鬼が笑う 冬がどんどんと日々を侵食してゆく。寒さに震えていたかと思えば、もう次の年が来るのだと今年の手仕舞いが叫ばれる。師走という名を、隠し刀はただの記号としか認識していなかったが、人間らしい生活をするようになってようやく言葉の意味を理解した。師走は師匠だけではない、あらゆる人々が駆けずり回る時なのだ。商家はツケの回収に走り、借金取りも今日までですよと大声で叫び立てる。煮炊きする音がどの家からも絶えず、正月飾りや晴れの揃えは飛ぶように売れていた。人影のまばらな路地ではこっそり、春駒の練習をする鳶がいたりもする。
人は皆等しく残り少ない今年を噛み締め、新しい時を迎え入れるのだ。太陽が上って、沈んで、また上るだけのことがこんなにも大袈裟で意味深い。故郷では、正月の支度らしい支度もなかったな、と隠し刀はぼんやりと市井の勢いに飲まれた。自分も何かをしなければいけないような気がする。だが、何を?何をすればこの年末年始を人らしく過ごせたと思えるだろう。
「そんなのは簡単な話だ、うちに来りゃあ良い。藩の祭礼には参加させてはやれないが、人並み程度の正月を約束できるぜ」
いつもの如くに友人に問えば、高杉晋作はべべん、と三味線を弾いて人好きのする笑みを浮かべた。櫻屋は宿屋らしく、年越しを横浜で迎えようという方々からの客の相手で大童である。反面、定宿として逗留している晋作たちは落ち着いたもので、何か準備をしようという気配すら伺えない。家元に帰るのか、という隠し刀の問いには皆一様に首を振った。正月よりもずっと大きな事案を抱えているのだそうだ。
「その心は?」
「うん。貸餅を頼まれてもらいたい」
なんとも申し訳なさそうな様子で、桂小五郎は貸餅とは、と講釈を垂れた。当たり前であるが、正月は餅の時期である。ご馳走には米でなしに餅ばかりを食う。正月はのんびりとするもの、食べた端から餅をつくのはいただけない。と、なれば年内に準備するのがどの家でもお馴染みの風景だ。
「櫻屋は口が多いだろう?例年は菓子屋に依頼していたものの、今年は客が多すぎてとても間に合わないそうだ。そこで、ちょっとここでも拵えようという話になってね。要するに、餅つきをするんだ。もちろん、原因に心当たりがあったから、私たちも協力を申し出たとも。ただ、」
ううん、と滑らかに説明していた言い淀み、小五郎が決まり悪そうな表情を浮かべる。その、ね、というもごもごとした台詞に被せるようにして、側で黙っていた久坂玄瑞が大声を張り上げた。
「我らではつききれなかったのだ。全員、すでに腰を酷使して体が悲鳴をあげている。全く、餅ごときも制せないとは。情けない話だ」
「おいおい、たかが餅、されど餅だろう?俺たちでついた分だけでも菓子屋が一軒建つぜ。ともかくだ、あんた、俺たちの代わりに餅をついちゃくれないか」
ぱ、と隠し刀の頭に、先だって通りで見かけた張り紙が思い起こされた。『餅つき、貸します』。あれは道具を貸し出すものだと思っていたが、どうやらつき手も込みであったらしい。確かに手が足りないことはままあるし、材料が用意できているならば、菓子屋に頼むよりも安く済む。どうということもない、という表情の晋作の座り方が、腰を庇う形になっていたことに気づき、隠し刀は快く引き受けた。
「わかった。貸そう」
年末が自ら転がり込んできた。何かを願うのであれば口に出せとは、なるほどよく言ったものだ。餅をつくという発想自体がなかったので、この際自分用も調達できて一石二鳥である。
「男に二言はないな。来いよ、年末に顔を合わせてやる」
立ち上がりざま腰に響いたのか、晋作が顔を歪める。その様子を見て思わず笑みをこぼした玄瑞も、笑った端から痛てと腰を押さえるのだからどうしようもない。普段から異国に立ち向かうのだと盛んに気焔をあげる武士たちをねじ伏せたのだ、と思うと俄かに不安が襲う。餅は、おそらく自分が知っているあの餅のはずだ。ふわふわして食べ出があり、美味しい。これではまるで、人の精気を喰らう妖怪のようである。宿の奥へと進むにつれ、腰やら腕やらを押さえて転がる落武者たちが畳を這いずる様が目に入る。ここで貼り薬を売ったらば、儲けられるだろうか。彼らをまじまじと見て値踏みしていると、先に立つ晋作がすかさず釘を刺した。
「おっと、今更逃げようだなんて考えるなよ。頼まれたなら、覚悟を決めろ」
「承知した」
