藍宝石と宙を駆ける(ディアイザ) 将校クラスになると執務室のグレードも上がる。イザーク本人は仕事が出来ればそれで良いと思っているようだが、やはり対外的に情報部を取り仕切る中佐殿の執務室はそれなりのものをということになるのだろう。その部屋に、ほぼ唯一と言って良いほどに顔パスで入れるディアッカは、いつものように休憩用のコーヒーを手に室内へと足を踏み入れた。
本来、そんな仕事は配属されて間もない新人か、事務を担当する文官達の仕事だ。副官の立場にある中尉殿がすることではないが、当の本人はどこ吹く風。息抜きにもなるんだよと笑いながら二人分のコーヒーを用意して、人払いをした執務室で長年の相棒と共に休息を取る。
規律がどうのと面倒くさいことを言うような人物は、配下にはいない。余所では誰かが何かを言っているかもしれないが、聞こえない囀りなどないものと同じ。ディアッカもイザークも気にしてはいなかった。
ディアッカは確かにイザークの副官という立場だが、それがあくまでも形式的なものにすぎないことを、部下達は知っている。彼ら二人の間に上下などは存在せず、アカデミー時代からの気心知れた相棒としてそこにあるのだ。それに、ディアッカの存在が忙しいイザークの支えになっていることは、誰の目にも明らかだった。
「イザーク、コーヒー煎れてきたぜ。少し休憩にしよう」
「ん?あぁ、そうだな」
ディアッカの言葉にイザークは素直に同意し、操作していた端末をぱたりと閉じた。ぎぃっと椅子の背もたれを軋ませながら伸びをする。銀糸のような艶やかな髪がその動きに釣られるように揺れて、室内灯の明かりを反射して煌めいた。
そんなイザークの様子を見たディアッカは、色の白い整った顔立ちの中、一際目を引く深い青の瞳へと視線を向ける。正確には、その周辺だ。まだ露骨に分かるほどではないが、うっすらと目の下に隈が見える。ごたごたの後始末に奔走しているのはディアッカも同じだが、イザークの方が精神的に疲労しているように見えた。
頭の中で現在進行中の仕事についてディアッカは考えを巡らせる。段取り、期日、関わるのは誰か。それらを素早く確認して、少しばかり長めに休憩を取っても問題は無さそうだと判断を下す。
判断を下せば、彼の行動は早かった。イザークの執務机に二人分のコーヒーを置くと、そのままくるりときびすを返して扉の方へと向かう。どうしたと問いかけるイザークの言葉には応えずに、扉を少し開けて外に控える部下に声をかける。
「ちょいとお疲れだから、少し長めに休憩を取るわ。お前らも交代で休憩取れよ?」
「あ、分かりました」
「お疲れ様です」
「はいよ、お疲れさん」
気さくな口調で告げるディアッカに、部下達は笑顔で応対する。そうして扉を閉めたディアッカは、静かな表情で鍵をかけた。小さく、扉が施錠される音が響く。
ただそれは、離れた場所にいるイザークの耳には届かなかったのだろう。何をやっているんだ貴様と言いたげな表情がそこにある。
「何を勝手に休憩時間を延長しようとしているんだ。サボろうとするな」
「失敬な。俺は必要な分はちゃんとやってるよ」
「だったら貴様一人で」
「イザーク」
放っておけばそのまま延々と喋り続けそうなイザークの言葉を、ディアッカは名前を呼ぶことで制止した。静かな、どこまでも静かな声だった。鉛でも飲み込んだようにイザークが口を閉ざし、ディアッカを見ている。
そのままディアッカはイザークの傍らに歩み寄ると、椅子に座ったままの友人の頭をそっと抱きしめた。イザークの頭はディアッカの胸に抱き込まれる形になり、傍らの相棒の心音を聞かされる。
「おい、貴様、何を……!」
「そろそろ吐き出せ。俺しかいないから」
「……ッ」
その言葉は静かで、端的で、余人ならば何を言っているのか理解できなかっただろう。だが、イザークにはディアッカが何を言いたいのかが理解できた。頭を抱き抱え優しく撫でる掌の温もりに、押し当てられた胸板から伝わる心音に、ひゅっとイザークの喉が小さく鳴った。
ディアッカの腕の中で、イザークの顔がくしゃりと歪む。癇癪を起こす子供のようなくしゃくしゃに歪んだ顔で、それでもイザークは何も言わない。歯を食いしばるように唇を噛みしめ、キツく眉を寄せて何かを堪えるようにしている。
覗き込んだイザークの表情に、ディアッカはお前なぁと呆れたように呟いた。そしてそのまま、ぽんぽんとイザークの背中を叩く。優しく、優しく、まるで子供を寝かしつけるようなリズムだった。
少しして、耐えきれないと言うようにイザークの唇から嗚咽が零れ落ちる。泣くのを必死に堪えるような、どこまでも不器用なそれを聞きながら、ディアッカはイザークの頭を抱きしめている。言葉は必要なかった。必要なのは泣かせてやれる場所と、今こうして傍らにいると伝える温もりだ。
ジャガンナート一派が企てたクーデターは未遂に終わったが、最後の最後まで降伏を呼びかけたイザークの声は結局、届かなかった。果たしてあの場にいた全ての将兵が、ジャガンナートと死を共にするつもりだっただろうか。或いは、降伏して生き延びたいと願う者がいたのではないか。
全ては宇宙の藻屑と散り、今となっては真偽の程は定かではない。
