菫青石は砕けない4 限界は、思っていたよりも早く訪れた。
自分が思っている以上に追い詰められていたのだと、アガレスは気づいていなかったのだ。隠すのは得意で、気づかせないのも得意だったから、大丈夫だと思いこんでいただけだった。
アガレスが巧妙に距離を取ろうとしても、ガープは目敏く気づいて駆け寄ってきた。それまで繋がっていた手をアガレスがするりと外したとして、離れきる前に当たり前みたいな顔で掴んでくるのだ。しかも当人に自覚がない。
そんなことが、幾度も、幾度も繰り返された。少しずつ距離を取ろうと考えていたアガレスは、相棒の思わぬ察しの良さに妨害され続けている。その上、ガープは無邪気に笑いながらアガレスの心臓を射抜き続けているのだ。何も考えていないくせに。
そう、何も、考えていないのに。ガープにとってアガレスは大切なお仲間で、一番のお仲間で、たった一人だけの相棒なのだろう。だから無邪気に近寄ってくるし、特別を隠しもしない。しかしそれは、今のアガレスにはただの猛毒だった。
気を抜けば溢れ出しそうな感情を押し殺し、面倒くさそうにガープの相手をする日々は長くは続かなかった。他の誰かが距離を取っても放置する癖に、ガープはアガレス相手の時だけは見逃してくれない。それがただ、辛かった。
学生生活で知り合った面々で、少し距離が離れた者達だっている。そういった者達が離れていくとき、それとなく距離を取られたとき、ガープは別に何もしなかった。少しだけ寂しそうな顔をして、けれど去りゆく者達を見送るだけだった。
なのに、アガレスが相手の今、それを許してくれない。そんなところで自分が特別だと認識したくなどなかった。唯一の相棒だから、6年間ずっと一番近いところにいたから、不在に慣れないガープが手を伸ばしてくるだけなのだと、アガレスは分かっている。
分かって、しまっている。
どれだけ重い感情を向けられても、特別を与えられても、それはアガレスが欲しいものではない。同じだけのものではない。同じ想いは返らない。分かってしまう程度には、ずっと、誰より近い場所で、ガープを見てきた。
だから、限界だった。無自覚にガープが心の柔らかな部分を踏みにじる度に、アガレスは声にならない叫びを上げて血の涙を流していた。それを気付かせないようにしていただけで。
磨り減って、ひび割れて、今にも砕けそうな心を必死にかき集めて生きてきた。何でもないフリをして、ひび割れが皆に見えないように巧妙に貼り付けて。一番近い場所にいる男に、誰より気付かれないように必死に。
その努力すら、ガープの無自覚は無残に打ち砕く。求めても与えてくれないのに、離れることすら許してくれない。ただのお仲間の距離になろうとしているだけなのに、アガレスをいつまでも特別から解放してくれないのだ。
別に、ガープと縁を切るつもりはなかった。これからも、お仲間として、相棒として、生きていくつもりはあった。完全に離れるのはアガレスの心が保たないし、ガープを悲しませるのも嫌だった。だから、上手な距離を、適切な立ち位置を探していただけだというのに。
そんなささやかな望みすら許されず、退路を奪われて、息をすることさえ苦しくなったアガレスは、遂に感情を吐露してしまった。祈るような、縋るような気持ちで。
「頼むから、もう俺を、解放してくれ……」
静かに、静かにその言葉は口にされた。震える声だった。弱々しい声だった。目の前のガープの顔を見ることが出来ず、俯いたままアガレスは口にしていた。
身体が震えている。何に怯えているのかすら、もう自分でも分からなかった。ただただ、このままでは自分が壊れてしまうと、彼の側に、仲間の顔をしてすら留まれないと気付いてしまっただけだ。
ガープの反応はなかった。静かだった。あぁ、伝わっていないのだと気付いて、アガレスはゆっくりと顔を上げた。目の前の男は、ただ、不思議そうにアガレスを見ている。
ほらやっぱり、こいつは何も気付いていない。その事実を突きつけられて、アガレスは顔から表情を削ぎ落とした。取り繕うことすら出来ない。今にも泣きそうに歪む顔を、必死に引き戻すぐらいしか出来ない。
その状態で、アガレスは言葉を続けた。きちんと伝えなければ、何も変わらない。同じ日々が繰り返されて、アガレスが苦しくなるだけなのだから。
「お前の側にいるのが辛いんだ」
言葉は、するりと零れ落ちた。そう、辛い。ガープの側に、何も考えていないガープの側に、相棒の顔をして佇むのが苦しくなった。辛くて辛くてたまらなかった。
相変わらず不思議そうなガープに、アガレスは言葉を続ける。伝えなければ、通じない。伝えても通じないかも知れないが、言わないよりもマシだろう。そう、思って。
「俺はお前と同じじゃないんだ」
「アガレス殿、それは、どういう……?」
