repose「遠野くんあのね、ちょっと……いい?」
夕食の片づけを終えたタイミングを見計らうように、背中越しにつつ、と袖を引っ張られる。ふたりで過ごす時間にしばしば為される、すこし子どもじみて他愛もないスキンシップのひとつ――それでもその声色には、いつもとは異なったいびつな色が宿されている。
「うん、どうかした?」
努めて穏やかに。そう言い聞かせながら振り返れば、おおかた予想したとおりのどこかくぐもったくすんだ色を宿したまなざしがじいっとこちらを捉えてくれている。
「あのね、ちょっと遠野くんに話したいことがあって……落ち着いてからのほうがいいよなって思ってたから。それで」
もの言いたげに揺れるまなざしの奥で、こちらを映し出した影があわく滲む。いつもよりもほんの少し幼くて頼りなげで、それでいてひどく優しい――こうしてふたりだけで過ごす時間が増えてから初めて知ることになったその色に、もう何度目なのかわからないほどのやわらかにくすんだ感情をかき立てられる。
「……いいけど。立ち話もなんでしょう? 向こうでゆっくり話さない? コーヒーかなにか淹れようか? それからでもいいよね」
「ああ、おねがい」
答える代わりのようにパーカーの袖越しの肘をそっとさすれば、すこしだけ綻んだ笑顔はしずかにそれを受け止めてくれる。
「……それでなあに、話って」
ことり、と音を立ててローテーブルにカップを置きながら尋ねれば、強ばったようすをかくせないまなざしが、それでも、いつものようにじいっとまっすぐにこちらを捉えてくれる。
「ああ、それなんだけど――」
いびつに唇を震わせながら、すっかりおなじみのやわらかな口ぶりでの言葉が続く。
「ほら、少し前に遠野くんが話してくれたでしょう。これからのことで――どうしようかって。気になってたことがあってさ、その時のことで」
「あぁ、」
思わずほんのすこしだけ身を強ばらせるこちらを気遣うように、やわらかく笑いかけるようにしながら言葉は続く。
「あの時さ、遠野くんがちゃんと話してくれて、すごくうれしくって………遠野くんはなんにも悪くないんだよ。感謝してるし、すごくうれしかった、いまでもそう思ってるから。でもさ、後になって――すごくよくなかったって思うことがあって、僕が」
もどかしげに息を詰まらせるようにしながら、きっぱりと鴫野くんは答える。
「あの時さ、遠野くんが話そうとしてくれたことがあったでしょ。前につき合ってた人との間になにかあったって。言ったよね、『無理に答えなくっていいから』って。後になって思ったんだよね、なんていうかさ……遠野くんのため、みたいな言い方にしてたでしょ。それってずるかったよなって」
「そんなこと」
かぶせるように答えるこちらの言葉を覆うように、鈍いためらいの色を宿した言葉がすぐさま続く。
「……だってさ、ほんとのことだから。すごく良くなかったって思ってる。甘えてたよなって。無理に話そうとしてくれてるんじゃないかって思ったのは本当だよ。でもさ、それとおんなじだけ怖かったんだよね。どうしようもないことなのくらいわかってて、いまさら嫉妬したって仕方ないんだけど――聞きたくなかったから、僕が」
消え入りそうな脆さで告げられる言葉に、ぎゅうっと心の奥を締め付けられるような心地を味わう。
「……鴫野くん」
囁くように力なくそう呟けば、答えるかわりのように、あやうげに揺れるまなざしがじいっとこちらへと注がれる。
ほんとうにどうすればいいんだろう、こんな時は。言いしれようのないあまい息苦しさがじわじわと押し寄せてくるのを感じながら、ひとまずは、と深く息をのむ。
「あのね、鴫野くん」
わずかに震える掌に自らのそれをそうっと重ね合わせながら、きっぱりと答える。
「……ありがとう、気遣ってくれて。でもほんとうにいいよ、気にしてなんかないから。ほんとにさ、ただ僕が空回って無責任だったって、それだけだから。だからあの時――無理に話さなくたっていいって鴫野くんが言ってくれたのがすごく安心して、すごくうれしかった」
気恥ずかしさと息苦しさで、胸の奥がじわりと締め付けられる。どうしようもなくもどかしい、それなのに、すこしも嫌な気持ちになんてならない。
ずっと知らなかった、知らずにいるつもりだった――〝ほんとうのこと〟を伝えたいと思う時、こんなふうに心が震えるだなんてこと。
「鴫野くんはさ、ずっと前にも言ってくれたよね。僕がいいかげんな付き合い方しか出来てこなかったと思うって言った時――十代なんてそんなものだし、そもそも恋愛なんて痛み分けみたいなものなんだから、むやみに自分のことばっかり責める必要ないんじゃないのって」
「……あぁ、うん」
くすぶった色に染め上げられたまなざしでこちらを見つめながら、ぽつりとあたたかな吐息混じりの言葉がしずかに落とされる。
「ごめんね、なんか――えらそうだったよね、すごく」
「思わないで、そんなふうに」
ひどく遠慮がちに聞こえるそんな答えを翻したい一心で、きっぱりと僕は答える。
「すごくうれしかったから、あの時。鴫野くんのそういうまっすぐに人にも自分にも向き合えるところだとか、優しいところだとか――僕にはないものがいくつもあって、最初からずうっとそこに甘えてばっかりいるのが情けないな、だなんて思うことがいくつもあって――でも、だから」
大丈夫、すこしも恐れなくたっていい。だって鴫野くんはこんなにもまっすぐにこちらを見つめてくれているんだから。言い聞かせるような心地で、いびつに震えた言葉を紡ぐ。
「あのね、鴫野くん。……話してくれてありがとう、ちゃんと。いやだなんて思ってないよ、ちっとも。大事にしてくれてありがとう。すごく嬉しい。すごく好きだよ、鴫野くんこと」
返せるのかなんてすこしもわからないけれど、という言葉は心の奥にしずかに飲み込む。わかっているから、そのつもりがすこしもなくたって、いたずらに傷つけてしまう羽目になることくらいは。
「とお」
「貴澄、」
ひどく不慣れな響きでおそるおそると名前を呼べば、それだけで、見つめ合ったまなざしの奥にはぼんやりとくすぶったおだやかな熱がともる。
「好きだよ、ほんとうに」
信じてほしい、だなんて言葉で伝えるのは簡単なことだけれど。気持ちを届けられるようにと、まなざしと触れ合った指先に、満ちる思いを静かに託すように手を伸ばす。
いびつに震えた指先で、やわらかな髪をおそるおそるとなぞりあげる。ひどくくすぐったくて、おだやかで――それでいて、なによりも優しい。照れくさそうに瞼を細めてみせる姿をじいっと見つめながら、こめかみへとそっと、ふれるだけの口づけを落とす。
「ありがとう、話してくれて」
答える代わりのように、すこし火照ったまなざしがじいっとこちらへと注がれる。
満ち足りたあたたかな思いが、またこうしてふたりの間の空白を静かに埋め尽くしていく。