いつかの夜 2 体中を蝕んでいくような痛みを人生で初めて経験した。
こんなに鋭い痛みを未だ自分は知らない。
皮膚を裂かれ、肉を切られても。きっとこんな風には痛まなかった。
きりきりと心臓が捩れあがる。
こんな形での決別を、どうして思い描く事ができただろう。
( 東卍が解散しても、オレは、オレ達はアイツの元で一つだと思っていた )
あの底なしの闇よりもっと深く沈んだ黒い瞳には誰も映って居なかった。
隣に居る事が当然で、対峙する事はなかった。だから、その瞳の闇を真正面から覗き込んだとき底冷えするような絶望がその場の皆を飲み込んだ。
「くそが…」
何故、自分を強いと思ったのだろう。何故、マイキーと並び立てると思ったのだろう。余りにも次元の違いすぎる殴り合いは一方的だった。止めようとしたペーは一撃の蹴りで地面に倒れこみ動かなくなった。
殴られてボロ雑巾みたいに転がされて、三ツ谷も、千冬も……誰も止められなかった。
『マイキー!』
血反吐を吐くような絶叫でさえマイキーには届かなかった。
ボロボロの千冬を三ツ谷に任せて、自分はぺーをバイクで送り届けた後、一人体を引きづって目に入った公園のベンチに倒れこむように座った。こんな傷だらけの姿じゃ、家がある渋谷までたどり着けないだろう。職質でもされれば逃げ切れない。何より疲弊しすぎた心も、体ももう一ミリだって前には押し出せる気がしない。
体中がぎしぎしと軋んで、マイキーに容赦なく殴打された腹と脚は熱を持ち始めていた。折れてはいないようだが、腫れあがっている。さっきはぺーの手前平気な顔でバイクを運転してみせたが、もうあの直接体に伝わる振動を制御できるほど力が入らない。
「なんだったんだ……」
マイキーと出会って、今までの月日。
あの日々は、なんだったと言うのか。
春も、夏も、秋も、冬も…いつも、いつも、いつも一緒だったのに。
同じ夢を見ていたんじゃなかったのか?
同じ方向を目指して走っていたんじゃなかったのか?
( オレ達は、ダチじゃなかったのかよ… )
背を向けて去っていた姿に問い掛ける。
返事は無い。
この体に残る痛みだけが答えのような気がして、冷え始めた風に自分をかき抱くように小さく蹲った。
「ドラケン?」
聞き覚えのある声に呼ばれて顔を上げるとそこに一人の男が立っていた。
公園を青白く照らす外灯に浮かび上がるような金色の髪に特徴的な顔の痣。いつもは眠たそうな青い目が驚きに見開かれている。
「どうしたんだ、そのひでぇ傷は?」
乾青宗。黒龍から東卍に入隊した異色の男だ。
花垣の壱番隊で寡黙ながら誠実に東卍に参加していたと思う。ただ東卍が解散した今は何をしているか知らなかった。
どうしてそんな男がここにと訝しむと同時に弱みを見せたくなくて。近付いた乾に顔を背ける。
「なんでもねぇよ…」
「誰にやられたんだ?お前がそんな怪我するなんて…」
「……」
問い掛けに答えられなかった。答えれば、あの暴力が現実だと実感してしまいそうで、口にしたくなかった。まだ何かの間違いだって、そう思いたかったのかもしれない。
「……解った。もうきかねぇよ」
「……」
答えないオレに低く静かな声でそう告げると乾は目の前でしゃがみこんだ。そうする事で、背けた目と目を合わせようとしているようだった。
「お前のバイクだろ?あの入り口に停まってるゼファー」
「…ほっとけ」
「ほっとけないから言ってんだろ。早く、キー寄越せ。その怪我じゃ運転はムリだ」
差し出された手に視線をやる。まるで捨てられた犬だ。
マイキーに愛想を着かされ、行く当ての無いデカイ図体を持て余してる捨て犬。
何が副総長だと内心で自分をあざ笑う。すさんだ心は逆巻いていて、差し出された手でさえ煩わしかった。
「ドラケン…」
真っ直ぐにこちらを見上げる目と視線がかち合う。決して逸らされる事が無い大きな青い目。馴れ合った事は無い。一言、二言、言葉は交わした事はある。それだけの男だった。
あの、初めて乾と出会ったいつかの夜をカウントしない事にしていたから。
「関係ないって言ってんだろ。オレに構うな」
「……オレのねぐらがすぐ近くだから、手当てしてやる」
「……」
「話したくないなら、話さないでいい。別にお前の気持ちを荒そうだなんて思ってねーよ」
「……」
「オレを信じろ。ドラケン」
信じる?何を?
つい先刻、心の底から信じていたすべてを突き崩されて、踏みつけられて、粉々になった。
もう自分が、自分じゃないみたいに覚束ない。
自分さえ信じられないのに。
「……オレに構うな」
「……」
「うせろっ!」
腹の底から怒鳴った声に微動だにしない男がじっとこちらを見てくる。
差し出された手をそのままに乾は首を振る。
「オレは…お前を…置いていかない…」
「……」
「借りは返す」
顔を上げればそれ以上は語らない、いつもの無口な男がいた。
乾はあの夜の事を覚えていない訳じゃなかったらしい。
ははっと力のない笑いが勝手に口から出た。
抗う理由なんか残っていなかった。
ポケットに入れていた愛機の鍵を無言で乾に差し出す。
それを受け取った男の指は冷たかった。
その事に少しだけほっとした。
もしも温かかったら、きっとダメになる。オレが……ダメになっちまう。
「いくぞ」
背を向けて歩き出す乾に促されてのろのろと立ち上がる。
優しく肩を貸すなんて事はされない。
その態度が心地よかった。
一歩踏み出す度に痛む身体を引きずって、オレは歩きだした。