『さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫』
——古今和歌集 詠み知らず
七海はいつもよりも早く起きたので今日は前から気になっていたカフェで朝食を取っていた。刺す様な日差しが和らぎ、朝晩は冷え込む。テラス席に座っていても風が心地良い程だ。夏と秋の間の中途半端な季節が嫌いという人も居るだろうが、七海は案外好きだった。これから来る本格的な寒さの前の安らぎの季節と感じるからだ。それに食べ物が段々美味しくなる時期でもある。
店員が持ってきたコーヒーを一口飲む。深煎りのコーヒーは苦味が強く目が覚める様な味だった。コクもあり、七海好みの味だった。
一緒に頼んだエッグベネディクトをナイフとフォークを使って切り分け口に入れる。オランデーソースの爽やかな酸味と卵のまろやかさが絶妙に溶け合い、マフィンとサーモンを引き立てる。ここを選んだのは正解だった。
料理に舌鼓を打っていると目の前の席に誰かが座る気配があった。
艶やかな黒髪の美しい女性だ。手にはパンの袋を持っている。形の良い小さな唇から鈴の鳴る様な声で話し掛けられた。
「相席いいかしら?他は日差しが強くて。」
確かにこの席は丁度建物の影に入る位置で日差しを浴びる事は無い。日に当たりたくなければ店内で食事をすればいいのだろうが、外の清々しい空気を感じたいのもわかる為七海はどうぞ、と了承した。
「ありがとうございます。」
女性は席に座り、クロワッサンを袋から取り出し食べ始める。面識があるわけでは無いのでお互い無言で食事を進めていく。
「ねぇ。手の届かない高みにいる人の側に居るにはどうしたらいいかしら?」
突然女性が此方を見つめ、七海に問う。内容は突然過ぎて意図が全く掴めなかったが手の届かない高みにいる人の側に居たいという気持ちは痛いほど分かる。
七海の脳裏に浮かぶ、強くて、美しくて、孤独な人。
だからだろう女性の問いになんとなく答えてしまった。
「隣には並べませんが後ろからその人が歩む道を支えたり、時には肩を貸すことは出来るはずです。勿論、その為の努力は必要ですが。」
それを聞いた女性は俯き、幽かな声で呟いた。
「そう……貴方はそうなのね。」
女性は七海の手に触れると荷物を持って席を立つ。その際、七海の手に触れた方の手でスーツの胸ポケットに何かを入れる仕草をし、去っていった。
七海は女性など最初から居なかったかのように食事を進めた。
朝食を摂った後、七海は任務の為高専に来ていた。今日は東京近郊で二件、任務が入っている。任務内容の確認と打ち合わせの為ロビーで補助監督を待っていた。
ソファーに座って新聞を読んでいると五条がロビーを通りがかった。七海が五条と会うのは珍しいことではない。教師をしている五条は高専にいる事が比較的多い。七海が狙って会いに行っているのもあるが。
五条は笑って七海、と声を掛けた所で立ち止まり急に真顔になる。七海の方へ大股で歩いてきたと思うといつも着けている包帯を外し、息が掛かる程の距離まで顔を近づける。あの、二つとない色合いの蒼い目が七海をじっ見詰める。思わず七海はソファーの背もたれに寄りかかり、背を反らして精一杯顔を遠ざける。五条は自分の顔の良さを理解しているのに距離感がおかしいのは何故なんだろう。此方は複雑な感情を向けているのだ。少し動けば、その白い頬に触れられるまで近づかないで欲しい。
そんな事を一瞬思ったが五条のあまりの真剣な顔に七海の頭は冷静になる。五条がこういう顔をするのは本当に真面目な話がある時なのだ。五条の桜色の唇が動く。
「七海、いつ瑠璃子に会った?」
瑠璃子?そんな名前の人物に会った記憶は無い。素直にそう五条に伝えると
「オマエ、術式使われてるよ。残穢がある。ホラ、ここ。」
そう言って五条が指を差したスーツの胸ポケットを探ると小さなラピスラズリ——和名では瑠璃という——が入っていた。
七海は愕然とした。仮にも呪術師である自分がこうも易々と懐を許すとは。
流石に表情に出ていたのか五条は七海を伺い、そして言う。
「いや、瑠璃子の術式を使われたなら仕方がないよ。完全な不意打ちだったろうし。」
「その、瑠璃子という人物は何者なんですか。」
「……オマエ、今日の予定は。」
「突然なんですか。今日はこれから東京近郊で二件ほど任務です。」
それを聞くと五条はスマホを取り出し、電話を掛ける。
「あ、伊地知?七海の今日の任務、何処と何処?……うん、うん。一件さぁ、引率の任務の場所と近いよね?それ、僕が行く。もう決めたからヨロシク〜」
恐らく一方的に捲し立てて電話を切った五条は七海に向かって言い放つ。
「てことで一件僕が引き受けたからさっさと任務終わらせて高専で待ってて。」
そのまま歩き去っていった五条の後ろ姿を見つめながら七海は呟いた。
「なんなんだ……あの人。」
五条の行動がさっぱり分からない。
ただ、自分が知らず知らずの内に大変な事に関わってしまった事だけは確かな様だった。