願い事、ひとつだけ広がりゆく青天に白亜の城が伸びる
一見すればどこぞの貴族が住まいにしていそうな荘厳な建物だが、無感情な清らかさの壁に嵌った人の何倍もの大きさの観音開きのドアが訪れるものを見下ろしている。
居住用と見るにはいささか温かみのない威圧的な風貌をした建築物。祭殿、あるいは監獄とも見えるがその本質は教会だ。
ドアの隙間越しに漏れる讃美歌に神の威光を表現する意思は感じられない。形だけなぞってそれらしく語った…騙っただけの意味のない音階の塊。空虚の反響の割にノイズがかった歌声が人を寄せ付けない。だがだからといって踵を返すような真似はしない、するわけもない。
教会以外なにもない空間、両開きのドアを押し開いて幾重もの波紋が広がる水面を勇み足で踏みつけた。
扉を大きく開くと石の箱に収められていた音圧が一気に放出される。いっそ弾き出されてしまいそうなほど肩にのしかかる聖歌隊の歌声。神を賛美し祝福を賜るための歌は見えないけれど分厚い壁として勇むつま先を押し返す。が、それで怯む二人ではない。
アーチ状の天井は見上げるほど高く、大きく描かれた絵画は美しい天上を映している。朝日を受けてクリーム色に輝く雲の間から天使が覗いているが、その誰もがあどけない顔のまま憎々し気にこちらを睨みつけているように見える。歌の音圧が肌にひりつくというのに、天上からの殺気は気が散って仕方がなかった。
「いくよ」
「おう」
会話はそれだけだ。いや、それだけでいい。
足と腹の底に力を入れ強く駆け出す。鮮血のように真っ赤なバージンロードを踏みつけるたび、そこから後ろが赤黒く、粘り気のある朱殷の道が敷かれていった。
「KK!」
「任せる!」
二人三脚もかくやと言わんばかりのシンクロで長い道を駆けている最中、一人が足を止め天上を見上げたまま声を張り上げた。彼の視線の先、美しい天界の風景を描いた天井画には暗雲が立ち込めどす黒く変色している。雷を蓄えた雲に跨る天使は先ほどの愛らしさは微塵もなくどんぐりのような目をひん剥いて歯ぎしりをしながら手持ちの鏃をこちらへと向けていた。
たかが絵、されど絵。こんな歪んだ世界では焼け付くような殺気は実体を持つ。引き絞った弓から放たれれば豪雨の如し数多の矢が降り注ぐだろう。
だが先頭を駆ける男の足は止まらず、代わりにしんがりの青年はその場で足を止め天井をひと睨みする。弓矢は彼の十八番、即ちその弱点も知っている。右手に力を籠めると全身を伝い輝く緑の結晶が指先で球へと変わっていく。やがて暗緑がひと塊出来上がったところでさらに力を加えた彼はまるで銃を構えるように空を指した。
瞬間、解き放った緑風の乱射は目にも止まらぬ速さで天井へと突き刺さる。自由落下する矢の雨はさらに鋭く俊敏な突風に貫かれ瓦解しながら押し返された。まま勢いは止まらずまっすぐに飛び続けた風の弾丸は砕けた鏃を抱えたまま天井を凹凸に崩していった。当然、仮初の天上ごと二次元天使は跡形もなく穴だらけの瓦礫にされてしまった。絢爛豪華なルネサンス絵画は見るも無残な姿になり果てたが、そもそもウテナ空間のまがい物なので心は痛まなかった。
さてな、と教会内でいつの間にか讃美歌が静かになっていて肩にかかる重圧ごと薄らいでいることに気が付いた。どうやら天井を吹っ飛ばしたついでに近くにいた聖歌隊の足場まで崩してしまったらしい。よく見るとベランダ状になっていた二階が瓦解している。なんという僥倖。
動きにくい圧がなくなったことで体が軽い。余計な圧がなくなってなんだか逆に無重力にいるみたいだ。ともなれば生き生きする男が一人いる。
シルエットを探して視線だけで追いかけると、すでに男の影はバージンロードの突き当りまで進んでいた。というかタイミングよく加重がなくなったおかげで強く踏み込んだ両足で到底40代とは思えないジャンプ力を見せつけている。これには祭壇前の新郎新婦や横でオルガンを弾いていた奏者まで唖然としてしまう。目の前で化け物じみた動きをされては当然だろう。
