遮るものなく広がる一面の夜空は、壁を覆うために吊り下げられた大きな幕みたいだと、モクマは主役のいない舞台を見つめながら思った。
しかもただの布ではない。深い紫紺色をして、びろうどのようになめらかで重厚で、いかにも相棒の故郷にふさわしい、高級感のある夜の色だった。
星は見えなかった。雪を降らすための薄雲が、布地の上を覆っているから。
半透明の紗幕は上手から吹き付ける風に乗って舞い散る雪の小粒とあいまって、はかなげでうつくしい世界を作り上げていた。
ひゅおおおおう。ひゅおおおう。
か細い風音が、彼女の不在を嘆くように響き渡る。
ほんの数分前まで、ここにはとびきりきれいな空の上のお姫様がしゃんと背を伸ばして立っていた。
まとわりつく雪で全身に粉砂糖をふりかけたお菓子のようになりながら、この極北の夜にはふさわしくない寒々しい制服姿なのに、半歩前のなんてことない電灯の明かりをスポットライトに塗り替えて、彼女はモクマの目を捉えて離さない、遠い日の美しさのままだった。
だけど、今はいない。ダウンジャケットの袖のリブの隙間からめざとくもぐりこんだ寒気に背中をつつ、となぞられて、モクマが思わず身体を抱いて身震いしてしまったのを見逃さず、着替えてきますと舞台袖に引っ込んでしまった。
さすがの相棒でも、今ばかりは魔法のような早着替え……とはいかなかったのだろう。無理もない。服の中は変わらずボロボロで、痛み止めすら飲んでないのだから。
『あの温暖なミカグラ育ちにはさぞ堪えるでしょう。……こちらで待っていてください。すぐに戻ります』
そう言い残して、高いかかとで雪に小さな穴を開けながら、モクマの隣を通り過ぎてゆく足取りはよどみなかった。
そのつんと鼻のとがった横顔の、桜色の唇とばらの頬がつくる穏やかな微笑みも、笑いを噛み殺すような声も、最後まで完璧に、うつくしいお姫様のままだった。
こちらの方が何倍も厚着していたというのにみっともない。
はあ、と、空を見上げてため息をこぼすと、呼気にはたちまち白い色がついて、風に吹かれて雪花と混ざり合って見えなくなった。
「……さむいな……」
口をついた言葉はほとんど無意識だった。
そうだと思い出してポケットを探ると、幸い数日前に買った携帯カイロは忘れられたままそこにいてくれた。たまにはずぼらなのも役に立つ。
袋の切れ目に手をかけるけどナイロン地のぶあつい手袋じゃ細かな動きができなくて、もたついた末に諦めて素手になって、ようやく開けた。
こんなのじゃ気休めにもならないだろうけれど、ないよりはいくらかマシだろう。
彼女のむき出しの指先は、最後はかわいそうなくらい真っ赤になっていた。清楚にくっつきあった膝小僧だって。
ぎゅ、と、カイロを両手の中に握り込む。
まったく、たいした役者ぶりだった。
いつもあんな風に、寒さも痛みも我慢して、時には催眠で誤魔化して、平気な顔して演技を続けて生きていたのだろう。
気づいていたつもりでいた。
おれだけは違うと思っていた。
観客として離れた席で口を開けてあいつの魔法に見惚れるだけでなく、舞台の裏で支えてやれる存在なのだと。ひとつ幕が下りても、次の興行地へ向かう車の助手席には、変わらず彼が座り続けてくれるのだと。
でも、全然足りなかった。
何が? 力も、想像も、なにもかもが。
手の中の四角形はちっとも温まる気配がなくて、すこし考えたのちに懐にしまって抱きしめることにする。と、同じ場所に入れたままだった手紙がかさ、と乾いた音を立てて居所を知らせた。
『懐のあたりが、特に疼くんです……。この感覚を紛らわせてはならない……』
……よく考えたら、さっき、口調はあいつのものに戻っていたな。やっぱり見た目ほどに余裕はなかったのだろう。本当に、ほんとうに、意地っ張りでばかなやつだ。
モクマのほんの少しだけカイロが熱を発し出した胸のあたりも、ぎゅうっと鷲掴みにされたように疼いた。指先がダウンジャケットの羽毛の詰まった膨らみを握りしめる。
冬のただなかの、夜の底であった。
極北の相棒の故郷は、凍えるほどの寒さだった。
