きみの髪に触れたい 人との距離が近い、だなんてことはむかしからよく言われることだったし、自身でも重々自覚済みだ。おそらくは生まれつきの性分ではあるのだと思うのだれけど、そこに加えて、小3から始めたミニバスの影響は多い。
いいプレーが決まればハイタッチやフィストバンプで讃えあうのは基本事項、感極まったタイミングで自分よりも大きな相手から抱きつかれるのも、思い切り駆け寄ってチームメイトに抱きつくのだって日常茶飯事だ。
練習の合間、くしゃくしゃの笑顔を浮かべた先輩から何気ないふうに肩を抱かれたり、髪をわしゃわしゃ撫で回された時には仲間として認めてくれているのだ、という証をもらったみたいでなんだかすごく嬉しかった。
鴫野の髪はやわらかくて気持ちいい、だなんて言って順番に撫でに来られるせいで、練習や試合の帰りにはいっつもボサボサの頭で帰ることになるのだって日常茶飯事だったけれど、ちっとも嫌な気分になんてならなかったくらいだ。
個人差があることくらいは百も承知の上で、心を許した相手に触ったり触れられたりするのは文句なしに気持ちいい。遠慮なく相手に触れられる機会だなんて、歳を重ねるほどに遠ざかっていくものだからこそ余計にそう感じるのかもしれない。
理屈なんかじゃなく、本能が欲しがってたまらないもの――種よ人の望みよ喜びよってこういうことを指してるんじゃないの? だなんて大袈裟なことだって思うくらいの。
バスケのチームメイト以外で一番距離の近い相手は、紛れもなく旭だと思う。
他のみんなとだって会えば肩を組むのはしょっちゅうだけれど、大抵はそのままあしらわれて終わり(ハルだけは物凄い勢いで跳ね除けてくるけれど)、じゃれあいの応酬に発展するのはいつも旭だけだ。それがなんでなのか、なんてことはちっともわからないけれど、まあたぶん、単純に相性が良いんだと思う。
同じ舞台で競い合うライバルになることもなければ、勝利を目指して力を貸し合うこともない。それぞれに異なる舞台を選んだからこそ、あんなふうに大半のやり取りがくだらない話だけで埋め尽くされるような気の置けない友達でいられる部分は大きいんだろうな、だなんてことは何度も考えた。
あの時みんながバスケ部に入ってくれなかったことはいまだに少し寂しく思うくらいだけれど、きっとみんながバスケを選んでいたら、こんなふうな友達になんてなれなかったはずだ。
映画なんかでもよくあるよね、些細に思えるような選択ひとつでその後の人生が大きく変わるって言う――たしかそう、バタフライエフェクトってやつ。
その絶好の例がいまこうしてすぐ目の前にあるわけだから、確信はより一層深まる。
「……鴫野くん、どうかした?」
真っ白な正方形のテーブルを挟んだ向かい側から、ぱちぱち、と遠慮がちなまばたきとともに、僕の顔、なにかついてる? だなんて遠慮がちな問いかけが投げかけられる。
少し照れたようすの、困ったような曖昧な笑い顔――ほんの少し前までなら決して見れなかったはずのそんな無防備な顔を、こうして僕だけが見せてもらえているだなんてことがなんだか無性に嬉しくなるのはなんでだろう。
「そんなことないよ、きょうもかっこいなぁって思ってたくらい?」
「ならいいんだけど……」
わざとらしく冗談めかして答えれば、少しばかり照れくさそうな、困惑を隠せないようすの表情がみるみるうちに浮かぶ。
こうして、『友達』になれたことで知れたことのひとつ――遠野くんは案外すぐに顔に出るだなんてこと。
「ごめんごめん、もしかして怖がらせてたりした? 癖なんだよね、つい」
くしゃりと髪をかきあげながら、ぬるい吐息混じりにぽつりと言葉を落とす。
「うちのお父さんとお母さんがさ、僕が小さい頃からずうっと、何か話がある時には目が合うようにってかがんでくれてたんだよね。ちゃんと見ないと大事なことが伝わらないでしょって。一が万事そんなだったから、誰かと話す時には目を見て喋るのが癖になっちゃったんだと思うんだよね」
「あぁ――、そうなんだ」
まっすぐに見つめたまなざしの奥で、微かな翳りが揺らぐ。
目は口ほどに物を言うってほんとうだな、だなんて思うのはこんな時だ。遠野くんのやわらかくて澄んだまなざしはいつも、いくつもの曖昧な感情の色を穏やかに溶かしているから。
「遠野くんとだとさ、目線の高さも同じくらいでしょ? だから余計に気になるのかもね」
郁弥とは違って、という言葉は静かに飲み込む。
「ああ、言われてみればそうなのかも」
ぱちぱちと、ささやかなまばたきに合わせて、まっすぐに伸びた睫毛が風にそよぐように揺れる。
「ごめんね、今度からはなるべくがまんするから」
「……そんなこと」
少し困ったように遠慮がちに笑う顔をぼんやり眺めながら、すっと通った綺麗な鼻筋や、なだらかなカーブを描く頬のラインや首筋、コーヒーカップの持ち手へと絡められたしなやかな指先を順に眺める。
まいったなあ、ほんとうに。こんなにも自在に豊かな色を宿らせる綺麗な瞳を見つめていたらだめだなんて。でもまあ、仕方ないよね。困らせるわけにはいかないし。
心の片隅で揺れる無念を飼い慣らすようにしながら視線をそよがせていれば、ふいに、捲り上げられた手首の内側にちいさな痣が残されていることに気づく。
