平安時代AU 第3話「あの蓮花の衣装、どちらの姫君に贈るのかと気になっていましたが。江家の末の姫君でしたか」
衣装だけではない。蓮花の香も当代一の名人と謳われる者にわざわざ調合させ、しかも御簾の内から江澄を眺められるようにと江澄の席までも指示を出していた。
曦臣が幼少の時より仕えている侍女はその執心に正直驚いていた。今まで弟君と同様、特段女性に好意を示したことがなかったというのに江家の末の姫君にすっかり心奪われている様子だ。
「紫の重ねを好んで着ているようだけれど、あの色合いの衣装も清らかでよく似合っている。まるで宮中に美しい蓮の花が咲いたよう」
江澄は女性にしては背が高めで、紫色がよく似合う高雅な美しさを持っていた。その隙の無い佇まいは人を寄せ付けにくく、しかも婚姻が破断した姫として宮中でも遠巻きにされていることが多かった。
最初は入宮した女官の挨拶を受けた時に、一人だけ周囲の者とは違う高貴さがある女官だと思い気に留めていた程度だった。今思えばあの時すでに江澄の孤高の美しさに心惹かれていたのだ。
しかし、あの夜の出来事は決定的に曦臣の心を捕らえて離さなくさせた。
涼やかで凛とした見た目とは裏腹に心細げに廊下を彷徨っていたこと、そして男達から隠すために抱きしめた身体が震えていたこと。月の光に照らされた江澄は挨拶の時の凛然とした姿ではなく、今にも消えてしまいそうな儚さが漂う姿だった。
(この姫は私が守らなければ)
曦臣は瞬時にそう想った。そして、その後江澄のことを調べさせてみるとますますその想いを強くさせていった。
婚約の破断は本人には何の落ち度もなかったというのに不実な男よりも江澄が責めを負わされ、しかも実父は彼女を守ってやることもせずに悪い噂が流れるままとなっていた。そして宮中でも噂故に味方がおらず、江家の姫君だというのに部屋は中心から遠く外れた場所にされている。
寝殿に呼び出した時は、手を揃えて許しを乞う姿に今までこの細い身体で一人きりで苦境に耐えてきたのかとやるせない思いで一杯だった。
(何としてもこの姫は私が幸せにする、私の宮廷で江澄に肩身の狭い思いはさせない。)
蓮花の衣装も香もその一つに過ぎない。江澄のためになることなら何でもしてあげたかった。
行事が終わり江澄が部屋に戻ろうとすると、高位の女官が寄って来て「今日からあなたのお部屋はこちらです」と案内された。宮中の中心から近い部屋で、部屋の設えも今までとは比べ物にならない程立派で華やかだった。
「姫様、ご几帳にも屏風にも蓮の花が…それにお道具類もこれ程立派なものが揃っているだなんて」
侍女は夢でも見ているかのようにうっとり部屋を見回していたが、江澄は困惑のほうが大きく、華やかな部屋の中に身の置き場がないように立ち尽くしてしまった。
「江澄」
曦臣の声が後ろから聴こえ、はっと振り返る。侍女はこのような場をきちんと心得ておりさっと退室した。そうして部屋の中でまたしても二人きりとなった。
「ようやく御簾越しではないあなたを見れた。蓮花重ねの衣装、私が考案したのだけれど気に入ってくれた?」
「主上、衣装や香だけでなくこの部屋も調度品も主上が用意されたのですか。」
「ええ、あなたに相応しいものをと思って。」
江澄が眉をひそめて俯いたことで曦臣は焦った。何か嫌なことがあっただろうか、気に入らないものがあっただろうか。長身を少し屈め眉尻を下げて江澄の顔を覗き込む。
「江澄、気に入らないものがあったなら正直に話してほしい。」
「主上のお心はありがたいです。しかし、私程度の位でこんな立派な部屋を与えられては周囲に示しがつきません。」
