そんな"いつか"が来ませんように 仲間たちに囲まれ、盛大に祝われているボスキの姿を眺めながら、女はふと顔を曇らせた。
祝いの席にはふさわしくない表情であることも、気づいた執事たちが心配することもわかっている。けれどどうしても、わき上がる不安を心の中に留めておけなかった。
考えていたのは、今日の主役であるボスキのことだ。
パーティーが始まる前のこと。彼女はボスキと二人で話をする時間を得た。その場で用意していたプレゼントを渡し、話の流れで、彼の髪のセットを手伝うことになった。
ボスキの過去の話を聞くこともできて、とても有意義な時間だったのだが……ボスキという男の本質をまた一つ知った分、考えずにいられないことがあった。
ボスキ・アリーナスというひとは、それが自分に唯一できることで、かつ大切なひとのためになるとわかれば、相手を悲しませることになるとわかっていても、実行に移してしまう。そういう意志の強さがある。
だから――もしも女を守るための方法がたった一つしかないとなれば、たとえそれが自分を犠牲にする方法だったとしても、ボスキは躊躇うことなくその道を選ぶだろう。
思い至って、女はぞっとした。誰かを犠牲にしてまで生きていたくなどない。ましてやボスキは、彼女の大切な執事の一人だ。
執事たちに悲しい選択をさせずに済むよう、十分に気をつけているつもりだが、この世に絶対はない。まして、この世界は天使という脅威にさらされている。天使と戦う彼らの力を解放する関係上、女もまた安全地帯に隠れているわけにはいかなかった。
「主様?」
呼びかけられて、女はいつしか俯いていた顔を上げた。目の前にいたのはボスキだった。パーティーの主役だというのに、輪を抜け出して来てくれたらしい。
「どうした、気分でも悪いのか? そんなに飲んでるようには見えなかったが……」
その言葉に、女は軽く目を見開いた。ボスキを祝うためのパーティーだというのに、彼はいつものように彼女の様子を気にしてくれていたらしい。
「気分は、大丈夫。ボスキの言うとおり、そんなに飲んでないし。ただ……」
まさか、ボスキが自分を犠牲にする可能性について考えていた、などとありのままを答えることもできず、言葉を濁す。はっきりしない態度の女に、ボスキは眉を寄せた。
「ただ? なんだよ」
「なんて言ったらいいのか……まだ考えがまとまってなくて」
「そう、か……」
言語化が難しいことを伝えれば、それ以上の追及はない。新緑の隻眼に、心配を滲ませるばかりだ。
「ごめんね。せっかくのお祝いの席なのに、暗い顔しちゃって……これじゃあボスキだって楽しめないよね」
申し訳ない気持ちで無理やりに口角を上げると、ボスキはムッとした表情になる。義手でないほうの手が伸びてきて、むにむにと女の頬を引っぱった。
「俺の前で表情を偽るんじゃねえ。無理して笑われるほうが、よっぽど腹が立つ」
「え……ごめん……」
「まあ一番むかつくのは、あんたにそんな顔をさせてる原因だけどな」
忌々しいとばかりに舌打ちする姿に、女は苦笑を禁じ得ない。その原因がボスキであることは、彼には黙っておこうと思った。
◇
三百年ぶりの誕生日は、想像以上にいいものだった。
祝いの言葉にプレゼント。好物の肉料理と美味い酒がテーブルに並ぶパーティー。中でも一番嬉しかったのは、やはり主人が祝ってくれたことだ。
その彼女は、パーティーの途中からなにやら憂い顔をしていた。なにをそんなに悩んでいるのやら。訊ねてみたが、うまく言葉にできないとはぐらかされてしまった。
無理して笑わなくていいと言ったのは本心からだったが、それはそれとして、やっぱり面白くはない。その悩みとやらは、俺の誕生日より大事なことなのか。思ったものの、執事として許される範囲を明らかに超えているから、伝えることはしなかった。
「着いたぞ、主様」
「うん…………」
だいぶ酒が回っているのか、単に眠いだけか、主人はずいぶんぽやぽやした様子だ。ボスキのエスコートで自室のソファに腰を下ろすと、彼女は盛大に欠伸をした。
「大丈夫かよ……着替えの手伝いにフルーレを呼ぶか?」
いつもなら、部屋まで送り届けてすぐ退室するのだが。この調子では、彼女はソファに座ったまま寝落ちしてしまいそうだ。
心配するボスキを尻目に、主人はとろんとした目をぱしぱしと瞬く。そしておもむろに腕を伸ばすと、ボスキの衣装の袖を引いた。
「ねえ、ボスキ」
「ん? どうした?」
見上げる首が辛そうで、ボスキはソファのそばに膝をついた。そうすると、今度は彼のほうが見上げる側になる。
ボスキは執事たちの中では比較的小柄なほうだが、それでも女性である主人よりは幾分か背が高い。こうして見上げるアングルは新鮮だ。
「あのね……私はみんなの主様だけどね、命令とかは、あんまりしたくないなって思ってるんだよ」
「ああ、知ってるよ。あんたはそういうひとだよな」
脈絡のない話題に、ボスキは首肯を返しながら苦笑を浮かべた。どうやら主人はそれなりに酔っているらしい。
「だから……だからね。もし私が、これは命令だよ!って言うことがあったとしたら……それは、どうしても絶対に叶えてほしいことだからね」
ボスキを見下ろす瞳は、相変わらず眠たげだ。けれどそこに宿った光はひどく真剣みを帯びている。
彼女は今、なにかとても大切なことを伝えようとしている。そう感じて、ボスキは居住まいを正した。
「それだけは……覚えておいてほしい」
「わかった。しっかり覚えておく。あんたが命令なんて言葉を使うのは、よっぽどのことだってな」
「うん……お願いね、絶対ね」
「ああ、絶対だ」
しつこく念を押す主人を安心させてやりたくて、ボスキは左の小指を差し出した。彼女は自分の小指を絡めて「指切りげんまん」と上機嫌で歌い出す。
「嘘ついたら」のところでフレーズがしばし止まって、「ボスキの夕ご飯だけ一週間お肉なし」と続いた。仮初でも「針千本飲ます」とは言えない優しさを愛おしく思えばいいのか、一週間肉なしというボスキが一番堪える罰を考える厳しさ慄けばいいのか、難しいところだ。
最後の「指切った」は、発音がだいぶ怪しかった。絡めた指が解けると、主人は力尽きたように眠りへ落ちてしまった。
「……ったく」
笑みを含んだ嘆息を零すと、ボスキは意識のない体をそっと抱き上げた。ベッドに運んで、布団をかけてやる。結われたままの髪を解いて指を通すと、ほのかに甘い香りがした。
「おやすみ、主様」
今日という日の終わりにもう一つ、特別なプレゼントをもらったなと、暢気に考えているボスキは知らない。
その約束が、女の考えた"いざというときにボスキを守る方法"であったことを。