信じられる日はいつか 本日は珍しく聖蹟サッカー部完全オフである。昨日の部活後、水樹達は三年通学組は寮に泊まり夜遅くまで遊んでいた。一年の寮生である今帰仁は三年の元気と仲の良さに若干引いていた。そんな今帰仁に二年の寮生は巻き込まれたくないなら早く寝てしまえとアドバイスした後すぐに部屋に引きこもった。
灰原の部屋でゲームや何やと騒いで遊んで雑魚寝して。朝になり水樹は目を覚ました。他のみんなはまだ寝ているが、水樹には所用があるので帰らなければならない。ぐう、と水樹の腹が鳴った。昨日の残り物か何かないだろうか、と水樹は周りを見るが何も残されていなかった。がっかりする水樹の耳に微かな笑い声が聞こえた。
「ふ、ふふふ……」
臼井が座布団を枕にして寝転んだまま、口元を手で覆って笑っていた。
「ごめん、笑うつもりなかったんだけど」
臼井は起き上がるなり水樹に謝った。水樹は特に気にしていなかったので、うん、と頷いた。
「用事があるから朝早く帰るって言ってたよな。まだ時間あるか? あるなら笑ったお詫びにご飯用意してやるよ」
「ぜひ」
お願いしたいと水樹が続ける前に、腹がぐうと鳴った。あはははと臼井は声を立てて笑った。
二人は臼井の部屋に移動した。臼井が座って待っていろと言うので水樹はちゃぶ台に座る。しばらくして臼井はおにぎりを持ってきた。
「食べてて」
臼井はそう言った。一緒に食べるものだと思っていた水樹が首を傾げていると、臼井は洗濯物を干したいんだと言った。タイマーをセットしていたらしい。手伝おうかと水樹が申し出るも、結構だと断られた。水樹はきっと洗濯物を落としたり、ぐちゃぐちゃにして干すに違いないからだと言う。心外だ。
寮のベランダで臼井が洗濯物を干しているのを眺めながら水樹はおにぎりを食べる。臼井は米を上手に丸めることができる。水樹にはできない。臼井は以前、三角にもできるけど、水樹の食べる量に合わせると丸じゃないと無理だと言っていた。
臼井が用意したおにぎりは五つ。大きいのが三つ、小ぶりなのが二つ。大きい方を三つとも食べていいと臼井は言う。いいのだろうか。
「うん……実は残飯処理に近いんだ。だから遠慮はいらない」
どうやらご飯の余りを冷凍保存していたものを使ったらしい。あまり美味しくないと思う、と臼井は言うが充分美味しい。梅干しと昨日残りの唐揚げが入っていた。
洗濯物を干し終えた臼井がおにぎりを食べる。
「水樹は今日なんの用事があるんだ?」
「陸上部の同窓会だと言っていた」
「なんで他人事みたいに言うんだよ」
受験が本格的に始まる前に遊ぼうと当時の部長が発起人になって集まることになった。温水プールで全力で遊ぶらしい。
臼井も食べ終わったので、せめて皿を洗おうとしたが、それも断られてしまった。
約束の時間はまだ先だが、待ち合わせには充分余裕を持って行動するよう釘を刺されていた。それに、水着を取りに一度家へ帰らねばならない。なので、もう帰った方がいい。だが何となく帰りがたい。寂しいような、残念なような気持ちになる。
とりあえず腕立て伏せをして、臼井の部屋に居座ることにした。急に筋トレを始めた水樹に驚いた様子もなく、臼井は話しかけてくる。
「時間は大丈夫なのか?」
「うん。後三十分くらいは」
多分、と心の中で付け足しておく。
「じゃあ、急いで準備するから一緒に出よう」
「? 臼井もどこかへ行くのか」
「好きな映画がリバイバル上映してるんだ」
サバイバル?