「俺を何とも思ってないお前の側にいたくない」
真っ直ぐ、ガープを見据えてアガレスは告げた。この言葉だけは、逃げずに告げなければならないと思った。ガープは他人との間合いが分かっていないから、しっかりと突きつけなければ通じない。アガレスはそれを知っている。
なるべく感情を乱さないように気をつけて、アガレスは言葉にした。感情任せに訴えたところで、この男には通じないのだ。情緒の回路が他人とは違う。少なくとも、アガレスとは違うから、他の悪魔達なら簡単に理解してくれる部分を、ガープはいつだって分かってくれない。
そういう男だと知っている。知っていながら側にいた。自分の感情が報われないことも、気付かれないことも、全部分かって側にいたのだ。そのツケが回ってきただけだと冷静な自分は判断している。もっと早くに動いていれば良かっただろう、と。
それが出来なかったのは、それだけアガレスがガープに惹かれていたからだ。長所よりも短所が際立つような部分があっても、いつも一生懸命に生きているガープの側が心地好かった。相棒でいられるのが嬉しかった。そのぬるま湯に浸かることをよしとしたのはアガレス自身である。
今になって、苦しいから離れたいなんて、自分勝手なワガママだと分かっている。ガープは寂しがり屋だ。お仲間を沢山集めたがるのだって、誰かと一緒にいたいからだ。その彼が、一番近い場所にいたアガレスを惜しむことなんて、嫌というほど分かっていた。
分かっていてももう、限界なのだ。だからどうか分かってくれと、アガレスは縋るような気持ちでガープを見る。
けれど、ガープの口から零れ落ちる言葉は、アガレスの希望を無残にも打ち砕く。優しい真綿で首を絞めるように、残酷に。
「拙者、アガレス殿のことを何とも思ってなくなどないでござる!アガレス殿は誰より大切なお仲間で、相棒で、一番大切な……!」
「知ってるよ」
「知っているなら、何故そのようなことを言うのでござるか?拙者、何か不興を買うようなことをしたのでござるか?」
「違う」
ガープは必死だった。困惑を表に出し、抱えた感情の強さそのままに、必死にアガレスに訴えてくる。誰より大切だと、自分には必要な存在だと、何か悪いところがあったのならば気をつけると、どこまでも直向きに告げてくる。
……あくまでも、お仲間としての特別だけを、そこに宿して。
それがアガレスにとってどれほどの絶望かなど、彼は気付かない。気付かないから畳みかけるように告げるのだ。
「アガレス殿は、拙者にとって大切なお方でござる。それを分かっていると言いながら、何故そのような……」
「お前の特別と、俺の特別が違うからだよ!」
「……アガレス殿?」
放っておけば延々と続きそうなガープの言葉を、アガレスは血を吐くような叫びで遮った。驚くガープを見上げるアガレスの顔は、泣きそうだった。必死にプライドをかき集めて泣くまいと堪えているだけで、今にも折れてしまいそうだ。
違うとは?と首を傾げるガープの、ここまできても何も察してくれないガープの、いつも通りの顔を見て、アガレスは唇を噛みしめた。胸が痛かった。心臓が切り刻まれるような痛みだ。一番大切に守ってきた場所を、無遠慮に踏み潰されるような、どうしようもない痛みだった。
だから、アガレスはもう全てを諦めて、その言葉を口にした。言わずにいようと、ずっと、隠していた言葉を。
「俺は、お前が好きなんだよ……ッ!」
語尾は、どうしても叫ぶようになってしまった。今にも泣きそうに震える声で、揺れる瞳で、アガレスは告げた。まるで、血を吐くように。
ガープは、驚愕に目を見開いていた。情緒を理解しない男ながらも、今のアガレスの必死さが理解出来たのだろう。ただただ呆気に取られたようにアガレスを見ている。
言葉はなかった。ガープは、何も、言わなかった。
ほらやっぱり、分かってなかった。そんなことを思いながら、アガレスは口元に笑みを浮かべた。今にも泣きそうだった顔が、緩やかに笑みへと変わる。
だがそれは、異質な笑みだった。自嘲めいたものである。己の愚かさを嫌というほどに理解した、何とも言えず悲しげな微笑み。
「だから、俺はもう、お前の側にはいられないんだ。……辛いから」
笑みを浮かべて告げて、アガレスはきびすを返す。去り際に、ただ一言、ごめんな、と告げて。
ガープは追ってこなかった。伸ばされる手もなかった。気配でそれが分かるぐらいには側にいた。あの温もりを、安らぎを、自分自身の手で壊してしまったと理解しながら、アガレスは足を進める。追ってこないガープから、逃げるように。
こんな風に決裂するつもりはなかったのだ。上手な距離を取っていたかった。そうすれば、お仲間としてこれからも一緒にいられただろうから。
けれどそんな小さな願いも叶わずに、アガレスは傷ついた心を抱えたままその場を去るのだった。