気付いたら背負い投げされてた審神者と肥前君の主肥刀剣男士は主を傷つけない。
刀剣男士は人間より強い。
けれども主には逆らわない。
逆らえないのではなく、逆らわない。
殺せないのではなく、殺さない。(主本人が命じればまた話は別だが、この本丸には関係のない話だ)
刀剣男士が本気になればただの人間である審神者は手も足も出ない。
押し倒すことも、肌に触れることも、それ以上をすることもできない。
刀剣男士はその力を行使して拒むことが出来る。
ほとんどの場合そうしないのは、主であるから、というのが大きい。
それほどまでに、刀剣男士にとっての”主”は深い意味を持っている。
つまり、肥前が審神者を背負い投げで襖に投げつけてしまったのは不幸な事故だった。
「ッ、あ……!」
やっちまった、と思う。いつも、思った時には手遅れだった。ただ、そのまま床に叩きつけそうになったところを、背負った時点でどうにか方向転換したので、それほど痛みを与える結果にはならなかったはずだ。ならなかったと思いたいが、審神者が吹っ飛んでいった先の襖は、当然その重みと勢いに耐えきれず審神者の体と一緒に廊下に倒れてしまったし、物音を聞き付けて数振りが「なんだなんだ」と駆けつけたので手遅れという事実は変わらなかった。
廊下にひっくりかえった審神者は目を丸くしていた。おまえがわるい、と肥前は思う。
何かと言うと構われるのも、頭を撫でられるのも肥前は落ち着かなくて、くすぐったいような、肌が粟立つような感覚と折り合いがつかずに乱暴な態度をとるにの、審神者は懲りずに度々肥前を呼んだり、構ったり、頭を撫でたりした。いい加減にしろという意思表示で伸びてくる手を振り払えば「つれないなあ」と笑いながら一旦は引くので、それで慣れていたはずだった。ただ今回は、審神者も悪いと思ったし、多分、タイミングも悪かった。審神者は少し、ほんの少しいつもよりしつこく肥前をからかって、構って、跳ねた髪をぐしゃぐしゃといつもより長く撫でたし、肥前は面倒な任務だとか空腹だとかが重なっていつもより少し、虫の居所が悪かった。だから、
『肥前? どうした? 大人しいね』
そう言って髪を撫でていた手が、そのままするりと顔に下り、への字にまがった肥前の唇をちょんと指先でつついた。反射的にびくりと肩が揺れ、思わず審神者を見上げた。
『ふ、顔はいつも通りか』
何がおかしいのか、審神者は笑って、優しく目を細める。どうしてか、かっと顔や、腹の奥が熱くなり―――
『い、っいい加減にしろ!』
思わず、触れている腕を掴み、背負い投げたというわけだった。
どうにか勢いを殺したとはいえ、人間の、主の体を投げ飛ばしてしまったという事実に変わりはないので、肥前は渋々審神者に近付き、未だひっくり返ったままの体に手を伸ばした。その場に駆け付けた初期刀の歌仙と、通りがかりらしい陸奥守は顔をふたりして顔を見合わせたが、審神者が肥前を構うのも、肥前がいつもそれを跳ね除けていたのもよく知るふたりでもあったので、『ついにやったか』みたいな顔をしていた。肥前にはそう見えた。
「……怪我は」
未だに驚いた表情のままだった審神者は、伸ばされた手を掴み、そろそろと立ち上がると「大丈夫だけど」と言いながらも首を傾げる。
「お前……今投げ飛ばした? 俺を?」
責める口調ではなかった。心底不思議そうに訊ねられて、肥前は謝るタイミングも、肯定するタイミングも逃して、ただ掴んだままの手に視線を落とすしかない。
「……おまえが、わるいだろ」
やっと絞り出した声は、自分でもわかるくらいに震えている。何の感情なのかはわからなかった。
「おれに、かまうから。おれみたいな、人斬りの刀……」
「あ、」
振り払うように手を離し、何か言いたげだった審神者を残してその場を立ち去る。顔も、腹の奥も、触れられた唇も痺れるように熱く感じた。あいつがわるい、と肥前はまだ思っている。刀剣男士が主である審神者を傷つけないからといって、誰にでもそうするように、きやすく優しく触れるからわるい。人斬りの刀である肥前は、それ以外の振舞い方をもうできないしするつもりもない。人の身を得てはいるものの、やることは変わらないと思っているのに、審神者の扱い方といったら、それはまるで。
***
「……可愛いものを可愛がるのって、そんなにわるいことかなあ」
取り残された審神者は、居合わせた歌仙と陸奥守の方を見て首を傾げる。
「あー……肥前のは、慣れちょらんきのう。勘弁しとうせ」
「慣れてないかあ……むつ、歌仙、ちょっとこっち来てみて」
「おん?」
「何だい」
手招きされ、陸奥守と歌仙が怪訝な顔で近寄れば、審神者はたまにそうするように、わしわしと柔らかな髪の二人の頭をかき混ぜるように撫でた。
「おお? なんじゃ急に、く、くすぐった、」
「こ、こら! ほどける……!」
陸奥守は笑いながら、歌仙は前髪を留めた紐がとれそうなのを気にしながらもそれぞれ身を捩ったが、ほとんど審神者にされるがままだ。ぶわ、と審神者にのみ可視化される花びらが舞い散り、視界を埋めた。一通りもみくちゃにしてから、ふう、と満足げに手を離す。「もうええがか?」とにこにこと笑っている陸奥守も、僅かに赤くなった顔を隠しながら「全く君という人は」と小声で文句を零す歌仙も、審神者には他の刀と同じように愛おしく大事な刀である。情をかける前から、彼らは審神者が主であるというだけで慕ってくれているし、より情を注げば注ぐだけ、どんな形であれ気持ちを返してくれた。滅多に言葉を交わしてくれない大俱利伽羅だって、言葉に出さないだけで、花びらは雄弁だ。
「……やっぱ、撫でるとみんな喜んでくれるよな」
喜んではいない、と歌仙が憮然とした表情で言うが、審神者には彼の周りで舞い散ることをやめない花びらたちがよく見えている。審神者が情をかけて、触れて、優しく言葉を交わして、喜ばないものはこの本丸にはいないのだ。一振りを除いては。
「ふふ、おもしろい刀!」
抑えきれない笑みが口角に浮かび、審神者は緩んだ頬を押さえようともしない。歌仙と陸奥守は再び顔を見合わせ、古くから本丸にある刀同士の気安さで目配せした。この場から立ち去って、逃げたつもりになっている刀が、きっとこれからしつこく構われることになるのだろうと想像しながらも、(しかし、主は楽しそうだし放っておくことにしよう)と決めた二人の穏やかな心中を、審神者も、逃げ出した肥前も当分知ることはないのだった。
おわり