評価されるのは嬉しいが、過大評価だ。君の助言がなければできなかった。いや、もっと早くに教えてくれていたら」
    「それはできなかったんだよ。ループのオレはお前が死ぬって知らねえ。あの海に行った日は……ありゃ師匠の仕業か?」
     バルゴートはルームミラー越しにこちらをちらりと見たが、何も言わなかった。ループに介入できるとしたらバルゴート以外にはいないだろう。なぜバルゴートが私を助けるような真似をしたのかと考えていると車が停まった。
    「着いたぞ」
     そこはバルゴートの屋敷の前ではなく、私たちのマンションの前だった。マトリフも少し驚いたようにバルゴートを見ている。
    「次の食事はお前たちの家で。招待を待っている」
     私は驚きのあまり返事が遅れた。それはバルゴートが私たちの関係を認めてくれた瞬間だった。
    「ああ、いいぜ」
     マトリフは私の手を引いて車を降りた。マトリフは運転席のバルゴートに手をあげる。
    「あんがとよ、師匠」
     バルゴートがかすかに笑みを浮かべているのが見えた。私はバルゴートに頭を下げたが、すぐに手をマトリフに引かれる。
     部屋に入るとすぐにマトリフが抱きついてきた。私はその小さな身体を抱きしめ返す。部屋は静かで、時計の針の音だけが響いていた。時間が進んでいくのを感じる。私はようやく本来の時間の流れに戻ってきたのだ。
    「明日は……」
     私は言いかけたものの、言葉が続かなかった。明日が来る実感がまだない。目覚めたらまた今日が始まるのではないかと思えてしまう。
    「明日のことは明日に決めりゃいいだろ」
     抱きしめた温もりは確かにこの瞬間に存在している。きっと明日もその明日も続いていくのだろう。
    「とりあえず寝坊しようぜ。そんで、朝飯はフレンチトースト以外のもんがいいな。お前は食い飽きただろ」
    「私は二度と食べたくないが、君好みのフレンチトーストなら誰よりも上手く作る自信がある」
     マトリフは喉の奥を震わせるように笑うと、私を寝室へと導いた。電気もつけずに二人でベッドに倒れ込む。私はマトリフの手を取って手の甲に口付けた。細くて骨張った指を唇で一本一本確かめるようになぞる。くすぐったいのか逃げようとする腰に手を伸ばして引き寄せ、首筋に顔を埋めた。マトリフの匂いに満たされると心が落ち着いていく。それなのに何故だか涙が滲んだ。マトリフの身体を掻き抱く。マトリフの手が私の背に回った。舌先で首筋に触れれば、マトリフの身体が甘く震えて次の私の行動を待っていた。
     その夜、私は久しぶりに眠った。腕の中に愛おしさを抱きしめ、少し開いたカーテンの隙間から星が落ちるのを見た。

     ***







     明日の天気は?

     ①晴れ
     ②曇り
     ③雨







     ***

     ①晴れ




     眩しさに顔を顰める。カーテンの隙間からは早朝とは思えない陽射しが入り込んでいた。そのなかで埃がきらめきながら泳いでいる。この部屋で生きる回遊魚のように。
     隣ではマトリフが熟睡していた。起こしたくはないが、どうしても触れたくて手を伸ばす。すると手が届くより先にマトリフの口が開いた。
    「……もう起きてんのか」
     その言葉にぞわりと背筋が凍った。視界が揺れて、喉は乾いて音を発せなかった。室温計は二十七度。管理された空調は快適な室温を保っていた。
     マトリフの瞼がゆっくりと開く。その瞳がこちらを向いた。柔らかく細められる目に、優しさが滲む。
    「どうした、ガンガディア」
     まるで底なし沼に沈んでいくようだった。だが私はマトリフに笑みを向けた。
     これは幸せで終わりのない物語なのだ。この世界でもマトリフさえいればそれでいい。ずっと終わらない夢を見続けるんだ。
     マトリフの手が私の手を掴んだ。寝起きの温かな手は熱いほどだった。その手に口付ける。
    「朝食はフレンチトーストにしようか」






     ***

     ②曇り





     心地よい微睡から目覚めた。随分と長い夢を見ていた気がする。
     目を開ければ薄暗い部屋の天井が見えた。目を瞬いて隣を見る。だがそこにあるはずの姿がなかった。
    「マトリフ?」
     思わず手を伸ばしてみるが、そこには体温すら残っていなかった。
     慌てて起き上がって部屋を見渡す。開けられたカーテンからは曇天が見えた。鼓動が速くなっていく。寝室のドアを開けようと手を伸ばしたが、先にドアが開いた。
    「起きたのか?」
     マトリフがエプロンをつけて立っていた。香ばしい匂いと、何かが焼ける音が聞こえてきた。
    「……あ」
    「朝飯もうできるからよ」
     マトリフは得意そうに笑って私を見上げてくる。どうやら朝食は自慢の出来らしい。私は頭の回転が十分の一になってしまったように、ゆっくりとあたりを見渡した。
     つけっぱなしのテレビから天気予報の音声が聞こえる。八月九日、今日の天気は一日中曇りでしょう、と予報士が言っていた。
    「マトリフ」
    「ん?」
     私は手を伸ばしてマトリフを抱きしめる。力を込めすぎたのか、マトリフはくぐもった声を上げて私の胸を叩いた。
    「おはよう」
     新しい朝がきた。君と二人で歩む朝だ。



     ***

     ③雨




     絶え間なく続く音がなんなのかわからないまま目が覚めた。ひどく頭が重い。部屋は暗く、まだ時間が早いのかと思ったら寝過ぎたほどの時刻だった。聞こえていたのは雨音だったらしく、窓硝子に叩きつけるほどの勢いだった。
     マトリフは背を向けて眠っていた。私は起こさないように起き上がる。外が雨ということは、八月八日は終わったのだ。低気圧の頭痛をもたらしたとしても、雨が恋しかった。
     朝食は簡単なもので済まそう。頭痛薬は残っていただろうか。私は考えながら寝室を出た。
     電気ポットに水を入れてスイッチを入れる。マグカップにインスタントのスープ粉末を入れたものを二つ用意した。私のマグカップはふちが少し欠けているのだが、マトリフとの揃いだから使い続けていた。
     カチリ、と音を立てて湯が沸いた。私は引き出しから出した頭痛薬を置いて寝室へと戻る。マトリフは先ほど見たのと同じ姿勢で眠っていた。
    「朝食はスープでいいかな」
     ベッドに腰掛けてマトリフの肩に触れる。その肩が冷たくて思わず手を離した。
    「マトリフ?」
     マトリフの目は閉じたままだった。強く揺さぶっても起きようとしない。胃の底から何かが迫り上がってくるようで、私は息を詰めた。
    「マトリフ!」
     最初に触れたときから、それが生きた人間の体温ではないとわかっていた。だが信じたくなくて首に手を伸ばす。細い首筋に触れると、そこにはあるはずの脈拍はなかった。
     外では雨が降り続いている。声をかき消すほど雨音は激しかった。


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