初歩的なコミュニケーション エーベンホルツの背は針金を通されたかのように座面に対して垂直に伸びていた。唇は固く引き結ばれ、よせばいいのに瞼を閉じるから、耳の裏を擽る癖毛の柔らかな感触と、それを梳く指の温度を殊更に意識する羽目になる。肩には必要以上に力が入り、物音一つにさえ神経が過敏になり、やがて疲労から呼吸すら弱々しくなっていくのだろうと思われた。端的に言って緊張している。それはもう、筆舌に尽くしがたいほどに。
背凭れに自重を預ければ多少は楽になるのだろうが、それはただの板切れと化して用を成さぬ。「取って食いやしないよ」二本の角に絡まる髪を解いてやると、いっそ可哀想なぐらいに青年の煩悶が伝わってくるので、ドクターは哀れに思って一言断りを入れた。「嫌なら言ってくれ」強要するつもりは端から無く、用意した油の封を切らないままにこの青年に押し付けてしまうつもりだった。けれどもそうはならないことを薄々予感している。彼はただ、緊張しているだけだ。恐怖から身体を引き攣らせているわけではない。髪を梳くことを止めれば、事が終わるまで閉じたままかと思われた唇が僅かに開き、空気を吸い込んだ。
「決して、不快に思っているわけではない。貴殿の厚意に感謝している。だが……」
ドクターは辛抱強くその言葉の続きを待った。「だが、」エーベンホルツも、たった二文字の接続詞を復唱したところで時間稼ぎにすらならないことを十分に理解している。ヤギの耳が力なく項垂れた。
ウルティカの主はその名を冠する限り自身の髪を己の手で整えることすら許されなかったのである。その代わりとでも言うように、伯爵の容貌は調度品の如く磨き上げられていた。対して、ロドスに在籍するこの自称大学生の髪からはロドスの備品である安物の洗髪剤のにおいが香り、縒られた糸のような角には年齢相応の艶が煌めいてこそいるが細かな傷が見て取れる。この手入れをドクター自ら申し出たのでエーベンホルツの胸中は穏やかではない。彼に侍従のような真似をさせたくなかった。同時に、神経の通るキャプリニーの両角に彼が触れたら自分はいったいどうなってしまうのだろうと、卑しい欲望が息を吐く。アダクリスの尾比べは獣同士のマウントに似て、フェリーンの毛艶は時に社会的ステータスを表す。キャプリニーの角は誇りである。けれどもエーベンホルツはそのように教えを受けることなく育ったものだから、忌々しき血統を表すかのごとく捻じれ曲がった己の角を良く思うはずなどなかった。それをよりにもよってドクターに触れられるとなれば、皮肉は引っ込み自嘲の余裕すらない。言語野が労働を拒否している。これは頭痛のせいだろうか? この頭痛は、いったい何を由来とするものだろうか?
言葉を探しているうち、背後に立つ人の気配が消えていることにふと気付く。代わりに瞼の裏が随分暗くなっている。まさかと思い恐る恐る双眸に自由を言い渡すと、やはりと言うべきか、光を遮っていたのはドクターだった。彼はエーベンホルツの背後から目の前に、そして屈むようにして視線の高さを揃え、フェイスガード越しにじっとエーベンホルツを観察していたのだった。
「君には時間が必要だね」
「時間?」
「言葉とは理知の結晶だ。だが、理性的であるほど、感情に振り回されることを恥と感じ、内側を曝け出すことに抵抗を覚える。だから君は君の納得がいくまで、相応しい言葉を探し続ければ良い。しかし深く悩みすぎだ。もしかすると答えは君の中には無いのかもしれない。なら、私たちには対話の時間が必要だね」
「何を話すというんだ」
「君の顔に、山程聞きたいことがあるって書いてるよ」
ドクターは埃をかぶったスツール(これは彼の私室に滅多に来客のないことを意味する)を持ってきて、エーベンホルツの対面に座った。ドクターの掌からコートのポケットへ滑る香油の小瓶を一瞥し、瓶に施されたガラス細工からリターニア製のものだとアタリをつけると、ドクターが誘導するままに青年の唇はこの出処を問い質した。
「よりにもよって私にリターニアについてあれこれと聞くぐらいだ。貴殿は、こういったものには疎いと思っていた」
「勿論詳しくない。見ての通り私の頭に生えているのは髪と耳ぐらいなものだから、角の手入れなんてずぶの素人だ」
「ならばどこでそれを? その小瓶の意匠の出来からして、とても一般に流通しているものとは考えられない。貴族の好みそうなものだ」
「お気に召さなかった?」
「……このような嗜好品にまでいちいち文句をつけては、リターニアの『普通の大学生』らしくはないな」
まったく白々しい返答にドクターは喉奥で笑い声を噛み殺した。
「知り合いから融通してもらった。角の手入れと言っても種族毎に勝手は違うだろうから、君と同じキャプリニーのオペレーターにね。実地で使い方も教えてもらったんだよ」
