罪の終わり、贖いの果て(3) いつからだろう。カイムがわたしを睨まなくなったのは。見上げると、憎悪に濁る瞳ではなく、静かに透き通った眼差しが返ってくるようになったのは。いつからだったろう。
いつからだろう。わたしがカイムから逃げなくなったのは。離れたら自分から駆け寄って、外套(マント)の裾を摘んでは、手を握られて安堵するようになったのは。
吹き荒ぶ灰色の雪の中。ふたり、身を寄せ合って歩いたのは。
どうして、だったのだろう。
* * *
静寂がマナの心中に張り詰めていた。水面の薄ら氷のように決壊するのを予感しながら、何もできないまま。マナは己の中に言葉が響くのを聞いていた。
『カイムとの旅は、辛いものでした。帝国軍が壊した世界を見せつけられて、おまえの罪を忘れるなと罵られ続けた……
そんな顔をしないで、ノウェ。カイムの憎しみは正当で、あれは必要な旅でした。あの日々があるからこそ、わたしは逃げずに己の罪と向き合えているんです』
嘘ではない。だが、カイムに引きずられ、己の罪を思い知らされる日々は、季節が二周巡った頃から、色を変え始めた。
各地の復興が進み、野犬のような眼でうろつく子どもや、骨と皮だけになった物乞いは数を減らしていった。放置されていた瓦礫が撤去され、市場が並ぶようになり、笑いさざめく人々が増えていった。
いや。カイムがそういった場所を選んでいたから、というのもあるかもしれない。いつからかはわからないが、カイムは、マナが落ち着いて暮らせる土地を探していた。
ドラゴンとの契約で声を失ったカイムは、肉声だけでなく思念でさえ想いを言葉にすることができない。
仕草や視線で、マナへの憎しみは十二分に伝わる。だが、神から読心の力を授かったマナは、その奥に潜む声にならないカイムの想いを聞き取っていた。
失った故郷への哀惜。自分を置いて死んだ妹への怨み。自分を裏切った親友への怒り。彼らの想いに気づかず、守れなかった罪悪感。怒り。悲しみ。愛。
覚えている。夜、ふと目を覚ますと、カイムが夜空を見上げて目を細めていたこと。
そんなときには必ず、聞こえてくる思念があった。封印の女神――赤き竜からの、睦言。
己の不甲斐なさを責めるカイムを揶揄し、叱咤し、慰める声。冷えた体を互いの肌で暖め合うような時間。第三者が観てはいけないものだと察していたが、マナは目を離せなかった。
マナが観ていることに、カイムが気づいていたかはわからない。互いにそのことを指摘することはないまま、ゆっくりと癒えていく世界と、ドラゴンの愛が、復讐を名目にやり場のない怒りをぶつける戦士に、かつての優しく穏やかな気持ちを取り戻させていった。
覚えている。いつからか、街に入るときは、カイムはマナに目隠しをするようになった。どんなに親切な人も、マナの赤い目を見つけたら、恐怖に顔をこわばらせ、悲鳴を上げたから。
マナはカイムに手を引かれ、聞こえてくる思念を頼りに街を歩いた。代わりに、マナはカイムの代わりに言葉を発した。
親子と間違われることが多かった。全く似ていないのに。こちらを窺う街の人の思念は微笑ましげで。マナはあんなに、カイムに怯えていたのに。
『いいの?』
なぜあのとき、カイムはマナを伴って故国を訪れたのか。妹との絆だったブレスレットをマナに渡したのか。穏やかに微笑んだのか。当時のマナにはわからなかった。
ただ怖かった。だって、許されるはずがないのに。親友を洗脳し、妹を死に追いやり、世界を荒廃させ竜と離ればなれにさせたマナが許されるなんて、あるはずないのに。
* * *
「許してくれた」
声が。マナを糾弾した。幼いマナが、蹲ったマナを睨んでいる。
神ではない。あどけない面差しに浮かぶのは、悪意ではなく義憤だった。
「許してくれた。カイムは許してくれた。世界中の誰も許さない罪、誰よりもカイムが許せないはずの罪を、カイムは許してくれた」
手首ごとブレスレットを握る。これは罪の証。そのはずだった。贖罪を忘れないために渡されたものだと。そう偽らなければ耐えられなかった。
「なのに、あんたは」
幼い自分の声に耳を塞ぐ。だが逃げられない。愛からは決して逃れられない。
* * *
皮肉なことに、壊れた国々の復興が進み、カイムとの時間が穏やかになるほど、マナの罪の意識は増していった。
過去を忘れて新しい日々を過ごしているように見える人々が、失ったものに涙しているのが聞こえた。マナを見るカイムの目が、幼かったころの妹を思い出して細められるのを見た。
彼らからそれを奪ったのは、他ならぬ自分なのだ。許されるなんて、あるわけがない。あってはいけない。何よりマナ自身が、マナを許せない。
だってまだ、セエレが憎い。自分が憎しみを捨てられないのに、許される資格なんてあるわけない。わかっている。だけど。
覚えている。カイムが振り向いてくれるか不安で、わざと足を遅らせたこと。振り向かれて、怯えて俯いたこと。手を繋いでくれるか不安で、外套の端を掴んだこと。手を繋ぎ直されて、嬉しくて、怖くて、泣き出しそうになったこと。
(許さないでください。憎んでください。憎まないでください。憎むくらいなら殺してください)