耳に残る相棒の声の他に聞こえるのは、かわらずひゅおおう……と雪花を舞いあげる風の音だけだ。
辺りには人っ子一人いなかった。大捕物を繰り広げていたルドンゲンの市街地の喧騒はここには届かず、先ほどまでのどたばたがまるで夢のように遠くにある。
家も商店も近くにはなく、細い歩道は雪に埋もれて、道路だけがかろうじて車の轍をかすかに残しているが、それももう白に覆われて消えかけだ。電灯すらもまばらで、大きな白樺の木だけが数本、細くすべらかな黒混じりの背をすっくと直立させて並んでいる。
視線をまっすぐ前に。
見渡す限りずっと向こうのほうまで開けた、夜の大幕と雲のベールだけがかかる、だだっ広い空間。
さきほど、美しいCAさんが佇んでいた舞台の背景はここだった。
広い敷地を囲むように道が敷かれ、まばらに木が植わり、電灯が配置される。
だけど、それだけ。
誰も踏み入れぬよう、宝物のように囲われたその中心は、本当に何もなかった。
きっと鳥が昼間に空から眺めたら、そこだけぽっかりと四角く切り抜かれた穴だと間違えてしまうことだろう。
彼と彼女の過ごした邸は、土地の大きさでいったらそこそこのものだった。建物はすっかり跡形もなく取り壊されているが、かわりに何かが建つこともなかった。
チェズレイはまだ帰ってこない。
ぼんやりと見つめながら、海のようだとモクマは思った。漁船の甲板に頬杖ついて、飽きることなく眺めた地平線のように、空との境界が、一直線に真横に伸びている。
だけど、色は違う。上は砂糖がけの藍色で、下は、青でも透明でも夕焼けでもなく、見渡す限りの白、白、白。
隙間なく波もなく、足跡もひとつもなく、ただ平らに白がしきつめられたそこは、まさに雪原と、そう呼ぶにふさわしい景色であった。
うつくしかった。だけれど、
(ミカグラのようにはならなかったんだな……)
「……ヴィンウェイには土地がたくさんあるから、郊外では売れない。というより、売り手がそもそもいなかったのですのが」
「……ああ、その格好のほうが寒くなさそうでいいなあ」
気配には気づいていたから、驚きもせずにそれだけ返す。心をすっかり読まれるのも、もう今さらのことだった。
音もなく隣に並んだ相棒は首元にファーのついた、いかにも暖かそうな黒いカシミヤのコート姿に戻っていた。これ、身体に貼るのはよくないかもだが、手をあっためるのくらいには使えるかなあ、と懐のカイロを差し出すと、すこし面食らった顔をした後で、肩をすくめて、いただきましょうと受け取ってくれた。しばらく握るもブラウンの革手袋越しではかすかな熱の恩恵にはあずかれなかったのか、少し考えるような間の後で、そっと手首の隙間から、グレーの包みが差し込まれた。「あたたかい」とこぼす声も見下ろす眼差しも柔らかだけど、顔を上げて雪原を見つめる目は、どこか遠くを見るようだった。
「母が死に、父が死に、実の親のファミリーの仇となったわたしもそこにのうのうと住まうわけにもいかず、わたしはその日のうちに邸を出ました。報復のつもりなのか数日の後に火がつけられ、周りに家屋がなかったのが幸いですが――ふたりの写った大切な写真も、何度も読んだ本も、ピアノも、スコアも、傷のついた階段の手すりも、わたしたちの思い出はすべて燃えました」
まァ、自業自得ですが。横顔のしろい唇が自嘲気味にゆがむ。
「そんな曰く付きの、マフィアが牛耳っていた敷地は、国も手を出したくなかったのでしょう。タチアナの関与もあったかもしれませんね」
戻ってきたチェズレイは饒舌だった。さきほど無言になってしまったのを取り戻すつもりなのか、それとも痛みが増してきて、話していないとつらいのかもしれない。
あるいは、ほんとうに言葉が溢れてとまらないのかもしれない。それにはモクマも覚えがあった。鍾乳洞で生まれ変わったあと、モクマもこれまで蓋をしてきた感情があふれてとまらなかった。あの時は里がたいへんでそれどころじゃなかったけれど、そうじゃなかったら水の盃を交わしながら、チェズレイを夜通し付き合わせていたかもしれない。
