「そういやドクター知ってます? そこの廊下に幽霊出るの」
「なにそれ怖い」
事務オペレーターたちによるドクターの出張土産を囲んでのささやかなティータイムのさなかにいきなり落とされた爆弾に、ドクターは思わず焼き菓子の包み紙をはがすのを中断して顔を上げた。
「有名ですよね、地下一階の背の高い幽霊」
「廊下の真ん中で黙って立ってるだけで、追いかけたりはしてこない無害なタイプらしいですよ」
「いやいや、十分怖いよ。ていうか初耳なんだけど」
確かに誰も使ってない区画だとは思ったけれど、まさかいわくつきだったとは。わいわいと盛り上がっているところを見るに、艦内ではそれなりに有名な話だったらしい。
「夜中ここ歩いてるとすれ違って、でも振り向いたら誰もいないっていう典型的なお化けで」
「うーん、ファントム?」
「ファントムさんがうちに来たの最近じゃないですか、もっと前からですねー。ドクターが来るちょっと前くらいから?」
多分、そのあたり、と頷きながらも、お土産の菓子は瞬く間に彼らの胃袋へと消えていく。事務作業にはカロリーが必要なのだ、特にドクターの補佐という激務を担うオペレーターたちには。その様子をコーヒーカップに口を付けながら眺めていたドクターは、思いつくままに近しい能力を持つ者の名前を言ってみる。
「姿を消すというとMiseryもか」
「Miseryさんなら挨拶したら返してくれるじゃないですか。あの幽霊、無反応っていうかただ歩いてるだけらしいんですよね」
神出鬼没で鳴らす長身のエリートオペレーターの名前を挙げてみるも、あっさりと否定されてしまった。本来ならば不審者の可能性もあるため警戒しなければならないのだが、彼らの反応を見るに無害な怪異であるらしい。
「それって最近も?」
「食堂で、先週見たって話してるの聞きましたから、まだ出るんじゃないですかね」
「えー怖い。ドクター、今日早く上がっていいですか?」
「そんなの聞いたら私だって早く帰りたいんだけど」
「でも実際怖い話が多いのって医療部区画のほうですよね、これは同期が彼女さんから聞いたっていう話なんですけど――」
なんて話を聞いてしまったので一応呪術の専門家に用事のついでに話を振ってみたところ、Logosは白皙の美貌をほんのわずかに歪めて、けれどもきっぱりと言い切ってくれた。
「あれが『ドクター』に害をなすことだけは天と地が逆さになろうともありえない。気にせずともよい」
てことは本当にいるんだな、とがっくり肩を落としたのだが、当然のことだろう。誰が自分の仕事場のすぐ近くがホラースポットだと聞いて諸手を挙げて歓迎できるというんだ。
「気休めでいいからお守りとかもらえないか?」
「必要ないと言っておる。そら、終わったのならばとっととうぬ自身の仕事に戻るがいい」
とあっさりつまみ出されてしまったので、無力な指揮官としてはトボトボとその噂の廊下を通って執務室へと戻るしかないのだった。
そんなこともあったなぁと思い出したのは、深夜に缶コーヒーを手に執務室に戻っているときだった。終わらない仕事に今日も朝までコースかなと覚悟を決めて、フロアの端にあるやたらと栄養ドリンクとコーヒーの種類が充実している自販機から帰ってくるところだった。廊下の灯りはとうに落とされ、ドクターの執務室の窓と非常灯だけが細々と人の営みを語る、静かな夜だった。ロドス号のエンジン音が低くドクターの足元を揺らす中、ドクターはふと執務室の前に誰かの影があることに気がつき、足を止めた。
「?」
ちょうど影になってしまっているので、その人物の顔はよくわからなかった。長身で目深に帽子をかぶっていて、頭上に二本ある角のうち片方が途中から失われている。ロドス支給の戦闘服を来ているから、誰か任務帰りのオペレーターなのだろう。こんな遅い時間にご苦労様なことだ、と目元を緩ませたドクターは、執務室の入り口のすぐそばから動こうとしないその人影にのんびりと声をかけた。
「お疲れ様、報告なら中で聞くが」
その途端、長身の人影はびくりと飛び上がるように顔を上げ、ドクターのほうへと振り返った。いきなり声をかけたのはまずかっただろうか。戦闘オペレーターたちの中には立ったまま眠る特技を持つ人物もいるから、ひょっとしたら彼もその妙技を披露してくれているさなかであったのかもしれない。悪いことをした、でも目の前にいるのに無視をするのもいかがなものかと思うので、驚愕の表情を隠しもせずにこちらを凝視する彼に、にこりと微笑む。
「こんな時間だ、今日はあいにくと豆を切らしてしまってこの缶コーヒーくらいしかないんだが、まあ入ってくれ」
「ああ、いや。いいんだ」
どこか深く、深く噛み締めるような声音だった。目の前の男から発せられているというのに、遥か遠くから響いているようにも聞こえる。その声には確かに聞き覚えがあるはずなのに、脳に靄がかかったかのようにその名前が思い出せない。
「顔が見たかっただけなんだ、もう遅い時間だから出直すことにするよ」
「そうか」
なんと律儀な男だろうか! だがそうだった。『自分』はいつだって彼の情深い気遣いに助けられていて――
(…………?)