「違うよ」
臼井が準備ができたというので、一緒に寮を出る。サッカー部の三年はまだ誰も起きていないようだ。廊下で今帰仁と出会したので挨拶をする。臼井が今帰仁に髪がはねていないか聞いている。大丈夫ですよ、と言われて安心したようだ。何故俺に確認しないんだろう。
何故だろうという念を込めて臼井をじっと見ていると、臼井は言った。
「水樹はそういうの、気づかないだろ」
そうかもしれないと思った。
***
「おにぎりが食べたい」
「……昨日コンビニで買ってなかったか?」
「臼井がにぎったのが食べたい」
「それは無理だな」
ホームが違うスポーツ選手同士の逢瀬は慌ただしい。久しぶりにホテルで夜を過ごしたが、昼にはそれぞれの生活に戻らなければならない。代表選手の水樹は遠征も多い。必然、臼井が水樹に逢いに行くことが多くなる。未だ寮暮らしの水樹と逢引する場所は食事処やホテルとなる。高校の頃のように水樹のために腕を振るうことは滅多になくなった。
「カレーも食べたい」
昨夜は人をあられもない姿にしておいて、散々無体をしいたくせに、翌朝には食べ物しか頭にない男。水樹でなければ蹴り飛ばしているところだ。
「そうだな……次お前がうちに来た時、元気があったら作ってやってもいい」
水樹はまだ寮暮らしだが、臼井は既に寮を出ている。水樹が泊まりに来た時、大抵水樹は臼井を抱き潰す。なので臼井は同衾前にカレーなんてとても食べられないし、翌日作ってやる元気もない。
眉間に皺を寄せた水樹ににこりと笑って洗面所へ向かう。セックスか食事か。食べ物ばかりの男へ、ちょっとした報復だ。人の負担も少しは考えろ。
それほどまでに求められているのは、本当はすごく嬉しい。水樹には絶対言ってやらないが。
髪型を整えながら、ふと高校時代を思い出した。水樹ともう少し一緒にいたいと思って、普段一時間かけていたヘアセットを二十分で済ませたあの日。胃袋を掴もうとしたあの朝……いや冷凍ご飯の処分も兼ねてたから微妙だな。でも、今振り返ると普通に恥ずかしい。石川にいた頃は恋でペースを乱される臼井雄太なんて想像もしなかった。
「臼井」
ヘアセットを終えて部屋に戻る。水樹はいつも通りの真顔で話しかけてきた。
「考えたんだが、できれば毎日カレーが食べたい」
「……は?」
「難しいのは分かっているんだが」
水樹はずいっと顔をこちらに寄せて言った。
「遊びに行った時だけだというのは、嫌だ」
水樹は大真面目に言っている。
「ふ、ふふふふ」
「え」
「ごめん、真面目に言ってるって分かってるんだけど」
毎日カレーがいいなんて、子どもみたいなプロポーズもあったものだ。プロポーズのつもりなんてないだろうけど。
「毎日カレーは飽きるんじゃないか?」
「焼きそばと一日置きでどうだろうか。焼きそばは俺が作るので」
「朝ごはんは?」
「おにぎりがいい。メロンパンの日があってもいいです」
「くっ……くく……あははは」
水樹はメロンパンさえ与えていれば臼井が言うことを聞くと思っているのだ。いつまで経っても。
水樹の胃袋は思った以上に掴めた。ただ、水樹も臼井を動かすには食べ物で釣ろうとするようになってしまった、ということらしい。自業自得と言えるかもしれないと思うと、愉快な気持ちになった。
笑っていたら、水樹が置いてけぼりを食らったような顔をしていた。
「笑ってごめん。馬鹿にしたつもりじゃなくて……想像したら楽しそうだなって思って」
水樹の顔がぱっと輝いた。じゃあ、と言いかけた水樹を制する。
「今すぐには無理だ。わかるだろ」
しゅんとした水樹の顔を両手で挟んで鼻先にキスした。
「今は駄目だけど……そうなった時のために、もう少しレパートリーを増やしておいてくれないか」
「ワン」
「レトリバーじゃないよ」
首を傾げる水樹は可愛い。アホだけど。
料理だけじゃなくて生活能力を高めておいてほしい。まあ一緒に暮らして始めてから鍛えるというのもいいかもしれない。
久しぶりに逢えたのだから、少しくらい夢を見たっていいだろ。
臼井は水樹がテレビのインタビューで巨乳が好きだと場面を思い出し、水樹の額を指で弾いた。
「そろそろチェックアウトの時間だ」
水樹が望む生活を、共にするのは臼井でなくてもいいんじゃないかと、いつ水樹は気づくだろうか。
名残惜しそうにキスをねだる水樹。臼井は当然それを受け入れる。それでも臼井は未来を信じることができなかった。