「それなら大丈夫、あなたの位は上げることになっている。いや、違うな。正しく言うなら、当初の入宮の際に不手際があり適切でない位を授けてしまったから、元々授けられるべきだった位に戻したということになるね。」
江澄は自分を特別扱いしたことによる軋轢を危惧したのだろうが、彼女の位を上げる以上、それに見合った部屋に移すことは当然であり誰にも文句を言わせるつもりはなかった。
そもそも江家ほど高貴な家の姫が、仕度もそこそこにあの程度の位の女官として入宮させたほうがおかしいことだったのだ。この不手際の責任の一端は江家当主である江楓眠にあるのだから、そちらへの追及もおいおい考えねばなるまい。
「江澄、あなたが心配することは何もない。困ったことがあれば遠慮することなく私に言って。」
春の陽だまりのような温かな笑顔を向けられても、江澄はまだ困惑していた。
「…どうして?」
江澄は俯いた顔を上げ消え入りそうな声で問うた。
「どうして…、私なんかにそれ程優しくするのです」
揺れる瞳で見つめられ、曦臣はたまらなくなって江澄のほっそりとした身体をかき抱いた。
「あなただからだよ。あなたの笑った顔を見たいから」
ひゅっと江澄が小さく息をのむ音が聞こえる。そのまま欲望の赴くままに江澄の唇を奪ってしまいそうになったが、そうなれば歯止めがきかなくなると必死に自制した。
このまま、この美しい蓮の花が宮中で咲き綻んでいてほしい。それが曦臣の願いだった。
すっかり夜の帳が下り、部屋の高灯台の灯が二人を艶めかしく照らしている。
江澄はしばらく曦臣に抱きしめられたまま夢のような心地に浸っていた。本当はこれは都合の良い夢なのではないかとも思ったが、抱きしめられた感触や息遣い、何よりしっとりとした気品高く香る白檀が現実だと教えてくれる。
「二人きりの時はあなたを阿澄と呼びたい。あなたも私のことは主上ではなく曦臣と呼んで。」
「主上、そんなことはいたしかねます。」
「主上ではなく曦臣だよ、阿澄。」
誰もが畏れ敬う帝から子供のようにあどけない笑顔を向けられたことで、つい江澄もつられて笑顔を零した。
(その昔、寵妃の笑顔見たさに無茶をして国を滅ぼしてしまった王がいたというが。なるほど、こんな気持ちだったのかもしれない。)
始めて目にした江澄の笑顔を前に、帝としてこれ以上ない不吉なことを考えてしまう。今までの曦臣ではあり得なかったことだが、江澄に出会ってから自分でも知らなかった感情や想いが次々と表面に現れ始めた。
その想いがどこに行きつくのか、この時の二人はまだ予想もしていなかった。
夜もまだまだ開けないうちに寝所に戻ってきた曦臣を見て侍女は少し驚いた顔をした。
「主上、江家の末の姫君と夜を明かさないのですか。」
「彼女はこのまま高位の女官として扱う。」
「側室としてお求めにならないとは。かの姫がお気に召しませんでしたか。」
「そうではない」
そうではないのだ。むしろ、彼女を抱きしめ言葉を交わすうちに自分の中に眠っていた欲がじわりじわりと大きくなっていくのを感じた。同時に、江澄への想いが強すぎることを自覚し、欲望のままに男女の仲になってしまうことが怖ろしいとも思った。
曦臣の母は身分がそれほど高くない女性だった。しかし父に見初められ更衣として入内した。後ろ盾がなかった母は寵愛を一身に受けたものの、味方がいない宮中では色々とあったらしく、心労がたたり忘機を産んでしばらく経った後亡くなった。
江澄に口づけようとした瞬間、彼女と母の境遇が重なった。もし江澄をこのまま公に寵愛し、そして母と同じことが起きてしまったらと怖くなったのだ。
そうなるよりこのまま江澄を女官として側に置いておきたい。我ながら臆病なことだが、彼女を苦しめ失ってしまうよりは余程良い考えなのだと思っていた。