ふたり、一年半もいちばん近くにいたくせに、いま思えばなんだか上澄みを掬うような、表皮だけをなぞるような、そんな話ばかりをしていた気がする。
モクマは、相棒の繊細な心に土足で踏み込むのがこわかった。すました顔をして、その傷は癒えきらずにかさぶたの下で膿んでいるのが手触りでわかっていたから。
だけど今思えば、もっと踏み込むべきだったのだ。舞台の裏方で満足しているんじゃなくて、俺も一緒に演じたい、そうしたいんだと、伝えるべきだった。
意気地なしだった。大切だからこそ恐ろしくて、言い訳をして二の足を踏んでいた。
ああしていたら。あのときこうしていたら。
思えばずっと、そんな後悔ばかりを繰り返してきた人生だった。
だからこそ、今、隣にいる男が吐く息があたたかく、空気を白く染めていることが、涙が出るほどに嬉しかった。
もっと、チェズレイの話を聞きたかった。たくさん、話をしたかった。
だけど、今だって、じゅうぶん『それどころじゃない』状況だった。言葉が途切れたタイミングで口を開く。「そろそろ戻ろうか」
「ええ――、」
「わっ」
「あァ、すみません、脚が少しもつれて……」
歩道へとつま先をむけた瞬間、がくんと身体がくずおれたから慌てて支える。顔を青くして覗き込むけれど、幸い気絶したわけではないらしい、すぐに力は戻って立ちあがろうとするので無言で細い腕を肩に回して手のひらを掴む。「なにを、」密着する身体とからだ、間近の顔が弾かれたようにこちらを見た。鋭く見返して腰を押さえる。
「なにを、じゃないよ。そろそろ痩せ我慢も限界だろう。かと言って担架もないのに運ぶのも怖いからさ。お前さんがまだ歩けるなら、支えてやるから、ゆっくり戻ろう」
「…………」
穏やかだけど有無を言わさない口調に、しばらくの間の後で、チェズレイははあとため息を吐いた。
「……身長差がありますから、せいぜい姿勢を正してくださいね」
「うんっ! そりゃもう、お前さんにも負けないくらい上からピーンと糸で吊るされちゃうよ!」
「フ、なんですそれ……」
もう何を言っても無駄だという諦念とほんのすこしの安堵の香りを燻らすそれは、山小屋で連れて行くなら催眠なんかどうでもいいとモクマがふてぶてしく言ってのけた後の空気とよく似ていた。
ひゅおおおう、ひゅおおおう。
風の歌声の中、肩を貸して、夜の底をふたりで歩く。言われてみれば確かにこの身長差じゃむしろ辛い体勢かもしれないと今さらに不安になるが、チェズレイの方はもうすっかり諦めたようで、大人しく脚の自由な二人三脚に甘んじている。
肩に回った腕の、柔らかな布地がモクマの髪とマフラーと隙間をやさしく埋めてあたためる。手首を掴んで支えられて、そこから柳のようにだらりと力なく垂れ下がった手袋の枝が、それでも中指と薬指だけ折れて、中に詰めたカイロを取り落とさないように掴んでいるのがけなげでたまらなかった。
雪をはらんだ冷たい外気から隣のひとをすこしでも守れるように、ぴったりと身体を寄せ合う。
ずり、ずり。ひきずるようにゆっくりと、けれど滑らぬように大地を踏みしめながら、歩調を合わせて歩く。
チェズレイは一転して静かになっていた。意識を保たせるために、話しかけたほうがいいだろうか。進行方向に障害物はないかと注意深く目をこらしながら、ついでに話題を探す。
「そいえばさ、さっきからずっと思ってたんだが、ヴィンウェイの夜空って独特な色をしてるよね」
「……と、いいますと?」
「里の夜は星がきれいだけど真っ黒なんだ。逆にミカグラは人工の灯りで夜でもまばゆい。夜は光を際立たせる背景って感じだ。
けど、ここは……ここの夜には、色がある。もうだいぶ夜も深いっちゅうのに、何となくうす明るいよね。雪のせいかな」
「あァ……雪の反射率はとても高いのです。電灯の光も家の灯りも、常よりよく反射する。天然のレフ板のようなものです。市街地に行けばもっと明るいですよ。時にはばら色に見えたりすることもあります」
「なるほど……」
ずり、ずり。話している間に車のすぐそばまでやってきた。ふう、と気が抜ける。
