そろそろいかなくちゃ「ほんとにいい? 送っていかなくって」
「だいじょうぶだって」
スリッパ姿で投げかけるこちらの問いかけを前に、いつものあの、やわらかく綻んだような笑顔できっぱりと首を横に振ってみせたのち、鴫野くんは答える。
言ったでしょ、余計に寂しくなっちゃうからって。ささやくように落とされた声に、じわり、と胸の奥からは、あたたかなものがこみ上げてくるのを抑えきれなくなってしまう。
背の高さがほとんど変わらない僕たちでも、こうして上がり框の数センチを借りてしまえばいつもとはすこしだけ視線の高さが変えられてしまう。見上げられることには、もうとっくに慣れているそのはずなのに――いつもとは打って変わって、上目遣いにこちらをじいっと見つめるまなざしに秘められた温度はしびれるようにあまい。
「きょうね、ほんとに楽しかったよ。遠野くん、ほんとにありがとうね」
子どもみたいにまっすぐにこちらを見つめるまなざしの奥では、おだやかに滲んだ光が乱反射する。
「……そんなこと」
反射的にそう口に出してしまえば、やわらかく瞼を細めた笑顔は、おだやかにそれを受け止めてくれる。
「いいでしょ、ほんとのことなんだから」
そういうとこあるよね、遠野くんって。すっかりお馴染みになってしまった、すこしだけこちらをからかうような口ぶりにさわりと心の奥を揺さぶられる。それでも、その奥に秘められた掛け値なしのぬくもりは手に取るように伝わるのだから、はねのけることなんて出来るはずもない。
「僕もすごく楽しかったよ、ありがとう」
「……そっかぁ」
すこしだけいびつに震えた指先をぎゅっと握りしめながら答えれば、まっすぐに見つめるその先で、ぱっちりとしたアーモンド型の瞳をきゅっと細めたおだやかな笑顔が広がる。子どもみたいに無邪気で、何のてらいもないその笑いかけ方はきっととっくの昔に僕が失ってしまったもので――そのまぶしさがいま、こうして僕だけに向けられているだなんことにただどうしようもなく、心ごと沈み込んでしまいそうになるのをぐっと堪える。
「――どうしよう、困ったなぁ。そろそろ帰らなきゃって言ったのだって僕のほうなのにね」
やわらかそうな髪をくしゃりとかきあげ、困ったようにくすりとちいさく笑いながら、優しいささやき声がこぼれおちる。
「遠野くんと別れる時ね、いつからかなぁ、なんだかすごく寂しくなって。もう会えないなんてわけじゃないのにね、おかしいよね? 遠野くんはいっつも『またね』って言ってくれるからさ。遠野くんが見えなくなると、その時の顔、いっしょうけんめい思い出して」
どこか困ったように肩をすくめて笑ってみせるその笑顔はよくよく見知ったそれのはずなのに――どこか幼くて無防備な、いつもなら覆い隠されているはずのあやうげな色を宿しているかのように見える。
「……言ってくれたらよかったのに」
「言えるわけないでしょ」
軽口めいた返答を返せば、そろりと差し伸ばされた指先は掠めるようなやわらかさで髪をなぞる。
「我慢してたんだよ、これでも――ずっと」
はにかんだように瞼を細めながら、まるで壊れものに触れるようなひどく繊細な手つきで髪をやさしく掬っては払う仕草を繰り返されると、ふつふつと心の奥からは沸き立つようなあたたかな感情がこみ上げてくるのを抑えきれなくなってしまう。
ずっと不思議に思っていたことがあった――人よりもパーソナルスペースが狭い上に、何かとスキンシップも多い鴫野くんはそれでも極力、こちらには触れようとしなかったのだから。
「ねえ、」
首を傾げながら、どこかいたずらめいた響きで僕は尋ねてみる。
「いまも我慢してるの? もしかして」
「……そういうとこあるよね、遠野くんって」
かすかに顔を赤らめたまま、力なく告げられる言葉にさわりと心地よく心を揺さぶられてしまうのにただ身を任せる。
いつでもきゅっと口角をあげてやわらかな笑みを浮かべてみせる彼が、普段ならきっと滅多に見せないようなどこか弱気で無防備なその表情を前に、いとおしさとしか呼べない感情がぐっと募る。
「それでもいいって言ったのは君のほうでしょ」
「そうだけど」
くすくすと笑いあいながら、あまい蜜を帯びたようにじっとりと潤んで次第にとろけていくかのようなまなざしをじいっと見つめる。
「ごめんね、引き留めちゃって。また来てくれるよね?」
「うん……ありがとう、また」
瞼を細めたおだやかな笑顔をすこしでも長く、心に焼き付けておけるように――口をつぐんだまま、しずかなまばたきを数度こぼす。
ゆるやかに、ゆるやかに――僕たちは、恋をしていく。