雪と狐の物語 2村の真ん中で燦々と点る、提灯の明かり。
夜の暗闇でそこだけ光る一筋の帯を、背の高い燈籠の上に胡座をかいて座って見守る、一人の妖の姿があった。
ふさふさと靡く黄金色の幾つもの尻尾。護り神とも崇められる、九尾狐の青年だ。
大きな鳥居から始まる参道を照らす明かりの元、賑やかにひしめいているのは村の人間達だ。
神社の祭りというものは、人々が主に五穀豊穣を祈り、祝う祭祀だが。徐々に形を変え、活気に満ちて華やかな、村人たちの憩いと賑わいの場、になっているように思う。特に熱気あふれる夏は、そうだ。それを穏やかな面持ちで、青年は見つめていた。
人には目に写らない九尾の狐の姿を、悠々と晒す。
彼自身は自分を瑞獣とも護り神とも思わないが、今ここで周囲を見回しているのは、良からぬことをしようとする妖がいないか、目を光らせているが故だ。人の憩いの場を、わざわざちょっかいを出して引っ掻き回すような輩は、あまり好きじゃない。
ただ、ここにいる血気盛んなよりどりみどりの妖怪たちの殆どは、実は人間達のほんの隙や油断、あるいは不安につけこんで楽しむ、本当に悪戯好きの悪ふざけ程度をする連中なんだ、ということを。彼はそれらとの交流を通して知ることが、できた。
そのきっかけをくれた、小さくて可愛らしい、あの娘のことを思い出す。もう、会えなくなって3年経った。それでも、その記憶は鮮やかに、蘇る。
「ゼーロッ、」
軽やかな声で呼ばれて、意識をあの頃に飛ばしていた青年は、びくっ、と肩を揺らしてしまった。ククク、と楽しそうな笑い声が響く。
「祭りを楽しんでいるのかと思ったら、ボーッとしちゃって。どうしたの? パトロールしてるにしては、気を緩めすぎ」
「ヒロ」
表情を明るくして、青年は隣にやってきた妖を迎え入れる。
そこに土台は無いのだが、プカプカと胡座をかいて座って浮いている。ピン、と立った三毛猫の毛柄の耳に、長い尾は二又に分かれている。猫又の若者は、穏やかな笑みを浮かべて常に清浄な気を纏っていた。
最初に会った時から、彼とは好戦的な雰囲気にはならなかったな、と、懐古の念を抱いた流れのまま、青年は思いを巡らせる。そうだ。あの雪女の少女のように倒れていたわけではないのだが、感覚としては少し重なるような気がした。
ぽつぽつ話し始めることから互いに距離が縮まっていった。猫又も相当な因縁や道のりがないと成し得ない妖の形だが、彼自身には邪な念はなく、心根の真っすぐさを、関わりと共に直に感じとることができた。
彼に啓発され、九尾狐の青年自身も、自分の在り方や志のようなものを、形として捉えることができるようになった。あの少女とは今離れているけれど。彼から与えられたものはまた、大きかった。
今はもう、九尾狐の青年は一人ではない。信念の元、物の怪の世界で生きて邁進し、そうして出会った妖たちとも意思を交わすことができるようになった。こうして名を呼んでくれる猫又の親友もいる。
ただ互いに呼んでる名は、真名ではなかった。親しみを込めて呼んでいる、という面もあるが、真名というのは妖にとって重大な意味を持つからでもある。
それでも名を呼ばれるなんてまるで覚えがない身だった青年は、ゼロ、と呼ばれた時、面映ゆくも晴れやかな気持ちになったものだ。相手の名を呼ぶ時も、何ともいえない満ち足りた気持ちになる。
あの娘の名前も呼んでみたいな……と、やはりつい気持ちを飛ばしつつ、九尾狐のゼロは、着物の裾を整えた。
猫又のヒロは、3年前初めて会った当初から、趣深い紺色の着物と羽織を身に付けていた。それに触発されて、ゼロの服装も着流しへと変わった経緯がある。最初の頃はいつもきっちり正座している姿しか見せなかったヒロだが、今は屈託なくくつろいだ様子でいる。そうしていても品よく裾を捌く彼に、ゼロも倣ったわけだ。
「華やかで楽しそう。何の問題もなさそうだね」
ヒロは軽やかな声で言う。ゼロも笑顔が満ちた光の帯の中の人々の顔を見て、表情を明るくした。
「活気と意欲に満ちている場所には、妖たちも面白みがないのかもしれないな。人間達が集い紡ぐエネルギーは、素晴らしい。もしかしたらこの祭りの後の方が、警戒が必要かもしれないな」