が、それが隙になった。上下に重ねた掌にはすでに水が渦を巻いて鋭利な刃を作り出している。大きく跳躍した男は口角を上げ歯を食いしばったままズダンと音をたて花嫁の背後に降り立つと、間髪いれる隙も与えず手の中の水刃を解き放つ。瞬きの間に広がった水が宙に消えたとたん、振り返って応戦しようとしていた花嫁が空間ごと二つに切れた。顔面蒼白―――元から伺う顔色もないが―――にした彼女の姿はノイズと共に華やかなウエディングドレスから夜闇に紛れる紺色のガイド制服に変わる。地面に崩れ去ると同時に塵芥として風に流されたところで新郎以外の威圧的な空気感は蜃気楼のようにやがて消えていった。
しばらく周囲を観察した後、奇襲もないと見た男はその場で力を抜いてしゃがみこむ。追いついた若者が大きく息を吐いて合流する頃には、絢爛豪華だった教会は屋根もない廃墟へと姿を変えた。否、これが元々の姿だったのかもしれない。
「おつかれ、相棒」
「ああ。オマエもな」
少し息を切らした年上に拳を差し出すと、関節がごつごつした拳が軽く撃ち返される。小気味いい音を聞いたらそのまま手を開いて悪手の要領で引っ張り上げた。
「あとはこの人を送り届けたら依頼完了かな」
「そうだな。…しかし、マレビトと結婚しようとするなんてな」
「でも死に別れた恋人と思い込んでたわけだからこの人に非はないんじゃない?」
新郎の衣装から普段着のパーカー姿に変わった若い男を見下ろす。今回の依頼は彼の家族からのもので『事故死した婚約者に会いに行こうと夜な夜などこかに出かけていくから止めてほしい』というものだった。突然の別れが受け入れられなかった青年の二度と叶わない願いにマレビトが反応したのだろう。心の隙につけこんで死んだ婚約者の幻を見せたところで捕食する魂胆だったのだろう。
「どれだけ願っても生者と死者は結ばれてはいけない。それが例え叶ったとしてどちらも結局不幸になるだけだ」
まるで言い聞かせるみたいだと思った。
二人も出会いは曖昧だったとはいえ生者と死者だった。それが奇跡的に生還したからよかったものの、そのまま彼岸と此岸で分かたれていたとしたら…暁人も同じ道を歩んでいたのかもしれない。
未だ目覚める兆しもない青年を背中に担ぎ上げて暁人は少し感慨深くなった。年齢も立場も違う男に師弟や相棒以上の感情を抱いた。きっとこの想いは時間なんかじゃ変わらない。彼を看取り己も寿命を終えた先だってひとかけらすら失くすこともなく冥府の先の地獄の釜の底まで魂に刻まれることだろう。
だから、こんな神聖な場所は今世どころか来世以降も縁遠いだろう。
見上げた天井はすでに風化しきって屋根もない。向こう側の空に浮かぶ暗雲から降り注ぎ頬を伝う雨もまた涙のまがい物だ。
「…綺麗な場所だったのに、なんか残念だね」
「人が寄り付かなくなった場所は時間と共に崩れるもんだ。どれだけ飾ったとしてもな」
「それは…なんだか悲しいな。教会なんてめったに来ないしもうちょっと落ちついて見たかったよ」
「教会くらいまた行くことになるだろうが」
またとは?なんのことかと訝し気に見ると、KKは少し動揺したようにまくしたてた。いつもの美声もなんだか上ずっているようで珍しい。
「あー…いや、麻里が結婚するときはこんくらい豪勢なところで」
「麻里はまだ嫁には出さないから」
「真顔で返すなよ」
そう言われても可愛い妹はまだ彼氏も作らないし結婚もしませんからと淀みなく謳いあげると呆れ顔で肩をすくめた。そういう自分だって麻里を可愛がっているのだから彼氏でもできようものなら大いに動揺する癖に随分な態度じゃないか。
「物思いにふけるのもいいが、いい加減帰るぞ」
一足先に壇上から降りたKKの背中をしかめ面で見送った。
後ろ髪を引かれて振り返ったステンドグラスを見上げて、雨雲の間から覗く月明りに照らされたガラスの破片の輝きに目を細める。
キラキラと反射する淡い光を受けて、二人の男が向かい合う幻想。現には叶わない願いが見せた夢幻を眩しさを覚えた。
(今世では叶わないかもしれないけれど)
何度も巡り続けて、何度も出会って。その先で奇跡があったのなら。幻が現に、願いが実を結ぶこともいつかの出会いにあるかもしれない。何度も重ねた先に、もしかしたら。
惜しむように見上げたステンドグラスは半分に割れてもなお美しく思えたから、口に出さず願う。いつか、いつかと。
廃墟のガラス窓に目を奪われていたから暁人は気づかない。男もまた、その姿を焼き付けるように見つめていることを。
そして、欲しいものはすぐに手に入れたい彼が来世なんて先伸ばしにできないくらいせっかちなこともこの時の暁人には知る由もないのだ。
END