寝ている相手にキス(ポプダイ) 修行で疲れた身体は眠いと訴えてくるのに、いくら寝台に横になっていても眠れない。ダイは何度も寝返りを打ち、目を閉じて意識が落ちる瞬間を待った。
目を閉じれば、目蓋の裏に焼き付く閃光がある。命を燃やして光輝くそれが、目蓋から脳裏へと広がっていく。
眩しい。怖い。悲しくて、不安になる。とても眠れるような精神になれそうにない。
ダイは結局諦めて、小さく息を吐き、身を起こした。
自室として用意されている部屋を出て、隣の部屋の扉の前に立つ。アバンの書を両手で胸に抱くようにして持ち、ダイはそっと中の様子を窺った。
息を殺して耳をすませば、書物らしき紙を捲る音が聞こえてくる。どうやら部屋の主はまだ起きているようだった。
こんな深夜に何の前触れもなく突然に部屋を訪っては迷惑だろう。ダイとてその程度の常識は持ち合わせている。
けれど、どうしてもポップの声が聞きたい。目蓋の裏から身の内に広がる閃光に焼かれて眠れない、こんな夜は特に。
「……ポップ」
「ん? ダイ……?」
声をかけて、意を決して扉を開く。部屋には入らず、隙間から顔を覗かせれば、寝台に腹這いになって寝転がりながら、魔道書らしき分厚い本から視線を上げて目を丸くしているポップと目があった。
「何してんだ、そんなところで。早く部屋に入れよ。おれに何か用事でもあったか?」
深夜の来訪者に驚きはすれど、それを忌避する様子は見えない。ダイは心の中で安堵の息を漏らすと、お邪魔します、と小さく声にしてポップの部屋へと足を踏み入れた。
「あの、ポップ……」
「ん? どうした?」
「えっと、その……」
ぎゅっとアバンの書を抱きしめ、視線を伏せる。ポップの声が聞きたくなった――――理由にもならない理由を口にするのが急に恥ずかしくなって、ダイはぱくぱくと口を開けたり閉じたりを繰り返したあと、口籠もって項垂れた。
「ごめん、なんでもない」
「手にしてるの先生の本だよな? ………読んで欲しいのか?」
踵を返そうとしたダイを呼び止めるように、ポップの声が静かな部屋に響いた。
ダイは動きを止めると、しばらくの逡巡のあとにポップの言葉を肯定して頷く。
ポップの声が聞きたい。そのための言い訳にと持ち込んだ本だ。そんなことのために持ち出されたなどと知れば、亡き師も呆れて苦笑することだろう。
「でもポップも読書中だよね。ごめん、また出直すよ」
「いいぜ、別に。この本なら昨日読み終わってて、今日は手慰みに読み返してただけだからさ」
ポップが手にしていた魔道書を閉じ、寝台脇のサイドテーブルに置きながら笑った。それから被っていた毛布の端を持ち上げ、自分の隣のスペースをとんとんと叩く。
「ほら、来いよ。読んでやるから」
「…っ! うん!」
悪戯気にニヤッと笑うポップに導かれるまま、ダイは泣きそうになる心を押し隠してポップの隣へと駆け寄って滑り込んだ。
ふたり並んで寝台に寝転がり、頭から毛布を被ってアバンの書を開く。毛布の中は小さなテントみたいで、ダイは少しばかり沈んでいた心が浮上していくのを感じた。
灯りは殆ど入らない。竜の騎士の身体能力のおかげか、ダイは暗闇のなかでも他の人よりも視界が利く。そんなダイでも開いた書の文字を追うのは、文字を読むのが不得手であるという点をおいても困難に思えた。
「どの章を読んで欲しいんだ?」
「えっと、じゃあ、空の章を」
「オッケー」
ダイのリクエストに、ポップは気軽に返事をする。紙を捲る音が小さな小さなテントの中で響いた。
「傷つき迷える者たちへ………」
淀みなく紡がれるポップの声にダイは目を閉じて聞き入った。普段の軽い口調からは想像もつかないくらい、本を読む時のポップの声質は落ち着いていて静かで優しい。いつものポップの弾んだ元気な声も、こうやって本を読んでくれる時のポップの声も、どちらもダイは大好きだった。
ほぼ灯りが差し込まないにも関わらず、はらりと紙を捲る音がした。ダイはそっと目を開き、隣のポップの様子を窺う。目は開いているようだが、薄暗くて表情はよくわからなかった。
ポップが読み上げてくれている箇所と、紙を捲るタイミングが合っているかどうかは、ダイにはわからない。だがこの暗さでは人間のポップが書の文字を追えているとは思えなかった。
もしかすると、ポップはヒュンケル同様にアバンの書の内容を暗記しているのかもしれないとダイは推察した。武器を使用する章は目を通しただけかもしれないが、心や魔法の章は一字一句暗記しているに違いない。