そもそも逃げ出そうとは微塵も思っていない。多少怯んだだけのことで――生ける屍の如き客たちから目を剥がすと、隠し刀はわざとらしく大きく頷いて見せた。
浮かれ騒ぎを好まぬ輩でも、どうしたって巻き込まれる時がある。それが時間という、生きる限りには抗いようもない存在であれば、大人しく巻き込まれるが吉だ。江戸藩邸で寝泊まりするだけの諭吉も、その一人だった。勤め始めた頃は、やれ若い力が必要だのなんだのと屋根裏の煤払いまで駆り出されて苦労したものである。普段からこまめに掃除をしておけば、阿呆のように人をかき集めて掃除などせずに済むのではないだろうか?真面目に提案したが、平藩士の声は届かずに明後日の方へと捨てられてしまった。
伝統を受け継ぐだけの怠惰に対し、まともな返事を期待する方が無駄足なのか。否、無駄足ならばこちらもそれ相応の対処をすれば良かろう。四角四面な対応にいい加減飽き飽きした諭吉が目をつけたのは、大量の人間をもてなす為に用意される餅だった。幸い、膂力には自信がある。不幸にも早くに父を亡くしたために、家内の力仕事は一通りこなせるようになっていたのだ。餅つきだったら、自分は菓子屋にも負けぬだろう。
「今年は豊作ですね」
風が吹けば儲かる桶屋よりも明らかな話で、米が豊かな年は餅も安価で大量に出回る。おまけに種類も変化に富んで面白い。今年は定番の豆餅や鏡餅に加え、干し海老を混ぜた桜餅、蓬を加えた蓬餅、他藩のものを参考に甘薯を混ぜたかんころ餅も作られた。もちろん、絵に描けば出てくるものでなし、その分諭吉が多くついたのは言うまでも無い。
見込んだ通り、重労働は讃えられ、労われ、諭吉は懐いっぱいの餅と共に休みを出された。朋輩たちが煤けた顔をしてうろつく中で寛ぐのは流石にきまりが悪い。我が子の如く大事に餅を撫でると、温もりの残る餅はゆるりとした感触を返す。明日には食べられる身の上とも知らず、と命なきものを憐れむのは人の身勝手さか。ちょいちょいと包みをいじって整えると、背負子に入れて速やかに藩邸を出た。埃っぽい俗世とはしばらくおさらばするとしよう。
通常、休みを出されれば向かうは故郷だが、今年の諭吉は年末年始を無駄にするわけにはいかない。いよいよ米国に向けた幕府の正式な使節が出ると決まり、なんとか自分を捩じ込むべく涙ぐましい努力をしている最中である。幸にして、運は開けてきているようだが油断は禁物だ。大掃除とは異なり、雑用を命じられれば嫌でも請け負う覚悟である。その辺りは勝海舟が気を利かせてくれることを願うばかりだった。
よって、出かけると言ってもほんの数日のこと、自由に羽を伸ばす先は横浜くらいなものである。片親がいないと言えども故郷のある自分と異なり、情人である隠し刀には訪ねるべき家どころか人さえも根こそぎ失われてしまっている。自由とは孤独と裏表なのだとは誰かが言った話だが、なるほど天涯孤独の身の上とはなんとも寂しく、糸の切れた凧のように晴々としたものだ。
凧といえば、道すがら凧や、凧を作るための道具が売られているのもしきりと目に入った。正月遊びの代表格のうち、特に武家が真剣に向き合うものであるためだろう。屋敷を城に見立て、藩同士で喧嘩凧ならぬ戦凧をする子供たちもいる。子供たちだけでなく、陣立や全体の指揮には親も入るのだから、実質代理合戦だ。尻尾に尖ったかぎ針をつけた勇ましくも物々しい凧を売る店を横目で眺め、諭吉はやるせなさから首を振った。
諸外国が本気で挑んでくれば儚くも消え失せてしまうと言うのに、呑気に戦争ごっこに戯れる太平楽が情けなくも図太い。一時期は黒船が来航しただけで天地がひっくり返ったかのように騒いだのが、まるで嘘のようだ。その証拠に、こうして横浜に足を踏み入れれば、日本の人々が悠々と外から流れ込んでくる新しい時間を受け入れていることが手に取るように解る。
往来には異国の人々がもこもことした毛皮や上掛けを羽織って歩き、蹄鉄を打った馬たちが車両を引いて走っている。異人たちの住む屋敷には、異国の風習なのだろう、枝葉を組み合わせた輪や、帯状の布が飾られていた。文化の象徴といえば教会だ。外界では禁じられた存在である基督教の教会を見れば、壁に張り紙がされているので諭吉は興味を覚えた。幅広く人に知らしめたいのだろう、普段掲げられる日曜礼拝の通知とは異なる風である。
「『くりすます』に向けた市場?でしょうか」
