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    巨大な石の顔

    2022.6.1 Pixivから移転しました。魔道祖師の同人作品をあげていきます。

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    巨大な石の顔

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    サンサーラシリーズ第三章。とうとう兄上と江澄がキスするお話。

    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation
    #藍曦臣
    lanXichen
    #江澄
    lakeshore
    #曦澄
    #オリキャラ
    original characters

    明知不可而為之(二) 藍宗主が閉関を解いてからときは少し進み、雲深不知処で何年かぶりに清談会が開かれた。当主の誕生日も近くその復帰祝いもかねていたので、暗黙の了解として常よりも仙門百家の人々は着飾って参加していた。
     人々が驚いたのは、雲夢江氏宗主が会場へ現れたときである。金凌のように日ごろの厳格な江宗主をよく知る人物ほど今日の彼をみて顎が落ちそうになった。
     今宵の江宗主は、普段結い上げている髪をしどけなく下ろし蓮の形をした銀の髪冠をつけ、動きやすさを重視した校服から袖も大きくゆったりとした優美な上衣に袖を通していた。色は夕暮れにかかる雲のような薄紫色で、合わせの隙間から宵闇のような黒い裳裾をなびかせている。人を寄せ付けないとげとげしい雰囲気も眉間に寄せる深い皺も今日は消え、衣に合わせた扇子を片手ににこやかに愛嬌をふりまいていた。
     こんなことを本人に言えば紫電で叩かれるだろうが六尺も超える大柄な男なのに仙女が舞い降りたかのような美しさだった。お団子頭に蓮の花のかんざしをさし紺藍色の襦裙を着た愛らしい仙子を後ろに従えていたから、出席者の目にはなおさらそう映った。
     今日の主役である姑蘇藍氏の宗主もまた藍氏の校服ではなく、鉄紺に染められた襦袢の上に朝日が昇る空のような藍白の衣を重ねて、同色の帯を結びやはりそろいの上衣を羽織っていた。帯や上衣の襟と袖口に雲に遊ぶ龍が金糸で施されている。古参の人々はその華麗かつ威厳をたたえた衣装に見覚えがあった。前宗主青蘅君のものだ。よくみれば青雲を思わせる髪冠も。背は沢蕪君のほうが青蘅君よりも高いはずなので新たに仕立て直したもののようだ。
     沢蕪君は以前からさわやかで端然とした佇まいで老若男女誰しもが好感を抱く人物だったが、今その優しげな深い色の瞳には何か秘めた思いを抱えているかのように強い光が宿っていた。義兄弟を失い二年にも及ぶ閉関を経てさぞやつれているかと思われたが、むしろ大世家の宗主として威容を誇っていた。一度割れてしまった洒脱で清廉とした器が東瀛の金継ぎを施され、余人をもって触れがたい重厚な器に生まれ変わったようだ。平たく言えば男ぶりが上がったのである。
     その藍宗主と江宗主彼ら二人が向かい合って談笑しているところをみると、示し合わせたかのように朝と夕の時を体現しているかのようだった。東華帝君と西王母の語らいのようでもあって参加者は遠巻きに眺めて自然と感嘆のため息を漏らしていた。
     義兄弟二人を失って閉関した藍宗主をあの苛烈と悪い意味で名高い江宗主が支え、江宗主が夜狩で倒れたときには藍宗主が支えお互い知己となった――そんな噂が仙門百家の間でこの夏の間まことしやかに囁かれていた。二人が仲睦まじく並ぶ光景を目の当たりにして、彼らはその噂の確証をえたのである。
     清談会は沢蕪君の明朗とした声で始まり、とくに紛糾することもなくつつがなく終わっていつもよりも早く宴の時間となった。夏の終わりに例の棺を封じた禁足地近くで一度大きな地鳴りがあったと江澄は主管から報告を受けたが今のところぴたりと静まっているのでひとまず議題にはのぼらなかった。
     初参加の白蓮蓮は、江澄の隣の席にしつけの行き届いた子犬のようにかしこまって座っている。さすがの彼女もこのような場で商売っ気を発揮するつもりはないようだ。
     金凌は欧陽子真と宴会場をこっそり抜け出していった。江澄は視界の端でしっかり捉えた。大方、小双璧たちも合流して彩衣鎮の店にでも行くのだろう。宴の席にでるのも宗主の仕事だと常ならば叱るだろうがここは雲深不知処なので大目に見ることにした。大人でさえ酒ぐらいしかまともに口に入れるものはないのだ、食欲旺盛な若者に生薬がふんだんに使われた宴の料理は苦痛だろう。白蓮蓮は膳に乗せた汁ものを一口飲むなり顔をしかめている。
     時節柄、会場の目に付くところには青みがかった陶器に大輪の菊の花が品よく飾られ、客人には彩衣鎮産の菊花酒(菊を漬け込んだ酒)がふるまわれた。家規により酒の飲めない姑蘇藍氏の人々は菊花茶を口にしていた。
     江澄は彩衣鎮の菊花酒を初めて口にした。白磁の酒瓶から杯に注ぐごとに菊の芳醇な香りが放たれするすると飲みやすい。常ならば気に入って蓮花塢へ持ち帰っただろうが、今は藍渙が金麟台を去った日飲んだ雲夢の酒のように味気なく物足りなく感じていた。
