特別なひとり雪が降り積る地面が踏み荒らされ、所々に血痕が飛び散る。
複数の悪魔によっての怒号が飛び交うそこは、最早魔界よりも地獄とも言えた。
「ハハハッ!!そこだ、やっちまえ!!」
「バカ野郎、狗からやれ!!」
「逃がすなー!!」
鋭い爪が相手を切り裂き、僅かに返り血を浴びる。
舌打ちをしながら口元の血を拭い、真鍮の瞳がイラつきで細められた。
数が増えすぎて、さすがに分が悪い。
(このままじゃただ消耗するだけか…仕方ない)
苦虫を噛み潰したような顔をした後、素早く地面を蹴る。
「─閣下、ご無礼を!」
「は─うおっ!?」
勢いを殺さぬまま主を抱えると、そのまま敵から離れていく。
何やら怒号が飛んで来るが、それに返す余裕などない。並の悪魔たちが人狼族の素早さに敵うはずもなく、一目散に走るとすぐに撒き、やがて先程の騒がしさが嘘のように静かな場所へ着いた。
陰にゆっくりと抱えていた主を下ろす。
「お身体の具合はどうですか、ヴァルバトーゼ様」
「…大事無い。だが助かった。礼を言う、フェンリッヒ」
目の前で傅くフェンリッヒに座ったままそう告げる、ヴァルバトーゼの顔色は悪い。
血を吸わなくなり、魔力を失いつつある今は、ただ衰弱の一途を辿るばかり。
かつての栄光は影も見ず、ただ辛そうな主をフェンリッヒは守りながら見ているだけしか出来なかった。
そしてどこから噂が出回ったか、ヴァルバトーゼが力を失いつつあることをほかの悪魔たちが知っていた。
死なせる訳にはいかない。だが自分ひとりでは守るのにも限界がある。
度重なる悪魔の襲撃に、ふたりとも限界を迎えようとしていた。
「全く…とんだ人気者だな、暴君の名は」
「ええ、その通りですね。どこに行っても囲まれています」
自嘲気味に笑いながら言うヴァルバトーゼに、フェンリッヒは真顔で返す。
立ち上がろうとしたヴァルバトーゼだが、そのまま前に倒れかけた所を、咄嗟にフェンリッヒが支える。
「…あまり、ご無理をなさらないでください」
「……ッ」
歯痒い。顔を顰める主に、何も言葉をかけられずに立ち上がる。
「…少し、周囲を確認して参ります」
恭しく礼だけをし、そのまま踵を返す。
上層区はそもそもの悪魔の数もそこまで多くないので、まだ静かな方だ。
だが、だからこそ一度見つかってしまえば厄介だ。
(…下へ、逃げるしかないのか)
ギリ、とグローブが握り込まれる。
下へ行けば行くほど悪魔のレベルは下がる。だが同時に、掃き溜めに近い場所になってしまう。そんな場所の空気を、あの主に吸わせることが苦痛でならなかったのだ。
その時、風向きが変わる。風に乗ってやって来たのは、悪魔の声。複数だ。
(これ、は…もしかして、閣下に気付いて…ッ!!)
瞬時に足が動き、冷や汗が飛んでいく。
間に合え、フェンリッヒの頭の中にはその一言しかなかった。
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「……」
「おいおい、ご自慢の番犬はどうした?」
「一緒にいないと、俺らみたいな悪魔に喰われちまうぜ?」
「下卑た笑いだ。好かんな」
「ああ?テメェ、立場ってモンがわかってねぇな?」
「今なら、土下座すれば許してやらんでもないぜ?偉そうにしてすみません、ってな」
プライドも何も無い、弱い人間たちと同じような煽り。
焦りも何も無く、ヴァルバトーゼは毅然とした態度で悪魔たちを見据える。
「笑わせるな。キサマら如きに下げる頭など持っておらぬ。それに、悪魔たるもの、おいそれと頭を下げる訳なかろう?」
「っの…調子に乗ってんじゃねぇ!!」
殴りかかって来たその動きを躱して、腹を蹴り込む。軽く吹っ飛んだ悪魔は、後ろにいた仲間たちに受け止められる。
その間に、ヴァルバトーゼの手に闇が集まり、それが剣の形になる。
「確かに、俺にはもう前のような力はない。だが、それでもキサマらのような下衆にやる首などない。来るなら来い。俺は逃げも隠れもせんぞッ!!」
「くっ…コソコソしてた奴が抜かしてんじゃねぇ!!覚悟しろ!!」
徒党を組んで向かってきたが、所詮は寄せ集めで、全員で仕留めようという気がなく、我先にと武器を向けてくる。