「遠野くん、痣ができてる」
指差しながら呟けば、「えっ、どこ?」だなんて困惑した様子の答えが返される。
「えっとね、左の手首の内側の――」
テーブルを挟んだ向こう側へと手を差し伸べようとして、咄嗟に引っ込める。遠野くんはそういうのがきっと平気なわけじゃないから――まだ、たぶん。
もどかしい気持ちに駆られながら、無傷なままの自分の手首を指し示してみせる。
「僕のこと鏡だと思って、だいたいこの辺」
「あぁ――」
ありがとう、丁寧に。穏やかに答えてくれながら、レンズ越しの瞳はうっすらと浮かび上がった赤紫の小さな痣をしげしげと眺める。
「全然気づかなかった――ありがとう、教えてくれて。何かの時にでもぶつけたのかな」
「遠野くん、平気? ごめんね、気づかなくって。後から痛くなるかもしれないから、お家に帰ってからでいいから湿布貼っておいてね」
「大丈夫だよ、鴫野くんのせいじゃないし――それにほら、気づかないくらいだから」
平気だとそう主張するように、ひらひらと手を振ってみせてくれる姿に心からの安堵がこぼれる。それならほんとうに良いのだけれど――でも。
「そうだ、痣の治りが早くなるクリームがあるからさ、この後薬局寄って行く? 早く治した方がいいもんね、水着だと目立つでしょ?」
「あぁ、うん――」
そっと目を見れば、すこしばかりの困惑を隠せないようすの色が浮かぶ。そうだよね、まぁ。どこかちくりと胸が痛むのを感じながら、取り繕うような笑顔で答える。
「ごめんごめん、大袈裟だって思うよね? ほら、遠野くんは水泳の練習があるからさ。見えるところに痣があったら悪く言われちゃわないかって思ったんだよね。遊んでて怪我するだなんて、とか」
下手をすれば取り返しのつかないことになりかねないのだから、と普段から怪我には重々気をつけて体がぶつかり合うような激しいプレーは極力避けていたけれど、それに加えて、水泳を本分とするみんなには擦り傷ひとつ負わせるわけにはいかない、だなんてことは、常々気をつけていることだった。
サークル仲間たちみんなには遠野くんをはじめとした仲間たちが将来有望な水泳選手であることはあらかじめ伝えていたし、中にはこっそりと試合会場まで応援に来てくれた子もいるくらいだ。
「僕、郁弥から怒られるんじゃないかなって思っちゃって。日和をキズモノにするだなんてどういうことなの!? って」
ちっとも似ていない声真似ですこしふざけて答えれば、どこかしら複雑そうな遠慮がちな笑顔が、しずかにそれを受け止めてくれる。
「キズモノって」
堪えきれないようすでくすくす笑いながら答えてくれる姿に、やわらかに心をくすぐられるような不思議な心地を味わう。
「郁弥はそんな言い方しないよ。まあちょっとくらいは怒りそうな気はするけど」
「ごめんごめん。冗談だって言っても言い方があったよね」
「心配してくれたんでしょ、ありがとう」
すこし照れくさそうに笑いながら、やわらかにそっと瞼が細められる。ややオリーブグリーンがかった薄い色の瞳には不思議な静けさと穏やかさが満ちていて、いつ目にしても惹きつけられるような心地を味わう。
ああだめだ、また困らせることになっちゃうよね。ゆらり、と視線をそよがせるようにして、綺麗な指がそっと髪をかきあげる仕草をぼうっと眺める。
背の高さは同じくらいだけれど、掌はたぶんこちらのほうがすこし大きい。長くて綺麗な指に、丁寧な手入れが行き届いているのを感じさせる短く切り揃えられた爪。僕と違ってさっぱりと短めに整えられた髪はこっくりと深いチョコレートブラウン色だ。
遠野くんの髪はどんな感触なのかな。僕と違ってすこし硬いんだろうか。いつもプールに入っているから、シャンプーや整髪料に混じってわずかに塩素の匂いがするんだろうか。
プールサイドにいるみんなが手を差し伸べたり、勝負の結果に興奮して抱き合って讃えあう姿はなんども繰り返し客席から見てきたけれど、遠野くんの髪の毛をくしゃくしゃに掻き回す人はいるんだろうか――夏也先輩あたりならもしかしたら、とは思うけれど、だったらほかには?
――って、なんでこんなこと考えちゃってるんだろうな。気づかれたら困らせちゃうよね、きっと。俯きながらちいさく苦笑いをこぼして、不都合な感情を逃すようにする。
「……鴫野くん、」
いつ耳にしてもやわらかくて心地よい声が、するりと鼓膜をすり抜けて心までしずかに震わせてくれる。どこか頼りなげな、気遣うような声色。
ああ、ごめんね。心の中でだけそっとそう言い訳をして、取り繕うように笑いながら話を切り出す。
「あのね、遠野くん――話が変わるんだけどさ、ほら、さっき話してくれてた美術館のことなんだけど」
「あぁ、それなら」
やわらかに細められたまなざしに、ふわりと穏やかな色が光る。
気づかれないように、気づかれないように――不可思議なはやる気持ちを抑えつけるようにしながら、ちらちら、と視界の端でだけ、澄んだヘーゼルの瞳を盗み見るようにする。
このままでいい、いまはまだ――まだなにもはじまっていないのに、ひどく不確かなこの気持ちに名前をつけるだなんて、そんなこと。
ちいさく息をのむようにしながら、まだ差し伸ばすことなんてできない指先をしずかにぎゅうっと握りしめる。