あそこは戦場で、クーデターを企てた段階でジャガンナートに折れるつもりはなかっただろう。だがそれでもイザークは言葉をかけ続けた。生きて、生き延びて、その上で己の罪と向き合って償うことが大切なのだと言うように。けれどその言葉は、想いは、過去に縛られた男には届かなかった。
(お前は優しすぎるよ、イザーク……)
声を殺して泣く相棒の頭を抱きしめながら、ディアッカはそっと目を伏せる。あの時、愚直にも必死に説得を続けるイザークの傍らで、ディアッカは初めからそんなものは通じないと思っていた。薄情と言われようとも、ディアッカの見立てではジャガンナートがこちらの言葉を聞くわけがなかったのだ。
それでもイザークの好きにさせたのは、万に一つの可能性に賭けたのと、イザークが後悔しないようにと思ったからだ。救えずに今こうして悔し涙を流している姿は痛ましいが、己が決めたことを通すだけは通したのだから、まだ軽症の筈だ。それすら出来ずに全てを撃って終わらせるだけであったなら、イザークはもっと早くに鬱屈に押し潰されていただろう。
激情型のこの相棒が、その実誰よりも情に厚いことをディアッカは知っている。それをイザークの美点だと思うと同時に、だからこそ不必要な傷を抱えもするのだろうと思っている。だが、そんなイザークだからディアッカは側にいたいと思うし、側にいさせてくれるのだろう。
彼らだって、間違いを幾つも乗り越えて、ここにある。初陣から後、彼らが歩んだ道筋は到底普通ではなかった。真実は幾つもの側面を抱え、彼らは確かに犯罪者としての面も持っている。時代が、世界が、まだ十代の小僧だった彼らを戦場に駆り立てて酷使した結果だ。
そのことを、世界が悪いなどと言うつもりはなかった。選んだのも、望んだのも、自分達だ。自分の意思でそこに立った。その手に命を奪う兵器の操縦桿を握ることを、彼らは自分の意思で選んだ。その果てに奪った命と向き合うことから、逃げないと決めただけだ。
イザークの頭を抱いた腕に、濡れた感触が伝わる。熱い涙が幾粒もこぼれ落ちて、ディアッカの袖を濡らしていた。イザークが俯くように顔を伏せているせいで、角度が変わってそうなったのだろう。だが、ディアッカはそれを咎めはしなかった。
いつの間にか、イザークの指先がディアッカの上着の裾を掴んでいる。縋るように強く引っ張られて、どれだけの力が入れられているのかを理解する。それはまるで、ディアッカがそこにいることを確かめているようでもあった。
同じだ、とディアッカは思う。ディアッカもまた、腕にイザークの頭を抱くことで、彼の存在を確かめている。自分達は生きてここにいることを理解して、どれほどの苦痛があろうとも飲み込んで、乗り越えて、前を向くのだと胸に刻む。これはきっと、そのための儀式のようなものだ。
ジャガンナートの言葉が蘇る。彼ら二人に届いたあの叫びは、ジャガンナートを縛る呪縛だったのだろう。同じ痛みをディアッカもイザークも抱えている。抱えた上で彼らは、前を向いた。あの凄惨な戦いを経験したからこそ、生きることの意味を知ったからこそ、前を向いたのだ。
「……ぃ、アッカ……」
「うん?どした?」
「…………ディアッカ、俺は」
その先は、言葉にならないようだった。ディアッカはイザークを急かさなかった。繰り返すように自分の名前を呼ぶ相棒の頭を抱きしめて、あやすように背を撫でる。それだけだった。
立ち止まっても良い。振り返っても良い。苦しんでも、悲しんでも良い。けれどそれでも、前へ進むことを諦めることだけはしない。してはいけない。自分達は、生きているのだから。その思いは、どちらの胸にも宿っていた。
世界はこれからもめまぐるしく動くだろう。各陣営が、各々の思惑で動くだろう。それでも、守りたいと願ったものの為に戦う道を、彼らは選んだ。……一人ではなく、共に。
しばらくして、イザークの状態も落ち着いた。泣いたことが一目瞭然の赤くなった目をしているが、それでもその表情はいつも通り。そんな相棒に、ディアッカはただ一言、告げた。
「コーヒー、冷めちまったな」
先ほどまでの空気をかき消すような、いつも通りの軽やかな声。それを聞いたイザークもまた、いつも通りに口を開く。
「まぁ、冷めても味は悪くあるまい」
「そりゃ、お前に出すコーヒーだからねぇ。そこそこの豆使ってるだろ」
そうやって彼らは、日常に戻る。ほんの一時、休息しただけだと言うように。
……ただ、ディアッカはそっと、イザークの目元を指先で拭った。労るような仕草だった。
「ディアッカ?」
「忙しいのは分かるが、ちゃんと休めよ。目の下に隈ができかけてる」
「……む」
「お前が顔に出るほど疲労を溜め込んじまったら、部下達も心配するからよ」
戯けたような言葉に、イザークは気をつけると静かに答えた。ここでディアッカ自身が心配すると言わず、部下達がと伝えるのが彼らしい。イザークはディアッカの心配などどこ吹く風だが、部下達相手ならば気配りをするのだ。
そうして彼らは、彼らの役目を果たす。背負った全てを捨てることなく、傍らの相棒と共に。それこそが自分達の誇りだと言うように。
あの広く遠い宙を駆けるように、彼らは未来へと進んでいく。
FIN