主様の悪癖 入浴を終えて別邸に戻ろうとしていたユーハンは、玄関にうつ伏せで倒れている主人を見つめて目を剥いた。
「主様!!」
大音声で呼ばわって、傍に駆けつける。頭を揺らさぬようにとそれだけは十二分に気をつけて、ぐったりとした体を抱き起こした。
「主様、主様……!」
肩を叩いて呼びかけるが、反応はない。見たところ外傷は無さそうだが、主人の身になにがあったのか――ケガなのか病なのかそれとも他のなにかなのかは、医者ではないユーハンには判断がつかなかった。
「ルカスさん……ルカスさんをお呼びしないと……」
ああ、けれどユーハンが傍を離れた途端に状態が悪化して、主人が帰らぬ人となってしまったら。
その可能性に思い至ってしまったユーハンは、その場に凍りついたように動けなくなった。
「ユーハン、どうした!?」
「主様になんかあったのか!?」
「バスティンさん……ロノさん……主様が……!」
ユーハンの必死な声が聞こえたのだろう。一階の執事室で生活している二人が駆けつけてくれた。敬愛する主人を喪うのではないかという恐怖と、頼もしい仲間が来てくれたことへの安堵で、ユーハンの心はぐちゃぐちゃだ。
ともかく、二人ならすぐさま医療係のルカスを連れてきてくれるだろう。ユーハンがそう考えたのとは裏腹に、ロノとバスティンは微妙な顔つきになった。ユーハンがどうかしたのかと訊ねるより早く、バスティンが静かな声で言う。
「ユーハン、落ち着いて聞いてくれ。主様はたぶん、寝ているだけだ」
「…………えっ」
「ユーハンたちが来てから主様がこうなるの、初めてだもんな。いや〜、オレも初めて主様のこれに出くわしたときは、マジでめちゃくちゃ焦ったぜ」
寝ているだけ。
事態を上手く飲み込めないユーハンは、改めて仰向けにした主人の顔を観察した。苦しそうな様子はなく、呼吸は安定している。起こしてそのまま抱えていた体は温かい。生きているものの温度だった。
「……ねているだけ…………」
「そうだ。だからユーハンは、主様を寝室へお連れしてくれ。俺はルカスさんを呼んでくる」
バスティンは軽やかに階段を駆け上がっていく。その背を見送りながら、ユーハンはまた不安がぶり返してきてしまって、ロノを見上げた。
「寝ているだけなのではないのですか?」
「たぶん間違いなくそうだと思うけど、一応ルカスさんに診てもらうことになってんだ。万が一があったら大変だし、こればっかりは、オレたちじゃわからないからな〜」
「そう……そう、ですね」
とにかく主人を寝室へ運ぼうとロノに促され、ユーハンはその体を抱き上げた。ここまでされれば目を覚ましそうなものだが、主人が目覚める気配はない。よほど深く寝入っているらしい。
ユーハンたちが主人の部屋へ到着したころ、ちょうどバスティンもルカスを伴い戻ってきた。ユーハンが抱いていた体をベッドへ寝かせるなり、すぐに診察が始まる。脈を取り、ほかにもいくつか調べると、ルカスは「寝ているだけだね」と断言した。
「ごめんね。ここしばらく主様のこれを見なかったから、ユーハンくんたちに共有しておくのを忘れてしまっていたんだ。驚いたよね」
苦笑しながら、ルカスはユーハンの知らない主人のことを語った。
曰く、主人はその日の天候や体調によって、強い眠気を感じることがあるらしい。なんとか自宅に帰り、パレスへ来てはくれるものの、そういうときは大抵、寝室までたどり着かずに寝落ちてしまうのだとか。
「私たちも、最初のころは毎回狼狽えていたなあ。今ではだいぶ慣れたけれど、やっぱり倒れて意識のない主様を見ると、心配でドキッとしてしまうね」
寝ているだけだとわかった今でも、こうなった主人を寝室へ運んだあとは、必ずルカスが診察しているという。万が一ということはありうるし、備えておくに越したことはない。
「それじゃあ、私たちはこれで失礼するけど、ユーハンくんは念のため、主様の傍についていてくれるかい? もしなにかあれば、ベルを鳴らしてくれれば駆けつけるからね」
「かしこまりました」
ユーハンが了承を返すと、三人は退室していった。一気に静まり返った部屋に、健やかな寝息だけが微かに響く。
これがルカスの気遣いであることに、ユーハンは気づいていた。医者であるルカスが、寝ているだけだと断じたのだ。それならば看病のための付き添いは必要ないだろうし、目を覚ました主人が世話を必要とした場合に備えるにしても、裏庭の別邸で暮らすユーハンが残る必要はないのだ。二階の執事室には、優秀な執事が四人もいるのだから。
深くため息を落としたユーハンは、枕元に椅子を置いて、そこに腰かけた。僅かな変化さえ見逃すものかと、つぶさに寝顔を見つめながら、いつかとは立場が逆になったなと独り言ちる。
人喰い虎のいる竹林に放逐され、惨たらしい死を迎えるはずだったところを救いだされた後のことだ。それまでの極限状態が祟って倒れたユーハンを、主人はつきっきりで看病してくれたという。
「……主様」
落ちた呟きは、聞くに絶えない情けない声をしていた。命を救われたあの日から、主人はユーハンの全てだ。もしも喪うようなことがあれば、とても正気ではいられないだろう。
震える両手で、ユーハンは主人の手を握りしめた。祈るように額を押しあてる。許可なく触れるなど執事としてあるまじき振舞いだとわかってはいたが、こうして彼女が確かに生きているという実感を得ていなければ、とてもこの夜を耐えられそうになかった。
天候や体調によって、とルカスは言っていたが、ベッドまでたどり着かずに寝落ちてしまうのは、日々の蓄積した疲労も無関係ではないだろう。ゆっくり眠って、疲れを癒してほしい。執事としてそう思う一方で、彼女を慕う一人の人間としてのユーハンは、早く目覚めて名前を呼んでほしいと願ってしまうのだった。
(蛇足)
「んん……ん?」
「主様、お目覚めになられましたか?」
「ユーハン! えっごめん、もしかしてついててくれたの?」
「はい。その……寝ているだけだとルカスさんからお聞きしたのですが、どうしても主様が心配で……」
「うっわ……本当にごめん……心配かけて申し訳ない……」
「謝らないでください。私が勝手に心配しているだけなのですから」
「それは、そうかもしれないけどさ……えーと、じゃあ、ありがとう、かな」
「……はい」
「廊下で寝落ちるとパレスのみんながめちゃくちゃ心配するから、気をつけてはいたんだけど。ちょっといろいろ重なっちゃって、耐えられなかったんだよねえ……」
「そうだったのですね。本当にお疲れ様でございました。あの……こういったことは、向こうの世界でもあるのですか?」
「いやいや、向こうではちゃんと、ベッドまで自力でたどり着くよ。ただ、ほら……向こうの自宅はワンルームのアパートだから、玄関からベッドまでは大した距離じゃないけど、このパレスは広いからさ……」