恋人はじめ(オスアキ)あれ? と思った時には遅かった。
たった今自分は何を言ったんだったか。思い返してアキラは瞬く間に顔を真っ赤に染め上げた。ぱくぱくと口を開いては閉じ、言葉にならない声が口から零れ落ちる。
「あー、や……そのっ、お、俺は……っ!」
言い訳しようとアキラは必死になって言葉を探ったが何も見つからない。熱が頬に集中してまともに頭が回らない。どうしようもなくなって両手で顔を覆うしか出来なかった。
「うううう……」
ヘナヘナとその場に蹲って回想する。どうしてあんな事を言ったんだ、うっかりにも程がある、馬鹿か俺は。頭の中で自分に文句を言う。しかし後悔してももう遅い。言ってしまった事は取り消せないのだ。
「アキラ」
思ったよりも近くから聞こえてきた声に驚いて勢いよく顔を上げると、更に思っていた以上に近くにオスカーの顔があった。じっと目を覗き込むように見られ、思わず後ろに身が引けた拍子にバランスを崩して尻餅をついた。その瞬間オスカーに肩を掴まれたアキラはなんとか背中から倒れずに済んたが、オスカーの顔を見上げる格好になって息を呑む。
「アキラ」
もう一度名前を呼ばれる。気が動転して気付いていなかったが、よく見たらオスカーも顔を赤らめていた。困ったように眉尻を下げて、なのにどこか期待するような真剣の表情。
「あ、えっと」
「今のは」
殆んど同時に声を出してしまい、アキラはなんとなく口を噤んだ。オスカーはそのままアキラの言葉を待つようにして見下ろしていたが、アキラが黙っているのを見て再び口を開いた。
「本当、なのか」
「へっ」
その問い掛けにアキラは固まった。何かがおかしい。あれ? とこれまでの会話の流れを思い返して、そこでようやくアキラは何に対して『本当なのか』と問われたのか見当がついた。
「アキラ。その、俺も……お前を」
続けて発せられたオスカーの言葉にまた頭が混乱して、判断能力の低下したアキラは事の発端となった己の発言を再度繰り返した。
「俺、オスカーの事が好きだ」
オスカーが目を見開いて安心したように微笑んでアキラを抱き締めてくる。逞しい腕による遠慮のない抱擁を受けて、アキラは「ぐぇ」と一言潰れたような声を漏らした。
***
なんだったんだあれ、と今でもアキラは首を傾げる。最早前後の事は何も思い出せない。
うっかりオスカーに好きだと言って、オスカーも同じ気持ちだと答えがあり、なんだかよく分からないうちにめいっぱいハグされた。多分あの時絞め上げられて気絶したに違いない。何故ならその日の夕食に何を食べたのかさえ思い出せないのだからきっとそうだ。
夢だったのかもな、とも思ったがそうもいかず、しっかりお互いに覚えていたために数日気恥ずかしくて顔が見られなかったし、あからさま過ぎてブラッドとウィルのみならずトレーニングルームでよく顔を合わせる馴染みの他セクターの面々からも、何があった喧嘩したのかと問い質され、弁解と説明という名の公開処刑をさせられ、まさに怒涛の数日間を過ごした。
生温い同僚達の目線を無視する事にも慣れてきて、今日はようやく心身共に落ち着いて休日を過ごせるとアキラは安堵した。オスカーもそれは同じようで、久しぶりにリラックスしたような雰囲気で、二人でソファに座って他愛もない話をしている。
――どうしてソファに座って話をしているだけなのに俺達は手を繋いでいるんだろう。
アキラはふと疑問に思って視線を下に向けると、いつの間にかしっかりと指が絡められていた。繋いだ掌が熱い。
「……え、っと……」
アキラは恐る恐る隣に座るオスカーを見た。オスカーはアキラの方を向いていて、少し困ったように眉を寄せている。
「嫌だったか」
「いや……じゃないけど、さぁ……っ」
アキラは顔を真っ赤にして俯いた。握られた手にぎゅっと力が込められる。オスカーの手にはいつものように指抜きのグローブがない。素肌の掌が重なって、指と指の側面の肌でオスカーの指を感じる。アキラのそれより太く筋張った手指だ。
やたらと心臓の音がうるさい。アキラはばくばくと鳴る鼓動を感じながら、ちらりと横目にオスカーの様子を窺う。オスカーもこちらを見ていて目が合った。途端にアキラの身体が強張り、緊張が伝わってかオスカーもまた同じように体を硬くする。