実地。エーベンホルツはまたしても間抜けに単語の鸚鵡返しをする寸前で、なんとか言葉を飲み下した。繰り返すが、キャプリニーの角は誇りの象徴である。誇示のために角を美しく保つのであれば、これに触れられる相手は当然限られる。家族、恋人、親しい友、世話を受けるのが貴族であればそこに位の高い侍従が入るだろうか。許しを受けたことに、ドクターは気付いているのだろうか? 彼は能天気にも身振り手振りでレクチャーの内容を再現している。講習内容が他のキャプリニーのために活かされるなどとは小瓶の本来の持ち主だって考えもしなかっただろう。
「彼女、よく妹の角を手入れをしているからとても上手いんだ。私も居合わせたことがあるんだが、妹の方は見事に舟を漕いでいた。コツは教えてもらったし、最終的に合格も貰えたから、そう悪いことにはならないと思う」
エーベンホルツは小瓶の持ち主であろう女性に大変同情した。既に家族に引き合わせているとなれば、彼女の心はきっと固いはずだ。ドクターへ期待を込めて贈っただろう香油の使い道も、甲斐甲斐しく手解きしただろう手入れの方法も、全てを裏切る形で発揮されるのだから堪ったものではないだろう。
「ドクター」
「うん?」
エーベンホルツの全身に走っていた緊張はいつの間にか掻き消えていた。彼は目の前に座すドクターに、極々自然に触れていたのである。その両手を取るなり、エーベンホルツはきっぱりと言い放った。
「貴殿の無知を責めるつもりはない。私とて、その女性に面識がない以上は深く肩入れする義理もない。だがこの件に関しては、貴殿はその女性に対して態度を明らかにすべきだろう」
「はあ」
「貴殿はキャプリニーの角に触れる意味を重く受け止めるべきだ」
「それはもう、十分……」
「己が角に触れさせ、親族とも顔合わせとしたとなれば、貴殿は婚姻を申し込まれていると言っても過言ではない!」
ドクターはきょとんとして数度瞬きを繰り返した。それから逡巡するように伏し目がちになると、その場に沈黙が訪れる。絡め取られて不自由な両手はそのままに、ドクターの視線は彷徨うようにしてエーベンホルツの角へ向けられた。太いこよりのような角。一度は触れることを了承されたもの。
「『不快に思っているわけではない』……」
エーベンホルツはぎくりと体を固くした。この指摘が諸刃の剣だということは当然理解しているが、こうして再度確認されるとなると気恥ずかしさを覚えてしまう。そして、恥を味わう最中の目線を合わせる行為こそ、なにより一等の辱めだ。ドクターの瞳は決して嘲ることをしなかったが、だから余計に青年の劣等感を刺激した。同時に箍に入ったひびがとうとう決壊し、最早これ以上の恥などあるまいとして口走ったのである。
「不快に思う筈など無い。貴殿の申し出に私の心がどれほど躍ったか、私がこの日をどれほど楽しみにしていたか。しかし、この喜びはまったく私的なことなのだ。恐らく今後私は貴殿にも同じものを求めるだろう。ただの親切心で、興味本位で、私の身繕いを申し出たと言うのならそれでも良い。その延長にあるものをほんの少し想像するだけで構わない。故に、その女性が貴殿にとってただの友人であるのなら、私と向き合って欲しいと思う」
日に焼けることを知らぬ白い肌が色づくのを、頬の熱さで感じている。頭痛が酷くなると老いぼれが頭の中で青年を嘲笑する。けれどもエーベンホルツの意識はドクターへ向けて注がれていた。必死だった。
この熱を受けて、ドクターは繋がれた両手をむず痒そうに動かした。解けないと知ると溜息を吐く。それは決して嫌悪や呆れの色を含むものでなく、あまりにも裏表のない言葉に対する一種の感嘆のようでもあった。
「君は少々勘違いをしているようだ」
繋がれた手指の絡まりが強くなる。ドクターがきゅうと握りしめたからである。
「いくら私だって妙齢の女性に軽々と触れたりしないよ。あの日は練習台にカーネリアンのコレクションを出してもらったんだ。そりゃもう立派なヤギの頭蓋骨だった」
カーネリアンへ払った対価は彼女を大いに満足させた。この年若いキャプリニーの青年に対して、ドクターが内心彼をどのように思っているのか。ティーンでもあるまいし、いい年した大人が赤裸々に生身の感情を吐き出したところでみっともないだけだろうに。
けれどその予想に反して、カーネリアンはいたく機嫌を良くした。あれもこれもとドクターに様々な知識を吹き込むほどに。
「キャプリニーについても色々教えてもらったよ。角のせいで頭が凝るんだって? 耳の後ろと角の間を解すと良いって聞いたけど」
そしてカーネリアンは気に入った人物へ誠意を示すことを惜しまないために、あれやこれやを吹き込まれたという次第だ。
「ねえ、ところで。君に向き合うって件だけど――」
今更だと言えば機嫌を損ねてしまうだろうから、よくよく考えてみる。けれども結局、これ以上なくシンプルに言い表すとすれば、たった一言で十分だ。
お高くとまった理知の中に眠る、真っ白い言葉を選んでみる。いざ口にすると清々しいものだった。