「ゼロ真面目すぎ」
二つに分かれた尻尾を揺らしながら、ヒロは楽しそうに笑った。ゼロは少し頬を赤らめながらも、一緒に笑う。何とも言えない、穏やかな時間がここにはある。
「せっかく晴れてこんなにきれいに見えているんだ。今日はさらに特別なんだよ」
ヒロが真上を見上げた。ゼロも追うように顔を上げる。
「………七夕?」
「そう。天の川に願いを込めるんだろ」
「…うん、星に祈るという風習はあったようだね。そもそもは、織女にあやかって、機織りや裁縫の上達を願ったんだ」
「ほんと物知りだね、ゼロは。ほら、あんな大きな笹飾りがある。色とりどりの短冊や飾りがとてもきれいだ。この祭りは七夕も兼ねてるんだろ?」
「ああ。笹飾りは、神が降り立つ目印にもしたようだから、神を迎え厄を祓う、そういう意味合いも持たせられるわけだな」
「ゼロにかかると、何でもロマンチックさに欠けるなあ」
呆れたように言いつつ、ヒロは朗らかに笑う。頭上の黄金のとんがり耳を倒し、ゼロも照れたように笑いながら、穏やかにヒロに言った。
「ヒロからロマンチックを、学ぶよ」
「学ぶもんでもないんだけど。いや七夕といえばその、織女と牽牛のロマンス。ほら、今日も良く見えている」
「織姫星と、彦星か」
見上げた夜空には、あまたの星々が集い綾なす神秘的な光の帯。その河を挟んで一層まばゆく瞬く、二つの星。
「一年に一回しか会えないなんて、寂しいよな…」
まるで織姫と彦星の気持ちになったかのように呟く、優しい猫又の青年の言葉に、ゼロは微笑む。
ヒロはそんなゼロを見て、さらにしみじみと続けた。
「しかも天気に左右されるんだぜ」
「自分にはどうしようもないことに妨げられるのは、辛いよな。今年は天気に恵まれたから、きっと無事会えてるよ」
「そうだな」
二人、瞳を細めて星空に思いを馳せる。
「………一年に一回でも。会えるなら、幸せかもな」
そう口の端に上ったのは。無意識だった。薄灰色の着物の後ろでそよぐ、金色の多数の尻尾が揺らぐ。
それを聞いたヒロも。呟くように言った。
「……もう二度と会えないより。いいよな」
二人、ゆっくりと顔を見合わせる。するとふわっ、と柔らかくヒロが笑った。
「うーん、でもやっぱり。ゼロとはこうして、いつでも会いたいけど」
「僕だってそうだ」
力強く言うゼロに。ヒロは晴れやかに笑って、そして声色を落として、聞いた。
「ゼロには会いたいけど会えない人が、いるんだ」
くっ…、とゼロは唇を噛み、着物の襟元を掴んだ。
織姫と彦星。その二人に思いを馳せた時、浮かんだのは再会を約束して離れた、小さくて可憐な、冷たいのにあたたかい、少女のことだった。天の川より。大きなものに隔てられているとは、思いたくないけれど。
「……ちゃんと会う約束を、しているんだ。あと…7年後」
「ななねん、ご?」
若い二人にはさらに長く大きく感じるその予想外の答えに、瞬間目を見開いていたヒロだったが、すぐ、くしゃっ、と笑った。
「会う約束をしているなら、いいな」
「……うん。きっと会える」
「会えるさ。でも、そっか。そんな相手が、いるんだ」
今度はその声が楽しそうに弾んだ。何を話したんだとつい照れて。ゼロは顔を赤らめる。
「オレも会ってみたいな。その時は絶対、会わせてよ~」
「…それは会わせるから! ヒロだって、もし相手ができたら、僕にも会わせろよ」
「あ! やっぱり女の子なんだ! ゼロってばかわいい~。ここまでの流れではそこまで分からなかったのに」
「いや! いや違う! そうじゃない、だってあの子はまだ9才だし…」
「……へー…ますます楽しい…」
「人で遊ぶなっ!」
きゃんきゃんと。賑やかに華やかに戯れる妖二人も、祭りに花を添え。
穏やかでささやかな七夕の夜は更けていく。
あの薄衣のベールが導いた不思議な出会いから。
九尾の狐に待っていた、仲間と過ごす熱と志に満ちた世界。
あの、繊細な優しい雪女の少女にも。
どうか光が注ぐ世界が広がっていますように。
そう願って。
必ず会える日を。心に抱いて。