明るい夜。北の大陸では夏は一晩中沈まぬ日があると聞いたことがあったが、それとはまた違う、やわらかな薄明かりに照らされた世界。
どれ、どこまで光は届くのだろうとなんとなしに見上げたモクマの目が、ある一点でひたりと止まった。
足も止まる。はあ、と吐息が溢れて、信じらないとばかりの瞬きふたつ。いや、夢じゃない。
もうほとんど意識を飛ばしながら、意地で歩を進めようとする相棒の腰に、とん、とん。添えた指でやさしく知らせる。
気づいて、おくれて足が止まるのを待って。それから口をついた声は、まるで宝物を見つけた子どものように弾んで、けれど同時に、そんな子の笑顔をいとおしげに眺める大人のように、深く静かな響きもしていた。
「……ねえ、チェズレイ。見えるかい」
「なん、ですか? ――ああ」
言わんとすることは、すぐに伝わったようだった。
二人して、くちをあけて、息も忘れて、ただただ空を眺めている。
ひらひら舞う白い風花の、その、向こう。
紫紺のびろうどに貼り付けられていたはずの薄雲が、ふいにぷつりと途切れている。
まるで彼の忘れられた邸の跡のごとく、はさみで切り取ったように、そこだけ、混じりけのない夜の色が顔を覗かせていた。
だけど、ふたりを驚かせたのはそれじゃない。
そうじゃなくて……、なんと、その小窓の中央に、針のように細い月がぴたりと嵌まって、じっとこちらを見返していたのだ。
「三日月」こぼすチェズレイの声は掠れていた。それからはっと気づいたように、「あァ、見えますよ。……いい月だ」と、言い直されたのは、いつかどこかで自分が口にした台詞のリフレイン。
律儀者の冠を被るにふさわしいその返答には、だけどそれだけじゃない、万感の想いが篭っている。
モクマだって同じだ。
ああ、胸がいっぱいで、疼いて、たまらない。
まさか、今、この時に、きみに逢えるなんて。
「……雪って、元を辿れば雨だよね。それなのに、月が見えることなんて、あるんだ」
「雪は雨よりも軽いので、風に流されます。
今はきっと、風上のほうで降っているのでしょう」
「そっか。そっか……、ごめん、止まっちゃって……」
なるほど。チェズレイの博識にかかればすぐに不思議も謎も詳らかだ。
奇跡はそう簡単に起きるものではないらしい。
それでも、モクマの胸の高鳴りはちっとも止まってくれなかった。
ほの明るい闇の中、あと、数歩というところだった。
こんな寒いところに居ちゃあならない。すぐに車に押し込んで、身体を固定して、痛み止めを飲まして、少しでも寝かせて、空港まで走らなくちゃならない。
『それどころじゃない』のはわかっている。
だけど。
手紙の詰まったうずく懐から、おまえのおかげで再び鼓動をはじめた心臓の奥底から、言葉が溢れて喉元へと迫り上がってくる。あの時と同じ、いや、それよりも、ずっと。
今。今しかないと思った。今、この三日月の下で、おまえの思い出の眠るこの場所で、言わなくちゃ、伝えなくちゃ。
『捕まえられる時に捕まえておかなくては。
――この手で直に』
(――ああ)
はっと気づく。
やっとわかったよ、チェズレイ。お前も、あの時、こんな気持ちだったのか。
時間がない。できるかぎり手短に。だけど、確実に。ここは舞台の上じゃない。死ぬまで続く現実だ。台本は誰も用意してくれないから、足りない頭を総動員させて、必死で言葉を組み立てる。
緊張のあまりついつい力の入ってしまいそうな指がおまえの身体を痛めぬよう、意識しながら。視線が下に。ならぶ二つのスノーブーツに雪がたくさんついている。
「チェズレイ」
「なんでしょう」
ああ、声が上ずっているのがわかって恥ずかしい。
なあ、お前も、あの時、こんなに必死だったのかな? 演技がうまくて、ちっともわからなかったよ。
今だってわからない。なぜもう少しなのに進まないのか、チェズレイは聞かない。モクマときたら明らかに挙動不審なのに。もしかして全部バレてるんじゃないかと心配になる。
でも、それは言わない理由にはならなかった。チェズレイ、ともう一度名前を呼ぶ。