喉の奥で懇願が渦巻く。少しずつ、マナは憔悴していった。
だって、許されるはずがない。だから、カイムもいなくなる。それが罰だから。マナが悪い子だから。きっと捨てられる。お母さんがマナを捨てたみたいに。カイムもきっとマナを捨てる。
(いやだ)
だから、あの日。
* * *
『カイム?』
まだ日も高いのに空を仰いだカイムを、マナは訝しんだ。理由はすぐにわかった。絶叫が、蒼い空に響き渡ったからだ。
ドラゴンの思念。悲鳴。赤き竜が、カイムに助けを求めている。
カイムが空を仰いでいる。目を細めて、魂の伴侶の叫びに耳を澄ましている。赤き竜に何が起きているのか。どこに行き、何をすべきなのか。すべての意識を赤き竜に集中させている。
その姿は、驚くほど、隙だらけだった。
「カイム」
腕を引っ張ると、カイムは上の空で身を屈めた。マナが護身用に渡された短剣を取り出したのにも気づかない。マナが腕を振り上げても。カイム。
(こっちを見て)
左眼に突き刺さった短剣を、カイムは唖然と右眼で見た。
その表情に彼の信頼を裏切ったのを自覚して、マナは背を向けた。
「ごめんなさい」
言い捨てて走る。逃げられる。逃げられる。今ならきっと。
(ごめんなさい)
嫌われた。嫌われた。憎まれたくなかったのに。憎まれて当然のことをしてしまった。
カイムの思念が追いかけてくる。怒り。悲しみ。嘆き。言葉にならない想い。そのすべてに背を向けて、マナは振り向いた。
踵の下は断崖。滝壺の轟音が聞こえる。
「わたしを……」
ささやきはその音に紛れたが、唇を読んでカイムの足が止まった。
それに仄暗い満足を覚えながら、マナは爪先で地面を蹴った。
「見ないで」
一瞬の浮遊感が引き伸ばされ、永遠になる。背中に迫る滝の音。崖を覗き込むカイムの、引き攣った顔。
(愛して、愛して、愛さないで)
わたし、死ぬから。憎まないで。カイム。お願い。わたしを、
* * *
「裏切った。あんたはカイムを裏切った。優しいひとだったのに。本当は、優しいひとだったのに。あんたのせいで。あんたのせい」
「わかっています」
声が掠れた。幼稚な衝動で癒えない傷を負わせ、その罪に自己欺瞞で蓋をして、ずっと忘れていた己の罪深さに吐き気を覚えながら、声を振り絞る。
「わたしは、二度と、決して、カイムに許されない。わかっています。
だからこそ、わたしは、わたしは今度こそ、贖罪を果たさなければならない。わたしの身勝手で奪ってしまった命に、せめて贖うために、神、あなたを」
「ホントウに?」
神の声が聞こえた。脈打つ闇が、景色を映し出す。崖から滝壺へと身を投げた、マナの姿。
「やめて」
覚えている。忘れていない。忘れたかった。思い出したくない。だから、どうか、それだけは。
* * *
一瞬の浮遊感が、永遠になる。引き伸ばされる時間の中で、マナはカイムとの日々を思い出しながら、カイムに詫びながら、最期に一目と、目蓋を開き、崖上にいるだろうカイムを見ようとした。
果たして。カイムは崖を走っていた。
必死の形相で。契約者としての力が魔剣の力を引き出し、重力を飛び越えてマナに追いつく。
カイムの手が自分の腕を引っ張るのを、呆然とマナは知覚した。それが何を意味するのか思い至る前に、カイムの腕の中に抱きしめられる。
強い抱擁だった。旅に出た最初の、腕を引きずられた二年よりずっと強く。もう二度と離さないというように、強く。世界中のすべてから守ろうとするように、強く。
カイムの温もりに、マナの赤い目から涙が滲む。轟音が迫る。そして衝撃。
最後にマナが見たのは、滝壺の岩に背中を打たれたカイムが、懸命にこちらに手を伸ばしている姿だった。
そして水音。永遠のような暗闇。
* * *
静寂がマナの心中に張り詰めていた。水面の薄ら氷のように決壊するのを予感しながら、何もできないまま。マナは己の中に言葉が響くのを聞いていた。
「許してくれた。カイムは許してくれた。決して許されるはずのない罪、贖えるはずのない罪を、カイムは許してくれた」
神が嗤っている。神が歌っている。耳を塞いでも逃げられない。瞼を閉ざしても逃げられない。己の罪からは逃げられない。
「あんたがカイムを裏切らなかったら、カイムは優しい気持ちを失わなかった。
あんたなんかを庇ったせいで、カイムは大怪我を負って、全力を出せなかった。
あんたがいなかったら、カイムはきっとセエレを頼ってた。あんたがいなかったら、カイムは万全の状態で戦えていた。あんたがいなかったら。カイムはきっと最愛の伴侶を救い出せていた。
何もかもあんたのせい!」
喝采のような神の言葉に、マナはついに言葉を失った。
神のあどけない手が、マナの耳を塞ぐ。赤い瞳が、マナを覗き込む。
「天使は笑う?」
そして赤。永遠のような暗闇。
* * *
「マナ?」
正気を失い、子どものような言動を見せながらもなんとか付いてきてくれていたマナが足を止めたのに、ノウェは不安を覚えて振り返った。
繋いだ手がほどかれる。顔を上げたマナの瞳が、毒々しいまでに爛々と輝いている。
「天使は笑わない。
天使は歌わない。
天使の名を呼んではならない」
聖言を唱えたマナの声は、低く野太く濁っていた。