ぐらりと視界が歪む。本日は少しばかり働きすぎてしまったのかもしれない。目の前の彼もこう言っていることだし、私も業務の続きへと戻るべきなのだ。
「では報告書は明日受け取ることにしよう。何はともあれ、無事に戻って来てくれてありがとう」
「ああ。……あなたも、身体には気を付けて」
それが、彼と交わした最後の言葉だった。医療部に怒られたばかりの身には耳に痛い言葉だったが、彼の眼差しに根負けして小さく頷く。そうして足を踏み入れた執務室の明かりの眩しさはドクターの目を焼き、自身が今までどれほど暗い場所にいたのかを思い知らされた。だが瞼を下ろしたままでは前に進むこともできない。どうしてだか涙のにじむ目元を拭いながら――おそらく長らく廊下にいた目には室内灯ですら眩しすぎたのだろう――ドクターはゆっくりと自身のデスクへと歩みを進めたのだった。
帰艦手続きをようやく終え、Scoutは重い身体を引きずりながらロドス・アイランド号の暗い通路を歩いていた。時刻はとうに夜半を過ぎ、いつもは多くの人が行き交う主要通路でさえ自身の泥中を這うような足音が響くばかり。それでも染み付いた習い性というのは思考よりも先に手足を動かし、Scout自身の身体をただ一つの目的地へと引きずって行った。
(報告に、行かなければ)
今にも倒れ込みそうな身体を叱咤して、ただただ足を動かす。こんな時間になってしまったが、あの人はまだ執務室にいるだろうか。あの人の作業場所が粗末なテントであったときから、彼はいつ訪うても背筋を伸ばした姿でScoutを迎え入れてくれた。いつ寝ているのかが不安になって尋ねたことさえある。必要な睡眠時間が常人よりも短いのだと便利な機械を紹介するかのようにあっさりと答えられたときには少し羨ましくも感じたものだが、思えばあの時から不安の種はすでに芽吹いていたのだろう。光量を絞ったランプに、そして室内灯の明かりに照らされた顔が呼びかけに振り向いた瞬間、ほんのわずか緩むさまを見るのがScoutは好きだった。そのほどかれた眉根を見るだけで重い疲労すら心地よいものに変わっていく。そう、ただ顔を見るだけでいいのだ。もしも不在であっても、つまりは彼が休めているということなのでそれはそれで素晴らしい事実だ。だからScoutは歩いた。泥濘の中を進むような足取りであったが、心だけは浮き立っていた。歩いて、歩いて、そしてようやく顔を上げたときに――――彼は自身が真っ暗な通路の真ん中で立ちすくんでいることに気が付いたのだった。
その場所は非常灯すらついていなかった。当然だろう、電力も十分に供給がないこの艦内において、誰が使われなくなって久しい区画に明かりをともすというのだ。かつては煌々と輝いていた電灯はとうの昔に外され、昼夜問わず人通りが絶えなかった廊下はただエンジンの低い唸り声が轟くばかり。フロアの端にある喫煙室ですら閉鎖されて長く経ってしまっているというのに、いったい自分は何をしているのだろう。理解したくなかった。彼が、もうとっくにここにはいない存在だなんて。
顔が、見られればそれでよかったのだ。ただそれだけのことが、こんなにも遠い。口の中が渇く。ようやく自覚した呼吸の荒さにスカーフを押し下げぜいぜいと咳き込む。倒れ込みそうになる身体を意志だけで支えながら、Scoutはそれでも暗闇の中で目を見開いていた。そこにもう彼がいないと分かっていても、Scoutにできることはそれだけしかなかったのだ。
やがて、棒のように動かない手足を引きずりながら、Scoutはゆっくりと歩き出した。思い出に沈むのは苦しくはあったが、まだ自身が彼のことを覚えていることに安堵もした。まだ忘れていない、まだ彼の残してくれたものはたくさんある。自分にもまだやれることがあるのだから、ここで立ち止まっているわけにはいかないのだ。だが、これからもまた幾度となくここへ来てしまうのだろうなと、Scoutは自分の弱さに苦笑をこぼした。そんな些細なことであっても、彼を思い出せるというのは嬉しいことだった。
暗闇の中を引き返しながら、Scoutはもう一度だけ闇の中に眠るかつて執務室だった場所を振り返り、そしてゆっくりと歩いて行った。