解るようで丸切り解らない。読み方が合っているかさえも不明だ。しかし日付は把握したので、その『くりすます』とやらがいつ行われる催しであるかは把握できたのでよしとしよう。都合がつくのであれば、隠し刀と遊びに行くのも一興だ。誰でも参加可能、という文言をしっかり確認し、頭の隅に入れておく。隠し刀はどんな顔をするだろう?好奇心旺盛な彼のことだ、自分と同じく楽しむことができそうだ。そうであれば、どんなに良いか。ふわふわと思考を巡らせていると、どん、と衝撃が走って諭吉は慌てて足を踏ん張った。
「おっと、悪いね兄さん」
一体何事かと思えば、荷運びの人足が長持の端をひっかけたらしい。一歩間違えれば石壁に激突するところだったと言うのに、随分軽い口ぶりにムッとしてしまう。
「いえ」
「年の瀬は忙しくて仕方がねぇや」
急がなくっちゃあな、と言いながら去り行く人足は風のように早い。気も早くてせっかちなのだろう。年の瀬だ?そんなものを言い訳にして、相手を黙らせようという態度は丸切りいただけない。とは言え、自分も往来を占拠していたのは事実である。これは餅をさっさと連れてゆけという催促だと考えた方が得かもしれない。
そうと決まれば足取りは人足よりも遥かに早く、諭吉は馴染みの長屋へと辿り着いていた。途中の人々の様子がどうだったか、街並みが迎えた年末はどうか、もはやそんなものは一切目に入らなかった。どうせ見るならば、一人よりも二人の方がずっと良い。
「お邪魔します」
建物の前に立板が無いことを目視し、引き戸を滑らせる。普段から隅々まで手入れをされているため、乱雑に開いても埃一つ立たない。これが本来あるべき姿だ、と諭吉は心中密かにため息をついた。日々の積み上げこそが楽をさせてくれるのだ。
「おかえり、諭吉」
「ただいま帰りました」
台所で作業をしていたらしい隠し刀が速やかに駆けつけてくるのも心地良い。穏やかに解けた情人の顔に、諭吉も寛ぐままにお決まりの挨拶を返した。ここは隠し刀の長屋であり――自分の家の一つ、でもあるのだ。ある意味では里帰りをしたと言えるのかもしれない。背負子を下ろして中から餅を一つ一つ取り出して並べる。自分の成果として戦利品を披露すると、諭吉は自然誇らしげになって胸を張った。
「全部諭吉が?すごいな、きっと美味しいだろう」
「美味しさは保証しますよ。味見もしましたからね」
隠し刀は布巾の上からまだ固くなりきらない餅にそっと触れ、続いてするりとめくって中の色に感嘆の声を上げた。僅かな、ごく普通の動作である。しかしさながら閨で布を捲る際にも似た艶めきを覚え、諭吉は胸がどっどと音を立てたことに恥ずかしくなった。これでは自分が色情狂のようではないか。はしたなさは己が知らぬだけで生来のものなのか、はたまた隠し刀に開かれたが故なのかは判然としない。できれば後者であって欲しい、と狡い考えが頭を過ぎる。
「諭吉と正月を過ごせたら良いだろうな」
こちらの心臓の高鳴りなどつゆ知らず、隠し刀はのんびりとした声を上げた。自分も餅をついたのだ、と続ける彼に諭吉は首を傾げた。ざっと見渡すも、長屋のどこにも餅が隠されている風はない。通常、神棚や床の間に飾るなどするだろうが、神棚はなし、床の間は鎧武者に占拠されたままだ。無言の問いに対し、隠し刀はうろ、と目を虚空に漂わせた。
「あちこちで貸餅をして、私もいくらか礼にもらったんだ。……諭吉が来てくれたのだ、構わないか」
奇妙な独り言をする男が台所の奥に行く。諭吉が戸を開けた折に居た場所だ。吸い寄せられるようについて行くと、見慣れぬ樽がどんと鎮座している。ついこの前遊びに来た際には見なかったもので、どう見積もっても酒樽のようである。香りも酒そのものだ。酒は大歓迎だ、と考え諭吉は眉間に皺を寄せた。もし隠し刀が、自分から酒を遠ざけようと考えていたのであれば思案のしどころではなかろうか。ヤキモキするこちらを他所に、隠し刀は丁寧な仕草で蓋を外した。酒が鼻を刺激し、見てご覧と諭吉を誘う。誘われたいという気持ちのままに顔を近づけると、諭吉はあっと小さく声を上げた。
「これは……これは全て、餅なのですか?」
「ああ。酒餅というらしい。正月一杯は保つそうだ」
曰く、餅を酒に浸けておけば、腐らずかびずに芳醇な味わいが染み込んでゆくのだという。櫻屋なる手伝い先が教えてくれたそうで、貸餅をした長州藩の藩士たちが支度したらしい。なんとも豪勢な祝い酒だ!