纏まりのない武器に、力などない。
(これ以上長引いては、少しキツいな…そろそろ決めなければ──)
思考をそちらにやったからなのか、一瞬の隙の後に気付く。伏兵がいた。
(後ろに…!?しまっ──)
「──ヴァル様ッ!!!」
ドンッ!!と地面に力が叩きつけられ、敵たちが軽く吹き飛んだ。
いつも余裕にふわふわと揺れる銀糸の髪は、あちこちに張り付いている。
「ヴァル様…!お怪我はっ、ございませんか!?」
「あ、ああ…大事無い」
「良かった…」
息が荒いまま、フェンリッヒは答えを聞いて安堵の息を吐く。
まだ知り合って日は浅いが、他人のためにここまで必死になるような男ではないというイメージだったヴァルバトーゼは、フェンリッヒの行動に目を丸くすることしか出来なかった。
「犬が戻って来やがった…!」
「キサマら……全員、楽に死ねると思うなよ…!」
「まぁ、そう凄むな。俺の分も残してくれねば困るぞ」
「…かしこまりました。では、お手伝いさせて頂きます」
「うむ。背中は任せたぞ、フェンリッヒ」
「はい。恐れ多いですが」
甲高い声を上げ、蝙蝠が暴君の周囲を飛び回る。ザワザワとマントが広がり、髪に隠された瞳が光る。前ほどの魔力は無くとも、そこに確かにいる“暴君”に、悪魔たちに畏怖の感情が湧き上がった。
「どうした?怖くて動けぬか」
「バカにしやがって…!やっちまえッ!!」
「ククッ…ああ、そうだ!ぶつかって来るがいいッ!!」
(このお方は、全く。……まあ、いい。出来うる限りセーブ出来るように立ち回らねば)
かつて魔界に名を轟かせたふたりの前に、悪魔たちは倒されて行く。
終わって静かになり、フェンリッヒは血に濡れたグローブを脱ぎ捨てると、新しいものを出して嵌めた。
「助かったぞ、フェンリッヒ」
「とんでもありません」
剣を振り、血を飛ばすと闇に溶けていく。
ヴァルバトーゼは、どこかご機嫌に見えた。
「…ご機嫌なようですね、閣下」
「む?そうか?だが、他人にあのような呼び方をされたのは初めてだからな、それのせいかも知れんな」
「呼び方…?」
フェンリッヒが、少しばかり記憶を戻す。
呼び方と言えば、先程自分がした呼び名は。
気付いた瞬間、顔が青みを帯びていく。
「も、申し訳ございません…!主をあのような呼び方など…!!」
「俺は怒ってなどおらんぞ。それに知っている、あれが人間が使う“愛称”というものだろう?」
「…はい?」
「人間は“絆”を築いた相手のことを、名前とは違う呼び方をするらしい。それをしたということは、お前との“絆”がより深まった証拠ではないか」
本当に満足そうに頷きながら、ヴァルバトーゼが続ける。
「お許し、頂けると…?」
「当たり前だ。だが、誰にでも許すのも違うか…?まぁ良い。お前だけはそれを許す。初めて呼んだのはお前ということもあるがな」
「ありがとうございます、─ヴァル様」
「うむ。…ところで、少し疲れたな」
「ご無理をなさるからですよ…」
「そう言うな。手加減をしてはいかんだろう、暴と暴をぶつけ合えぬではないか」
約束を守ること。
暴と暴をぶつけ合ってこそ、という美学。
“絆”を知り、築くこと。
それが、ヴァルバトーゼが譲れないことの全て。
フェンリッヒも、共に在るのならば、それらに慣れていかねばならない。
「…よし、下層の方へ向かうぞ」
「なっ…下は掃き溜めのような場所ですよ!?そこに主を向かわせるなど…」
「そのような我儘を言っていられる状況でもなかろう。こんなに襲撃されてはかなわん。それに─お前と在るならば、きっとどこでも面白かろうと思ったが…お前は違うか?」
フッ、と目を細めて笑う姿は、「そうだろう?」と言っているも同じ。
その顔に、フェンリッヒは若干呆れたような、だが嬉しそうな笑みを返す。
「いいえ。わたくしも同じ意見ですよ。貴方とならば──退屈しない」
「ならば良いではないか。行ける所まで行ってみるぞ」
「はっ。すべては、我が主のために…」
月明かりに照らされる銀世界に別れを告げるべく、マントを翻して歩く主の後ろに続く。
「…だが、少し離れたら一度休むか」
「フフ、お好きなように」
まだ彼らの、足跡を刻む放浪は、始まったばかりだ。