夜半 窓から漏れ入る月明かりの下、小さな灯りを灯して隣に座る。彼の持ち込んだ本に目を落としつつも、ちらりと隣を盗み見た。
いつもどこか、薄暗く澱んでいるように見える彼の目は、こうして本を読んでいるひとときだけは、少しだけ輝きを増しているように見える。人間らしくない彼が、唯一人間らしく見える瞬間。シマボシはそれを気に入っていた。
イチョウ商会がいつもどこからか仕入れてくる本に対する、彼自身の知見を聞かせてほしい。そう最初に頼んだのは、いつだっただろうか。初めは、聡明な彼の考えを聞きたい、という純粋な好奇心を持っただけだった。いつしかその目的に、長く同じ時を過ごしたい、いや、何かに夢中になる彼のそばでその瞳を盗み見ていたい、という小さくも浅ましい動機が混ざった。
その日も、いつもと同じだった。いつの間にか、話をする際の定位置となった宿舎、シマボシの自室で、小さな灯りの下で異なる本を読む。議論が白熱する日もあるが、この日は一言二言話す以外、互いの本に目を落としたままだった。沈黙が続こうと、居心地は不思議と悪くない。
真剣な表情で、男は本を読み耽っている。
頁を捲る音で我に返った時、自身が無意識のうちに彼を見ていたことに気がついた。慌てて目を逸らそうとしようにも既に遅く、男が、薄暗闇でよく映える銀灰色の瞳をシマボシの方へ向ける。
「そんなに見られていると集中できませんよ」
「……すまない」
「いえ、怒っているわけではありません」
困ったように微笑を浮かべ、ウォロは本を静かに閉じ、畳の上に置く。
「今日は、これくらいにしておきましょうか」
碌に議論も何もしていないことについても、彼は何も言わなかった。シマボシも本を閉じ、その後、視線を床に落とした。彼の発言を反芻する。
シマボシが密かに彼を見ていたことに対して、男は戸惑うような素振りを見せなかった。きっと、見られることには慣れているのだろう。少なくとも、いちいち気にする必要がない程度には。自身の不純な動機には気付かれなかったことに安堵すると共に、胸の奥が、細い針の刺さったように小さく痛む。
痛みには気づかないふりをして、彼の方へ向き直る。とっくに部屋を去る用意が終わるだけの時間が経っていたはずなのに、彼はその場を動いていない。誰もいない場所を見つめたまま、呟くように男は言った。
「最近、今日みたいにアナタと話をして、夜遅くにこの部屋を出ていくことが増えたじゃないですか。人目は憚っているつもりですが、見られることもあったみたいで。……こんな噂があることは、知っていますか?」
彼の話には、ただの世間話以上の「何か」が含まれているように思えた。シマボシはじっと、彼が次の言葉を紡ぐのを待った。
「ギンガ団調査隊の隊長シマボシは、イチョウ商会の商人の誰かと恋仲である、と。行きずりの関係ではなく、しっかりと『恋仲』という噂が立つ辺り、アナタの人望の厚さが伺えますね」
心が籠もっていないことが、火を見るよりも明らかな褒め言葉。それ以外には、ウォロは何も意見を言わない。いつもの彼ならば、そんな噂立つなんて嫌になりますよね、と笑いながら言う筈なのに。
自分の反応を待っている。そう理解したが、何も口にすることが出来なかった。それが図らずとも答えになってしまった。自身の中にあった、彼と居たいという不純な動機を見透かされてしまったかのように感じ、一筋の汗が額を伝う。何かを期待しているわけではない。それは確かだ。だって、今まで一度も。
夜に、二人きりで、自室にいる。シマボシがずっと目を背けてきたその舞台背景を、この男は思い出させようとしている。
「何度も何度も、ジブンはその噂話を人から聞きました」
はっと気づいた時にはもう、罠にかかってしまっていたのだろう。いつの間にか彼の大きな手が、畳に落ちたままだったシマボシの手を上からそっと覆っていた。
「ずっと一緒にいて、そんな噂まで流れているのを知って……だから、少しアナタに興味が沸いてきました」
嘘だ、絶対に。彼は嘘をついている。そう直感した。興味など、微塵も無いくせに。
掴まれたままの手に力が籠められ、自分のものとは何もかもが違う無骨な指に、ねだるように指の間を撫でられる。
嫌だったら振り払えば良い。今ならまだ、彼はきっとシマボシをすぐに解放するだろう。そして同時に理解していた。逃げるなら今が最後だ、とも。
馬鹿なことを言うな、と言い、手を振り払って部屋から追い出すこと。その行動を起こす代わりに、自分自身でも意識せず、言葉が口から出ていく。
「そ、その、一度も……」
自分のものとは信じたくないほどの、細く、緊張の滲んだ声。
ウォロは黙ったまま、続きを促すように静かに頷いた。手は、離さないままだった。
「一度も、そういうことを、したことが無いから、キミの期待するようなことは、何も、出来ない」
切れ切れに、言い終えた。
彼の誘いに対して、断ることも、頷くこともできなかった。だからと言って、どうして彼に判断を委ねるようなことを言ってしまったのか。それは分からなかった。
シマボシの言葉を聞いてから数秒で、ウォロはその意味を理解したらしい。唯一彼と触れ合っている掌に、力が籠められる。決して力強く乱暴に握られたわけではないが、それでも、もう逃がす気はないのだろうということはありありと感じ取れた。
「そんなの気にしなくてもいいんですよ」
男は笑っていた。
「遅かれ早かれ誰でも、最初の夜は経験するんですからね。それがアナタにとって、今日だったというだけで」
『これからのこと』を暗示され、今更ながら少しだけ不安を覚えた。誤魔化すように、繋がれたままの手に視線を落とす。
「たまに居るんですよね。初めて共寝する相手は絶対に、想いを寄せる相手が良い、っていう女性。何人も会ったことがあります」
手を覆う方とは別の、温度の低い大きな掌が、シマボシの頬を撫で、首筋へと降りていく。所々ざらつきや、厚みの違う部位のある皮膚に、彼が生きていることを否応なしに感じさせられた。人間らしくない、と思うことさえあった男の体温が、皮膚を通じて溶け込んでいく。
頸動脈のそばに触れられているのに、恐怖は感じていなかった。
「そんなに綺麗に生きていけるわけがないのに。シマボシさんも、そう思いませんか」
「……その通り、だと、思う」
「同じ意見で嬉しいですよ。ただの幻想ですからね」
嬉しそうに言って、ウォロは首に添えた手の親指で、シマボシの唇をなぞる。表情は笑っているが、シマボシには彼の感情が読み取れなかった。男の、色素の薄い瞳をこんなに近くで見つめても、何も見えない。
もっと知りたい、と思ったこの時、はじめて、ずっと目を背けてきたことと初めて向き合うことが出来たように感じた。意識してしまえば、急に鼓動が早まる。首に手を添えた彼にも、脈が早くなったことはきっと、気づかれているだろう。
「ウォロ、」
「どうしましたか」
「その、…い、いや、なんでもない」
「緊張していますね。大丈夫ですよ、怖いことではありませんから」
『そんなに綺麗に生きていけるわけがないのに』『ただの幻想ですからね』
彼が言っていたことは間違っている。幻想じゃない。それが実現しようとしている人間が、今ここに、確かに存在する。
しかし、それを彼に伝えることだけは、どうしても出来なかった。
声を発する間もなく、互いの唇が重なる。
終