ラーメンを食べて帰ってきて、部屋に戻る前にモクマさんに呼び止められた。
そして。
くびになにかやわらかいものがあたった。
いったいなんだったのかと思えば、いつものふつうの顔でモクマさんが去っていくところだった。
多分、おやすみと返した声は震えていた。
部屋に戻っても頭の中はそればかりで全然眠れそうにない。たぶん、キスだ。いつものおやすみのキス。
額には届かなくてこうなった。…本当に?
言ってくれたらいくらだって屈むのに。
頬でもなくて、首ってどういうことなんだ。頬にくらい届くだろうに。
寝付いた時には空が少し明るかった。
目覚ましのおかげでなんとか寝坊せずに来れたACEの応接室。昼時と言うことで用意してもらった弁当を食べながら次のコンサートの打ち合わせを行った。
バックダンサーの代表として来たものの、ナデシコさんとスイさんの会話に頷くのと、新曲の振付に頭と胃を痛めただけでつつがなく終わった。
そのまま食事ついでの雑談していた時に、ふと、今日ずっと頭の一部を占めていたことを口にしてしまったのがまずかった。
「そういえばミカグラでも寝る前のキスってするんですね」
「は?」「え?」
二人の声が見事に同時で、こっちの方が驚いた。
「……え?」
「…えっと、他の家はわからないけど、少なくともうちではそういうことはしなかったよ。」
「私もだ。」
三人で顔を見合っても沈黙が止まらなくて、焦って更に墓穴を掘った。
「…そうなんですか。じゃあマイカだけなんですね。」
「…ルーク、君の知るマイカの……、…いや、今はそれは置いておこうか。だが、マイカはむしろ触れ合いが少ない方だ。キスの文化もブロッサムが発展してようやく入ったのではなかったかな。」
「……そう、なんですね。変なこと言ってすみません。あー…、ええと…」
別の話題を探そうにも、頭の中が疑問でいっぱいで纏まらない。習慣があるのでなければ、何故。
「ルーク、口元にソースがついている。一度確認してくるといい」
ナデシコさんからやんわりと一時退室を促された。僕はいったいどんな表情をしていたのだろうか。
トイレの手荒い場の鏡を見た。
別にソースなんてついていない。
困ったような、少し照れたような顔を洗って両頬をぱしんと叩いて気合いを入れて応接室へと戻った。
同日、夕方。スーパーで買い出しの途中、アーロンにも聞いてみた。
「アーロンはさ、モクマさんに寝る前に会ったら何してる?」
「……別に俺は夜食に誘われたりはしてねぇよ」
「気付いてたんだ……」
「あれだけ残り香してたら俺じゃなくても気付くだろうよ」
「はは…。換気、気を付けるよ。 ……その他には?」
イケナイコトとはいいつつ大抵は冷蔵庫の残り物を食べてるだけだし、別に咎められるような事じゃない。それはそうなんだけど。
「なんも。声かけられりゃ挨拶くらいはするが。……てか、他になにかあるか?」
「……いや、そうだよな。ありがとう。」
と、いうことは。
ミカグラやマイカの習慣でキスをしている訳じゃない。
誰にでもしている訳じゃない。
と言うことになる。
つまり、僕だけ……になるのだろうか。
それってどういうことだろう。
昨日も眠れてないのに今日も眠れなくなりそうだ。
寝る前にホットミルクでも飲めば少しは落ち着くかもしれない。
牛乳をカートに入れて、菓子売り場でチョコレートを見かけたら、製菓コーナーでラム酒までまとめてカートに入れていた。
アーロンの目が訝しんでいたが、今日の分として使う挽き肉のパックを一つ増やすことで詮索を免れた。高度な司法取引だった…。
その日の夜。
ホットチョコレートを飲んだ後。
ベッドで転がりながらついさっき、モクマさんにされたことを思い返した。
「……もうなんかほとんど普通のキス…だった気がする」
というか唇にも当たったからキスだった。どうしよう、唇のキスなんて人工呼吸の人形相手以外にしたことないのに。
自分から額にキスするだけでもドキドキしたのに、やっぱりモクマさんは平然としていて気持ちが読めない。
モクマさんにどう思われてるんだろう。
からかわれてる? ……それはないと信じたい。
子供みたいに思われてる? ……額だけならそうだったかもしれないけど。口はどうなんだ。……子供扱いも嫌だと思っているのかもしれない。
もしかしたら、好き…でいてくれてる?
……そうなら、嬉しい。
じゃあもし掠めるだけじゃなくキスをされたらどうしたらいいのか、なんて。
もちろん勝手に考えるのはおこがましいけど。
それも嬉しいとしか思えないんだから、多分、僕は。
「…好き、なんだろうな」
結論が出てようやく眠気がやってきた。
翌日。
『特別』とはなにかと一瞬だけ頭を過ったけど、いつものようにモクマさんについていく。
いかがわしい通りに入ったとは思っても、穴場の店ってことはあるし。
飲食店ではない受付に、既に予約してあるらしくスムーズに通されて、気がつけばホテルの一室で。
……流石にこれは予想していなかったんだけどな?
慣れないムードにたじろいでいると、渡されたのはおいしそうなメニューでほっとして。
それと同時に残念に思った。…と言うのも自覚して。もう何をどうしたらいいのかわからない。
逃避するようにメニューを眺めた。チョコレートと苺のトーストが一番おいしそうだとは思った。
ベッドもひとつしかないのに、モクマさんは至って普通にしている。本当に食べにきただけかもしれない。意図が読めなくて本当に落ち着かない。
そわそわしながら話をしてたらいきなり体を引っ張られて天地が逆転して、天井とモクマさんだけが視界に映る。
どうしよう、すごく格好良く見える。これが好きってことなんだろうか。
言うとおりに流されちゃえばいい、それなら僕は応えただけって言い訳出来ると心のどこかから聞こえたけど、それに小さく首を横に振って叫んだ。
「も、モクマさんは僕の事好きってことでいいんですか?」
少し声が裏がえった。
「ルークは、こんなことする俺のこと、好きでいてくれる?」
なんてずるい言葉だろう。
でも、いつも飄々としてるはずの目が、少し怖がっているようで。モクマさんも不安なのかと思ったら許せてしまった。
「多分、僕は何されてもモクマさんのこと好きなままですよ」
ありがとう、嬉しい、……好きだよ。
そんな言葉をキスの合間に言われるものだから、こっちからはしがみつくのに必死で、なにも言葉を返せなかった。
……結局トーストを食べる前にチェックアウトの時間になって、また来ようと誘われたのはモクマさんの計算通りなのだろうか。多分答えてくれないだろうけど。