「なるほど、餅と酒は同じ原料から出来た兄弟ですからね。相性はいいかもしれません。さて、僕に隠そうとした理由についてですが……お話してくれますよね」
「気づいていたか」
「白々しい。あなたは嘘が下手なんですよ」
嘘を言えばわかるんです、と指摘したものの、ふと、本当にそうだろうかと言う不安がチラと頭を掠める。隠し刀とは、人でなしである。人心掌握術に長けていることは、彼の片割れに散々手痛い目に遭ったことから学習済みだ。いくら人らしくなったと言っても、本分はそう簡単に変わりうるのか?信義が、思慕が歪んで束の間くらりとする。ほんの少しのずれだけで、愛情は折れ曲がって憎悪に変わりうる。情人の精悍な顔つきが、何もかもごっそり削ぎ落としたように一切の色味を失った。
「今、隠し事なんて本当は簡単だろう、と想像したな」
「いえ、」
図星を突かれて喉が詰まる。ヒュッと鳴ったのは、あれは臆病風か。
「その通りだ」
ざば、と柄杓が酒を掬う。餅の染み込んだ酒をさらに深く抉って、白い塊をこびりつかせた柄杓は静かに木椀に着地した。生き物じみた動きで餅が滑り込む。隠し刀の目が和らぎ、ついに全ての緊張は解かれた。
「だが、私は諭吉には隠し事を作らず、嘘をつかずにいたい。そうさせてもらえたら、嬉しい」
なんと悲しい願い事だろう。我儘であれば、もっと図々しく言えば良いのに、正直さを掲げたが故に大人しく振る舞うより他にない。あるかなきかの心のひだに揺らぐ葛藤を汲み、諭吉は木椀を受け取った。柔らかな、生まれたままの姿を保った餅が気持ちよさそうに泳いでいる。酒のほんのりと甘い香りがたまらない。
「……隠し事も、嘘も好きではありません」
けれど、と一口酒餅を啜る。近寄ってきた餅はふにゃりと形を変え、口の端から逃げ出した。
「あなたの嘘も隠し事も、全部飲み込みたい」
「諭吉には敵わないな」
ありがとう、と言う声はひどく掠れて聞こえた。
「これがあれば、お前と来年一緒に新年を迎える楽しみができると思ったんだ。諭吉は珍しいものも、酒も好きだろう?それに、正月は餅だと皆口を揃えて言う。御節も一応、これから作る予定なんだ」
木椀に注いだ酒を飲みながら、隠し刀は静かに情人の様子を観察した。自分の浅はかな迷いを踏み抜かれ、どうすれば取り繕えるかを考え、放棄する。諭吉に語ったことは自分の真実なのだから、変に穴を埋めようとすればする程ややこしくなってしまうだろう。何より、全て飲み込みたいと貪婪な欲望を掲げる相手が愛しくて、与えられるものも与えられないものも与えてやりたい気分だった。三千匹の猫を降り注いで、千枚の舌で嬲ったらば、諭吉はどんな顔をするだろうか?鹿爪らしい様子で受け入れるも暴れるも、何をしたって彼らしく、至極満足できるに違いない。
「黙っておこうとしたのは、今開けてしまったら、先の楽しみが減ると思ったからだ」
「減りませんよ」
優しい、静かな声を出しながら諭吉が腕の中に舌を伸ばして餅を掬う。逃げ回る餅を捕まえようと必死らしい。匙を引き出しから出して渡すと、諭吉は小さくため息をして受け取った。最後の最後に追い詰められた餅が匙へと移動する。一巻の終わりだった。
「別の楽しみが増えるだけです。今日駄目ならば、明日があるでしょう。明日が駄目でも明後日があります」
やけに強く言い切る男が餅を咀嚼する。舌の熱さを知るだけに、餅が絡みつく姿をつい官能的に想像してしまったのは秘密である。隠すつもりはないので、密かにただ目に想いを宿すと、かち合った目がふるりと震えて熱を持った。
「うん」
明日のことをどうして今日わかるだろう。わからないから先回りして罠を仕掛ける如く約束を置く。果たされずともいつかの種になると思ってばら撒く。不確かさを理解しながらも、こぼれ落ちていく可能性から目を離せない。つ、と傾けた木椀から餅が口中へと踊り込む。黙って受け入れて弄び――見つめる瞳に秋波を送った。
「来年もたくさん楽しもう」
憂いを飲み込み、唇の端を吊り上げる。自分の言葉は、果たして嘘になるだろうか?否、嘘も真にすれば良い。いつかきっと、全て真実だったと喜べたらば――そうさせてもらえたらば、嬉しいのだから。
〆.