心臓がバクバクと煩いまま鎮まらない。
クリスはつい先日恋仲になったばかりの雨彦と、オフを利用した小旅行を計画した。
初めての土地をお忍びで観光し、宿にやってきたのが数刻前。それから名産を使用した豪勢な料理を堪能し、二人で温泉を楽しんだ。
後は部屋に戻って休むだけ、というところで、クリスは少し困ってしまった。
経験の少ないクリスには、恋人との交際というものがあまりわからない。だが恋人同士の、初めての小旅行の夜が何も起こらないまま過ぎていくだろうか。
遅かれ早かれ、いつかはそのタイミングが訪れるのだろう。クリスはとっくに覚悟を決めているつもりでいた。だがいざチャンスとも言えるタイミングに直面すると、途端にどうしたらいいかわからなくなってしまう。
クリスの少ない経験値では答えが出ないまま、部屋が近づくにつれて、緊張でどんどん心拍数が上がっていく。
ぐるぐると思考を巡らせながら、少し前を歩く雨彦の広い背中を眺めていると、視線に気づいた雨彦がクリスを振り返った。
宿の浴衣に身を包んだ雨彦は普段とは少し雰囲気が異なり、その姿を改めて見るだけで、どきりと心臓が跳ねる。
「古論?ぼんやりしているが、のぼせちまったかい?」
「あ、いえ、大丈夫です」
クリスは慌てて雨彦に歩み寄って、少し離れ始めていた距離を詰めた。
部屋に戻ると、既に布団が二組敷かれていた。
「良い湯でしたね」
「ああ。最近は忙しくしていたから、いい気分転換になったな」
言葉を交わしながら、二人は布団の上に腰を下ろす。ロケなどで同じ部屋に泊まるうちに、自然と朝の早いクリスは入口手前側の布団、雨彦は奥側の布団を使うようになっていた。
ぽつぽつと話しながら一息ついたところで、ふっと会話が途切れる。いつもなら特段気にしないようなわずかな沈黙の中で、クリスの緊張はピークに達した。
「古論?」
雨彦もさすがにクリスのぎこちない様子に気づいてしまったようだ。
雨彦はいつだってクリスを気遣い、クリスのペースにあわせて恋人としてのステップを踏んでくれた。だがクリスだって、いつまでも雨彦を待っているわけにはいかないだろう。
クリスは己の心臓を少しでも鎮めるために、深く息を吸って吐き出す。
「……あの、雨彦」
「うん?」
「ええと……その、ぎゅっとして、くださいますか」
散々頭を悩ませた末に捻り出した言葉は、自分でも驚くほど拙いものだった。自分の顔が赤いことは鏡を見なくてもわかる。クリスの言葉に、雨彦は驚いたような表情を浮かべた。
一瞬迷うように雨彦の視線が動いて、クリスは間違えてしまったかもしれない、と少し不安になる。だが雨彦は優しくクリスを引き寄せ、そのままゆっくりと抱きしめた。
「雨彦……」
雨彦の体温が温かい。その背に腕を回し、胸元に顔を寄せると、とくとくと雨彦の心音が聞こえてきた。その鼓動は、意外にもクリスと同じくらいに速い。
クリスは思わず顔を上げて、雨彦を見上げる。雨彦はいつにない真剣さを秘めた瞳でクリスのことを見つめていた。
「古論」
「はい」
「……いいのかい?」
耳元で囁かれたその問いの意味は、聞き返すまでもない。クリスは雨彦の腕の中で小さく頷いた。