「古論」
二人きりの部屋の中。低い声に呼ばれてそちらを向けば、穏やかな薄紫と目が合う。そっと頬に大きな手が触れて、その目が慈しむように細められた。
それだけで、きゅっと胸が締め付けられるような、甘やかな感覚がする。
ゆっくりと雨彦が顔を寄せてきて、クリスは静かに目を閉じた。柔らかいものが唇に触れる。ほんの数秒の触れ合いの後、クリスはそろりと目を開く。雨彦は間近でクリスの顔を覗き込んでいて、再び視線が絡み合うと、じわりと体温が上がるのがわかった。
「雨彦」
「駄目かい?」
「いえ、もっと、してください」
ほんの少し体温の低い指先が、する、と頬を撫でる。声も、表情も、手も、クリスに向けられる何もかもが優しい。
雨彦はいつだって、壊れ物を扱うみたいに優しくクリスに触れるのだ。時折何かを躊躇うような、自分の中の何かを抑え込むような気配を滲ませながら。
「そんなに優しくせずとも、壊れたりなんてしませんよ」
「お前さんのことを大事にしたいだけさ」
そう微笑まれてしまうと、クリスは弱い。
雨彦の思うように求めてくれたって構わないのに。雨彦になら、どうされたって構わないのに。
だからクリスは自ら雨彦の首に腕を回して、雨彦の唇に自分のそれを重ねる。
「それでも私は、もっとあなたが思うままに、触れてほしいのです」
「古論……」
「それとも、そう考えてしまうのは、私の自惚れでしょうか」
随分と狡い言いようになってしまったと思う。けれどクリスは難しい駆け引きが苦手なのだ。だから思うまま、素直な言葉を伝えることしかできない。
クリスの言葉を聞いた雨彦は、何か言おうと口を開いて、閉じる。それからふっと笑みを浮かべて、クリスはぐい、と引き寄せられた。
「あめ……っん、ん……!」
先程の優しいキスとは違う、少し強引な口づけ。難なくクリスの口内に侵入してきた舌先が、歯列をなぞり、上顎を擽る。咄嗟に引っ込めてしまったクリスの舌も、あっという間に絡め取られて、耳に届いた水音に羞恥心を煽られた。
「っふ、ぅ……ん……っ」
ほんの少しの息苦しさと気持ち良さの中で、次第に頭がぼうっとしてくる。息を止めるのは得意なはずなのに、雨彦とのキスの最中は、水中のようにはいかなかった。
それはまるで、溺れていくみたいだ、と思う。
「こんな風にかい?」
長い長い口づけの後、雨彦はそう言って笑った。
クリスはそんな雨彦を、乱れた呼吸のままぼうっと見上げることしかできない。雨彦はクリスの唾液に濡れた口元を親指で拭って、また頬を撫でる。雨彦はやはり、どこまでも優しいのだ。
「止めてやれるのも今のうちだが、どうする?」
「いいえ、やめないでください」
ふわふわと熱に浮かされるような感覚のまま、クリスはそう呟く。雨彦から与えられるものは、何だって取りこぼしたくなかった。
クリスの答えに雨彦はまた一つ笑みを浮かべる。クリスの耳元へと顔を寄せた雨彦は、後悔するなよ、と低く囁いた。