緊張しすぎて息を吐くだけで精一杯なのに、目を離すのもなんだか躊躇われて、結局そのまま見つめ合う形になった。
「アキラが、嫌でなければ」
オスカーが一度手の力を緩める。今度は指を絡めずに、ただそっとアキラの手を包むように触れ合わせてきた。
「もう少し、このままでもいいだろうか」
オスカーの目が真っ直ぐに向いている。
相変わらず心臓の音は耳元で鳴っているようにうるさく響き、アキラの呼吸を浅くさせた。けれどそれは、決して不快なものではなかった。
「まぁ……いいけど」
アキラは小さく呟いて、その言葉に安心したように微笑んだオスカーに、胸の奥がきゅう、となる。
「ありがとう」
きつくない程度に再び手を握り直して、オスカーはアキラの目を見詰めたまま言った。
オスカーの目に見つめられるのが耐えられなくなって、アキラは俯いてオスカーの肩に額を押し付けた。ふぅ、と何度か深呼吸して、何度か瞬きする。
「本当は、言うつもりなかったんだよ。好きだって」
「……ああ」
オスカーが少し声を落とす。アキラはもう一度深く息をして、俯いたまま目を伏せた。
「オスカーの事は、すげーやつだって思ってるし、いいやつだなって。だから、わざわざ言う事ないとも思って」
思い返せば、自分の気持ちを特別隠しもしていなかったな、とアキラは思う。尊敬や好意までわざわざ隠す必要を感じなかったし、自分の気持ちに嘘を吐く器用さもなくただ勝手にオスカーを想っていた。
「でもなんか、あの時言っちまった。迷惑かも、とか何も考えなかったな……って」
オスカーがアキラの髪を撫でた。さらりとした感触を楽しむように、何度も優しく撫でてくる。そんな風にオスカーに触れられた事は今まで一度もなくてアキラはハッと顔を上げた。
「迷惑な訳があるか。好きなんだから」
オスカーがはにかむように目を細める。落ち着きかけていた心臓がまた大きく鳴り出してアキラは目を瞠ったまま固まった。
「お前が言ってくれてよかった」
「……ん」
緊張によって上昇した体温が目元に熱を集中させて、鼻の奥がツンと痛くなる。アキラは誤魔化すためにオスカーの服に顔を埋めてぐりぐりと擦りつけた。背中をぽんぽんと叩かれ、アキラは顔を上げる。
オスカーが穏やかに笑っていて、アキラも釣られてへにゃりと表情を崩した。
思っていたよりもずっと恋は簡単に叶ってしまったらしい。
***
アキラもオスカーもお互いに、相手が相手なので恋愛初心者もいいところである自覚はあった。
元々気の合うところがあり距離感が近かった同士ゆえに、今更適度な個体距離を計る事が難しい。どうにも相手の一挙手一投足がいちいち目についてそわそわと落ち着かない。
おそらく任務中やトレーニング中は集中している分、職務を離れてオフになった途端に意識のすべてが相手の方へ傾いてしまうのだ。そもそもの問題として、平静を装えるほど恋愛事に対して器用な性格でもない。加えて共同生活をしているとなかなか二人きりになる機会も少ないものだ。
スキンシップ不足を解消する為にも、何かのタイミングでガス抜きをするべきだろうとオスカーは思っていた。
――どうして俺はこんな所に連れ込まれているんだ。
辛うじて採光窓から陽の光が入る薄暗い空き会議室に、アキラに手を引かれて連行されたオスカーは、ドアに鍵を掛けているアキラの後ろ姿を眺めながら様子を窺った。なんとなく嫌な予感がする。
「オスカー!」
「……な、なんだ」
振り返ったアキラの目は据わっていて、オスカーはやはり嫌な予感しかしない。アキラはオスカーの正面で両手を広げて仁王立ちすると、オスカーに向かって一歩踏み出した。
「ハグしろ。思いっきり!」
「……は?」
オスカーがぽかんとしている間にアキラは更にもう一歩進み出て腕を広げた。
「あん時みたいに潰れるぐらい、ぎゅってしろ」
ふんっと鼻息荒く命令してくるアキラに、オスカーは呆気に取られていた。
お互いに、ガス抜きにスキンシップを取ろうと考えていたらしいと分かり、内心ほっとする。
