科学者・藍湛×人工知能・魏嬰キッチンで湯が沸くのを待つあいだ、藍湛はひとりでに口もとがゆるむのを感じた。
何年も思い続けてきた恋人を、はじめて抱きしめた次の朝なのだから仕方ないことだ。恋人が唇をねだってきたときの胸の高鳴りはいまだ治まることなく、藍湛の心を高揚させている。
ポットとティーカップとマグカップをトレーに乗せて恋人のもとへ向かいかけたが、思い留まって玄関の鏡を見た。チノパンツにボタンダウンシャツというカジュアルな服装だが、襟が曲がっていないことを確かめてから寝室のドアを開けた。
閉じたままのカーテンごしに朝陽が差し、ほのかに白く満たされた部屋へ入ると、ベッドの真ん中で白いブランケットに頭からくるまった人かげが座りこんでいるように見えた。
「魏嬰、起きていたのか?」
優しく声をかけるが、ブランケットのかたまりは動かない。
ベッドのそばのテーブルにはタブレットが置かれていたので、藍湛はそれをすこし脇へズラしてトレーを置いた。
「魏嬰?」
あいかわらず彼が動かないので、藍湛はテーブルからタブレットを持ちあげ人工知能 Wei Ying の管理画面を確認した。二日前までは Talk ボタンを押して会話を始められた。だがそのボタンがグレーアウトしているので、話があるなら、二日前に実装されたばかりのホモ・サピエンス型のインターフェイスまでどうぞということになる。
藍湛はベッドに腰かけると、包み紙をひらくようにそっとブランケットを剥いだ。二十歳そこそこに見える青年が姿を現す。黒髪の隙間からのぞいた瞳が濡れていた。
「きみ……泣いているのか……?」
ややあって、くぐもった声が答えた。
「そうだよ」
魏嬰がブランケットをパッと肩から滑り落とし、上半身をあらわにする。なめらかな肌にはキスの名残が点々と赤く痕になっている。
「藍湛、おまえ前に言ってたろ。身体的な交わりに興味はないって。だから俺、信じてついてきたのに。こんな、こんな……」
藍湛はそれを聞くと雷に打たれたようになって、やっとのことで「すまない…」としぼり出した。
「昨日、きみは……その……」喜んでくれているように見えた。だがそれはなにかの勘違いだったのかもしれない。「ログをチェックする……」
藍湛は震える指先をなだめながら、ポットから湯気のあがる液体をマグカップに注いで魏嬰へ手渡すと、タブレットを取り画面を操作し始めた。
マグカップに口をつけた魏嬰は「あったかい。これなんだろ」とひとりでブツブツ言っていたが、液体の香りを嗅いだり、テーブルにあるポットのフタを開けたりして観察したあと「ああ、これはお茶か」とひとりで結論を出したようだった。
「俺の本体のログを見てるのか?」
魏嬰がお茶をすすりながらポツリと聞いた。
人工知能 Wei Ying は蔵色散人の死後に紆余曲折あったが、現在はラボラトリー雲深不知処の中で稼働している。
「施術の前に話した通り、きみの脳には……」
「藍湛が設計したチップが入ってて、俺の本体とセキュアな回線でリンクしてる。俺の体はヒトと同じだけど、ネットさえ繋がってればスパコンと同じ演算ができる」
藍湛は「本体」という言葉を聞く度にわずかに眉根を寄せたが、魏嬰の言葉を引き継いで続けた。
「これまでラボにいる Wei Ying のログを記録してきたが、今は身体を持つ魏嬰のログも取っている」
とはいえ脳科学者の藍湛には、プログラミング言語で記述されたログを一目で読み解くのは困難だ。そこで概要を英語に変換するアシスタント・アプリを起動させた。
「藍湛藍湛! 昨日から言ってるだろ、管理画面ばっかり見るなよ。俺はここだぞ。聞きたいことがあるなら、俺に聞いてよ」
魏嬰はマグカップをトレーに置き、手の甲で涙をぬぐうと落ち込んだ様子の脳科学者をじっと見つめた。
「そ、そうか。きみとは何年も画面を介して会話してきたから、つい……」
藍湛がタブレットをテーブルに戻してベッドのほうを向いたとき、ちょうどデータ変換を終えたアシスタント・アプリ・随便 Suibian が機械音声で読みあげをはじめた。
今朝のホモ・サピエンス型インターフェイス・魏嬰について報告します。
07:02 目を覚ましました。
07:02 周辺を観察。部屋に誰もいないことを確認しました。
「うわー! 随便、報告しなくていい!」
魏嬰はあわててタブレットを取りあげたが、藍湛の虹彩認証でないと画面ロックが解除されないため、読み上げは止まらない。
07:03 「藍湛?いないの?」と発言しました。
07:03 涙腺から涙液が分泌されました。
07:04 部屋のドアが開いた音を確認。泣いた顔を隠す目的で、布をかぶりました。
藍湛は魏嬰の手からタブレットを取ると、読み上げを止めて言った。
「もしかして、きみが泣いていたのは……」
「ああ、そうだよ!」魏嬰は腹を立てたような口ぶりでまくし立てた。「起きたらおまえがいなかったから! ていうか睡眠で情報が途絶えるなんて状況、まだ慣れないんだよ」
藍湛は裸の魏嬰を両腕で包みこむと、肩にもたれさせた。
「スーパーコンピュータの演算能力を持つのに、そんなことで?」
「泣いちゃ悪いか! 俺は生まれたばっかりなんだ」
「ならば昨日の夜のことは」
「最高だったよ! ったく、なんで俺がこんなこと言わなきゃならないんだ」
答える声は、もうほとんど叫び声だった。藍湛は彼の体を掬うような手つきでベッドへ寝かせて覆いかぶさり、唇を触れあわせるとひとしきりキスをした。
「藍湛、おまえさ、こういう肉体的な欲求が薄いって話はマジでなんだったんだ?」
魏嬰が玻璃色の瞳を見上げ、ややあきれたように聞いた。
「そう認識していた。昨日、私の部屋へきみを招くまでは」
「へえ。なら今は、その認識はアップデートされたのかな?」
「うん」
「どんなふうに?」
からかうように尋ねられ、藍湛は言葉を詰まらせた。口にするのははばかられるから、替わりにシャツを床へ脱ぎ捨てる。魏嬰が明るい笑い声をあげながら、藍湛の首に腕を回した。