部屋を満たしていく甘い香りに気付き、ペンを片手にうとうとと微睡んでいた航海はゆっくりと顔を上げた。
スン、と改めて意識をして嗅ぐと、焼き菓子特有の卵と砂糖の優しい香りがした。
目の前に広げたままのノートには、文字とは言い難いミミズが這ったような筆跡が残っており、航海は苦笑いを浮かべた。イメージが上手く固まらず、ああでもないこうでもないとしているうちに、どうやら睡魔に襲われてしまったようだ。
覚醒しきらないままの頭を持ち上げながら欠伸を一つ噛み殺し、航海はソファーから立ち上がる。
そのまま香りに釣られるがままキッチンの方へと足を運ばせると、気配を察したのか丁度片付けを終えエプロンを脱いだところで凛生が振り返った。
「あぁ、起きたのか」
「寝てるの知ってたの?起こしてくれればいいのに…」
「わざわざ起こす用事もなかったからな」
凛生としては労いのつもりだったのだろうが、気恥ずかしさから反発するように航海は口を尖らせた。
不満を露わにしつつも、航海の意識はすっかり香りの根源へと向いているのは明らかで、歩み寄ってくる航海へ場所を譲るようにして凛生はオーブンの前から1歩下がった。
「シフォンケーキ…?」
「正解」
ほんの数秒前とはうってかわり、オーブンの中を覗き込む瞳はキラキラと輝いている。
忙しないな、と思いつつも、素直なその姿は微笑ましく、作り手としては嬉しい反応だった。
もう少しで焼き上がる旨を伝えようとした傍から、オーブンからは焼き上がり知らせる音が鳴った。
今度はミトンを装着した凛生に航海が場所を譲ると隣でオーブンの扉が開かれる様を見守った。
ふわ、っと、蒸気と共に一層強い香りが鼻を突き抜け、見事に膨らんだケーキが取り出された。
焼き上がり立ての表面が柔らかそうにぷるっと震え、その様に航海は思わず生唾を飲み込んだ。
そのまま切り分けるかと思いきや、テーブル上へ逆さまに置かれたマグカップの上に裏返しで置かれるケーキを見た航海は首を傾げる。
「こうやって、粗熱を取ってからでないと綺麗に型から抜けないんだ」
「ふーん、すぐに食べられるわけじゃないんだね」
「これは的場の分だから、もう少しだけ我慢しててくれ」
「えっ…これ、僕の為に焼いてくれたの?」
「あぁ」
説明と共に、至極当然と言わんばかりに凛生は即答した。
航海はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、ケーキと凛生の顔を交互に目配せると、口元を押さえながら足早にリビングへと戻って行く。
まさかお気に召さなかったのだろうか、と過ぎった最中、航海はノートとペンを持って戻るなり、ケーキの置かれた向かいの椅子へと腰を下ろした。
「桔梗、…その、ありがとう」
ノートを抱えたまま顔を上げた航海は、はにかみながら笑みを浮かべていた。
こうして一喜一憂し様々な感情が見られただけ、作ったかいがあったものだなと、胸の内で凛生は思う。
「次の詩も、期待してるぞ」