あの時、というのはおそらく付き合うきっかけになった例の日の事を言っているのだとオスカーはすぐに気付いた。あの時は動揺して舞い上がってつい力任せに抱き締めてしまって、アキラが呆けて腰を抜かす程だった。
同じ過ちはするまい、とオスカーは慎重にアキラの背に腕を回した。アキラは満足そうにオスカーの腕の中に収まると、背伸びをしてその首筋に腕を回す。そのままぎゅうぎゅう抱き合って、アキラが踵を落とすのに合わせてオスカーか背を屈めた。
「……へへ」
オスカーの気遣いが嬉しかったのか、アキラは頬もすり寄せて幸せそうな声を漏らす。オスカーは初めの決意を忘れて更に腕の力を強めた。より密着して、お互いの体温を感じる。アキラが身じろぐ度に、触れ合った場所からじんわりと心地良い温もりが伝わってきて、オスカーは無意識に目を閉じた。
暫時無言のまま、二人は抱きしめ合っていた。どのくらい時間が経ったのだろうか、不意にアキラが呟く。
「俺、ちょっと分かった気がする」
「何がだ」
「オスカーとこうしてると、ドキドキもするけど、なんか安心するっていうかさ。すげー落ち着く」
腕を緩めて、アキラはオスカーを見上げた。
お互いに、同じ事を考えていたのだと分かってオスカーは目を瞠った。
アキラが愛おしくて堪らなくなる。
オスカーはもう一度しっかりとアキラを抱き寄せると、今度はそっと背中を撫でさすった。アキラがオスカーの背中に回した手に力を込める。暫くの間、オスカーはアキラの背中をさすっていた。
「オスカーは……俺といるとどういう気持ちになる? おんなじだったりすんのかな。なんて……」
照れたように目を伏せて額をすり付けるアキラに、オスカーの胸が高鳴る。
「ああ、そうだな」
オスカーはもう一度アキラを抱き寄せると、アキラの耳元で囁いた。
「お前と同じで、すごく落ち着く」
「お……おう」
「もっと、こうしていたい、と思う」
オスカーの肩口に顔を埋めたまま、アキラは必死に首を振って藻掻いた。だがオスカーが離してくれる気配はない。それどころか更に強く抱きしめられて、アキラは息が詰まりそうになった。
「お、おい、苦し……」
「す、すまん」
慌ててアキラを解放すると、オスカーはその顔を覗き込むようにして尋ねた。
「大丈夫か?」
「俺、そのうち大胸筋と上腕部の筋肉に圧迫されて窒息する気がする……」
アキラは冗談めかしてはいるが、呼吸は乱れていて、まだ心臓が早鐘を打っている。
オスカーはアキラの手を取って引き寄せた。
「……もう少しだけ、このままでいいか?」
オスカーの真剣な眼差しに見つめられ、アキラは言葉に詰まった。前もこんな風に言われて結局手を繋いだまま長時間過ごしたような気がする。
オスカーに手を引かれ、アキラは再びオスカーの腕の中へと戻っていった。アキラの鼓動がまた跳ね上がる。
「今度はちゃんと、加減、する……」
アキラの耳許で囁くオスカーの声音は優しかった。
この先こうやってどんどんオスカーに対して弱くなっていくような嫌な予感がしたが、アキラは大人しくオスカーに身を預ける事にした。
思っていたよりもずっと恋は予感めいていて楽しいものだ。
***
元々自主トレの一環でランニングやウォーキングはしていたが、最近は二人で夜間ランニングに行くのがルーティンに加わった。メインストリートや公園を夜に走ると昼間の様子とは違って景色も楽しい。二人で走るとモチベーションも上がって気分がいい。
それに、なんだかみんなに内緒でデートしてるみたいでわくわくするな、とアキラはこっそり思う。夜風は涼しいけれど頬の熱さまで冷ましてくれないらしい。
「オスカー、俺ちょっと喉渇いちまった」
「じゃあどこか寄って行くか?」
「んー……あ、ミリオンパークに自販機あったよな。ちょっと寄り道しよーぜ」
そう言ってアキラは駆け出した。オスカーもその後に続く。
目的の自販機の前に立つと迷いなくアキラはスポーツドリンクを選んだ。ベンチに座って一気に呷る。
「オスカー、一口飲む?」
「えっ」
「えっ」
アキラはなんの気なしにペットボトルを差し出すと、オスカーは目を丸くして固まってしまった。その様子を見てようやくアキラは気付く。