あまりひけらかさないけれど、ポップはとても頭がいいし記憶力も抜群なのだ。理解力も高いし、洞察力も観察眼も鋭いから、あっという間に状況を把握できる。まして敬愛する師の残した書だ。何度も何度も繰り返し読んだことだろう。ひとりでは師の残した書を読めもしない自分とは大違いだ。
はらりと、またページを捲る音がした。
それを機に、ダイは再び目を閉じた。
「んっ…………」
ふと意識が上昇して、ダイはぼんやりと目を開いた。ゆっくりと上半身を起こすと、きちんと肩までかけられていた毛布が身体の上を滑り落ちていった。
「…あ……おれ、いつの間にか寝ちゃってたんだな」
目を閉じているうちに、うとうとと気が遠くなる瞬間を何度か迎えた。ポップがくすりと小さく笑ったのを、ダイはなんとなく覚えている。きっとそのあと、間もおかずに眠ってしまったのだろう。
手の甲で軽く目を擦る。目を手で擦るなと口うるさく注意する声はない。
ダイの隣ではポップが小さな寝息をたてて眠っていた。枕元にはアバンの書が置かれている。
「読んでくれって押しかけておいてすぐに寝ちゃうなんて……ポップ呆れただろうな」
けれども、ポップの隣は温かくて、毛布製のテントの中がポップの優しい声で満ちていて、ダイにとってはとても心地良かったのだ。
ダイは滑り落ちた毛布を引き上げると、頭からそれを被って再びポップの隣に横になった。
窓から見えた空の色はまだ濃く夜の色を残していた。感覚を澄ましても、まだパプニカ城内で動く者の気配は感じられない。きっと、夜明けはまだ遠い。
少しばかり上目遣いに見やれば、目の前には、薄く開いたポップの唇がある。ダイは小さな胸を跳ねさせながら、そっと人差し指でポップの唇に触れてみた。指先から、ポップの温もりが感じられる。
調子の良い言葉がぽんぽんと飛び出すポップの唇。
落ち着いた優しい声音を紡ぐポップの唇。
沈着冷静に淀みなく呪文の詠唱を謳うポップの唇。
甘く擽ったくダイの肌の上を滑るポップの唇。
ダイが声にできない心の奥で欲する言葉を、惜しみなく溢れるほどに与えてくれるポップの唇。
そして、――――あの悲しい呪文を唱えたポップの唇。
ダイはよいしょとばかりに身を乗り出した。
もう二度とメガンテなんて唱えられないように、この唇を塞いでしまおうか。二度と開かないように、この唇を縫いつけてしまおうか。
あぁ、でもそれでは駄目なのだ。ダイは奥歯をぐっと噛み締めた。そんなことをしてしまったら、ポップの声が聞けなくなる。ポップの唇に愛してもらえなくなる。
ならば、せめて、このひとときだけでも塞いでしまいたい。
ポップはよく眠っている。勝手にこんなことをしては駄目だとわかっているのに、湧き上がる衝動が抑えられなかった。
ポップの薄く開いた唇に、ダイは恐る恐る自分のそれを寄せた。小さく吸ってちゅっと音を立てて重ね、余韻を惜しむようにゆっくりと身を離す。
ポップの存外長い睫毛がふるふると僅かに揺れた。起こしてしまったかと懸念したが、ポップはむずがるように枕へ頬を埋めただけで、そのまま眠り続けている。
それを見つめながらダイはもう一眠りしようと決めて目を閉じた。きっと今日はもうあの閃光を見ることはないと確信して。
「ごめんな、ダイ」
アバンの書を読み上げている途中で眠ってしまったダイの体勢を寝苦しくないように整えてやりながら、ポップは小さく顔を歪めた。
あの日――――ポップがメガンテを唱えたあの日以降、ダイは時折眠りにつけない夜を迎えるようになった。日を経て症状は改善されていっているようだが、こうして夜にポップの部屋を訪うことがある。精神的に不安定なのだろうとは、ヒュンケルやクロコダインの言だ。
手にしていた書を枕元に置き、ポップはダイの隣に横向きになって寝転がる。
「……ポッ…プ…………」
「ダイ……?」
頼りなく揺れる声に名を呼ばれて、眠るダイの顔を覗き込む。寝台脇のサイドテーブルに置かれたランプの灯りが、その目尻に小さく浮かんだ雫を光らせた。ポップはそっと唇を寄せて、輝くそれを吸いあげる。
それからポップは閉ざされたダイの目蓋に唇を落とした。いつもの戯れるように仕掛ける熱のこもったものではなく、優しく、柔らかく、撫でるようなキスだ。
「ごめんな。でもおれ、おまえを守るためなら、それしか手段がねぇなら、きっとまたやっちまう」
ポップにとって自分の唇とは、ダイを愛し、ダイを守るためにあるものだから。
今夜の己が使命はダイの眠りを守ることだ。小柄な身体を腕の中に閉じ込めて、その温もりに心を寄せながら、ポップは静かに目を閉じた。