犬の話「昔、犬を飼っていたんだよ」
どういった流れでそうした話になったのか、七海は覚えていない。しかし話しながら「へへ」と笑う友人灰原の表情を今でも覚えている。
家に犬がいるってさ、なんかいいものだよ、七海。心の中に宝物があるみたいで。たとえば学校の帰りとかにもうすぐ家が近づくだろ。そのときすぐ顔が浮かぶんだよ。道を歩いててもさ、何でもないところでふいに犬の名前が頭に浮かぶときがあって、頭の中で二回くらい名前を呼べば、胸の中がさ、何だかポウっとするんだよね。
僕も妹も可愛がっていたんだけど、高専に入学するちょっと前に死んじゃってね。寿命だったからしょうがないんだけど…
でも、忘れられない。と、少し遠い目をして、しかし七海を振り返って「へへ」と笑った灰原のことを七海はずっと覚えていた。
七海自身は犬を飼ったことはない。だが、小さい頃、祖父母の家に大きな犬がいて、犬は七海を可愛がっていたそうだ。朧げながらに大きなシルエットと長い毛並みを覚えているようなないような、そんな記憶がある。
七海は今、仕事を終えて家に向かっている。今日は少し長引いて高専を出るのが遅れた。この時間なら五条が七海の家に来ているかもしれない。お気に入りのソファに座ってくつろいでいるかもしれないし、キッチンで何かを作っているかもしれない。
七海は胸の中に何か灯がともる心地がした。たぶん灰原が言っていたのはこれだ。ポウっとして、自然口元が緩む。
心の中に宝物があるような
灰原、と七海は思う。
ドアを開けた。白い髪の体の大きな男が出てきて「おかえり~」と笑う。
七海は口元を緩めた。大きな体を抱いてその柔らかな髪を撫でた。これが愛というものかもしれない。これが愛というんでしょう?
灰原の愛した小さな犬も、七海を愛してくれた大きな犬も、そして今、七海に撫でられ戸惑いながら目を細めるこの大きな人も、愛情は一本に繋がっている。どこから来てどこにいくか知らない。それでも一本に繋がっている。
「五条さん」七海は言った。
昔、灰原と犬の話をしたんです。
ふうん、首をもたれさせ五条が言う。
心の中に灯がともっているような、宝物があるようなと、言っていたんです。
うん、五条は七海の髪を撫でた。
「…食事にしましょうか」
七海は身を離してもう一度五条の髪を撫でた。口元は自然に笑む。そうさせてくれる相手がいるなんて、幸せなことですね、灰原。
「シチューを作ったんだよ」
五条が言う。
「それからデザートにチョコレートケーキとアイスクリームと、あとプリンがあるよ」
「自分が食べたいものばかりじゃないですか」
えへへ~と五条が笑う。
好きで好きでたまらない
そういうことですね、灰原。
好きで好きで好きで好きで…
ありがとうございます。七海は思った。