このままオスカーが受け取ったら間接キスになる。
「あっ! や、違うぞ!? 俺そんなつもり全然なくて……!」
「わ、分かっている」
アキラが慌てて弁明すると、オスカーも慌てた様子でボトルを受け取った。キャップを捻り開けて一口オスカーが飲んで、それを返される。
上を向いて飲み下す時の喉仏の動きと、少し濡れた唇、キャップを開け閉めする手元。
目が離せなくてアキラはじっと見つめていた。オスカーから視線を感じてアキラは我に返り、気まずさを隠すようにもう一口飲んだ。もう味が分からない。ボトルにはまだ三分の一は残っている。
「アキラは、いいのかそれで」
「へ? や、えっと……」
隣に座ったオスカーがボトルを見る。いいのか、というのは間接キスした事について気にしないのかという事だろうとすぐに分かったが、アキラには言葉が見つからない。
気にはなるが、嫌な訳ではない。でも誰でも出来るかと言われるとそうでもない。むしろオスカーが受け取って飲んだ事の方に驚いたくらいだ。
「オスカーが気にしないなら、俺も気にしない」
「そ、そうか」
「付き合ってる、し。……俺達」
いつものように他愛ない会話をすればいいのに、うまく言葉を続けられなくてアキラは黙ってしまった。
オスカーはというと、アキラの返事を聞いて目を見開いて固まると、やがて顔を真っ赤にして俯いた。
「……オスカー?」
「すまん」
「いや、何がだよ」
オスカーは謝ったが、アキラは訳が分からずに首を傾げた。両手で顔を覆って相変わらず俯いたままのオスカーの耳が赤いような気がして、アキラはますます何に対してオスカーが謝ってるのか分からない。
黙っているとオスカーがゆっくり顔を上げた。目線は合わない。
「俺は、お前の前ではちゃんと理性的な大人でいようと思っていたんだ」
「うん」
「なのに、駄目だ。どうしようもない。アキラが可愛い」
「かわ」
アキラは思わず声を上げてオスカーを見た。口はぱくぱくと動くだけで言葉が何一つ出てこない。オスカーは顔を赤くしたままアキラを見て、困った顔をして微笑む。
「軽蔑するか、俺を」
「な、……そんなわけ、ねーじゃん……っ」
「良かった」
そう言ってオスカーは立ち上がった。
「帰ろう」
アキラに手を差し出して、オスカーは優しく言った。促されるまま手を取って立ち上がったが、アキラはすぐには歩き出せなかった。まだ言っていない、言わなければいけない事がある。
「俺達、さ……付き合ってるんだから……」
うまく伝わるか分からない。オスカーの手を強く握って、真っ直ぐ見上げて、アキラははっきりと言った。
「もっと恋人同士っぽい事しても、いいんじゃねーかな」
オスカーは目を瞬かせた後、小さく笑みを浮かべた。手を握り返してからアキラを抱き寄せ、アキラが驚いているうちにオスカーのもう片方の手が頬に触れる。そのまま軽く持ち上げられて、顔が近づいてくる。
アキラは反射的にぎゅっと目を瞑った。
ちゅ、と音を立てて唇同士が触れ合う。
一度離れてまたくっついて、何度も啄ばまれる内にアキラの身体の力が抜けていく。腰に回されたオスカーの腕がなければ今にも座り込んでしまいそうだ。
最後にもう一度だけ唇を合わせて、オスカーがゆっくりと離れた。
「アキラ」
熱っぽく名前を呼ばれて、アキラはオスカーの顔を見上げた。視線が絡み合い、お互いの目の中に自分の姿が映り込んでいる事に気付いて急に恥ずかしくなる。
オスカーはアキラの頬に触れていた手で髪を撫でると、額に口付けた。
「帰ろう。一緒に」
「……うん」
アキラは照れ臭そうに笑ってオスカーの手を取った。なんとなくこのまま帰るのがもったいないような気がして、ついゆっくり歩いてしまった。少しでも長く一緒にいたい。オスカーもアキラと同じ気持ちなのか、繋いだ手に力を込めてアキラを引き寄せると、アキラも素直に従った。
特に会話こそなかったが、なんだか足元がふわふわとしているような、そんな幸福感が二人の間に漂う。
恋をしていると嬉しいのに涙が出てくる事があるなんて不思議だ、とアキラは思った。
〈了〉