     宴の時間が始まるなり、今宵の主役である沢蕪君は年寄り連中たちに取り囲まれた。そろそろ中盤に差しかかろうとしているのに彼を囲む輪は一向に途切れることはない。
     江澄の記憶が正しければ沢蕪君を取り囲んでいる宗主陣はみな年頃の娘か孫娘がいるはずだ。中には母方の縁者までもいた。江澄も大世家の宗主で独身なのになぜか一人も年寄りは近づいてこない。今日はやたら若い修士が男女問わず江澄にご機嫌伺いにくる。先だっての夜狩りで助けた姑蘇の少年は別だろうが、おそらくみな江澄の隣にいる白蓮蓮がお目当てなのだろう。
     本人ひいては世家の繁栄を思えば、修為も高くそれでいて人柄もいいあるいは若く有望な人物と縁づきたい友になりたいと思うのはごく自然なことだ――若い修士たちが髪を下ろした江澄の群を抜いた美貌を拝みに来たことはもちろん、その隣にいる仙子が沢蕪君に視線で命じられて番犬のごとく彼らを見えない針で追い払っていることも、酔いが回り始めている江澄はまるで気付いていなかった。
     羨望の眼差しで主を囲む人だかりを前にして、若い弟子は「ふふふはははどうだ、私の師父は世界一美しかろうふははははは」と心の中で高笑いしていたのだが心配の入り混じった強い悋気が肩にまとわりついてきたので針を手にせざるを得なかった。これは師父のためというよりは自身の安全のためだ。残念ながら巨大な成犬にあらがうには白蓮蓮はまだまだ力が足りなかった。
     そんな弟子の隠れた苦労などまるきり知らない江澄は、若い女性修士から酌を受けながら江家の親族に年頃の娘がいたら藍渙に縁談をすすめたかもしれないと考えていた。己の感情のことは横に置くと、彼と縁戚になることは雲夢江氏にとってそう悪くない未来だと彼は思った。だが金家とすでに結びついている江家と藍家が縁づいたら隣に座っている男が何らかの策を弄してきそうな気はしている。
    「僕、清談会で江兄がこんなにめかし込んで愛想よくしているところ初めて見たよ」
     江澄がいつになく若い男や娘たちからひっきりなしに挨拶され時折酌も受け取っていると、隣に座る聶懐桑が扇子を片手にからかうように話しかけてきた。
     彼もまた大世家の独身の宗主にもかかわらず、年頃の娘を持つ宗主や修士は近づいてこないのである。もっとも江澄と違って近づいてこないようにあえて画策しているようにもみえる。
    「知己の祝いの席ぐらいは盛り上げてやらんとな」
    「知己っていうか、病み上がりの夫を影ながら甲斐甲斐しく支える夫人(フーレン)みたいだけどね。うっわ危ないな」
    「誰が誰の夫人だって?」
     聶懐桑は扇子で頭を叩かれそうになったのを寸前でよけた。
     よくよくみれば優雅な扇子の骨格は鉄でできていて冷や汗をかく。地上に降り立った仙女に化けていてもやはり中身は立派な男の修士だ。そのくせ、小うるさい蠅どもにたかられている曦臣兄を物欲しそうな目でみては切なげなため息を吐いている。
     金麟台で二人が尋常ではない近さで親密に過ごしているという報告を密偵から受けたとき、聶懐桑はそう驚かなかった。座学時代、夜中に隠れて酒を飲みながら言い合っていた理想の結婚相手の条件を覚えていたからだ。家柄がよく姿かたちは玉のように美しく清楚で教養は高けれども慎み深く修為は自分より高くなく彼を尊敬していること。
     たしかに曦臣兄様は江兄の好みにほぼ合致しているもんね、当時は理想が高すぎてありえないと思ってたけど江兄にはまったく恐れ入ったよ。扇子の奥でほくそ笑んだ。
     聶懐桑にとって座学時代は兄の庇護のもと彼が無邪気でいられた、戻れない愛おしい日々だ。共に過ごした者たちにはそれなりに親愛の情はある――自分の行く手を遮りさえしなければ。
     彼が報告を受け意外に感じたのは藍曦臣のほうだ。惚れた腫れたという世俗の感情とは縁がなさそうだった彼がちらちらとさきほどから江宗主の様子をうかがっている。春宮図など手にしてもそのあと医学書の人体図と比べそうな義兄が旧友にご執心なのはまことらしい。
     兄の聶明玦が亡くなった後何かと世話を焼いてくれた二の兄君を道具のように利用して良心の呵責がわずかはあるものの、兄が亡くなった原因を作ったのもまた彼だ。だから聶懐桑は二の兄君には複雑な感情を抱いている。この人も死んでかまいやしないという容赦のない気持ちと、観音廟のおり悪党金光瑶に道連れにされなくてよかったという思いは相反することなく彼の中で同居していた。兄が生前藍曦臣に描いてもらった姿絵をいたく気に入っていたからというのも大きい。風流人の端くれとしても、白木蓮は長く描き続けてもらいたい逸材だと彼は思っていた。
     秋のはじめ閉関を解く公式の文とともに、以前聶懐桑が要望した霊廟に飾る姿絵を引き受けてくれる旨の文も合わせて送られてきた。金麟台で久しぶりにお目にかかった彼は即身仏のようで半ばあきらめていたのだが承諾の返事を受け取って驚き、今宵の姿をみて得心がいった。藍宗主は閉関以前よりも貫禄が増し男の色香がその身から立ちのぼっていた。威厳が増していた分、ある種近寄りがたさも生まれていた。
     泡のように儚く世から消えようとしていた彼をここまで立ち直らせたのがたおやかで情け深い美女ではなく、皮肉屋で気性の荒い江宗主だったのは恐れ入るが、例の姿絵のように微笑みかけられたのだとしたら曦臣兄様も一念発起して男ぶりもあがるだろう。もっとも夫人は彼に放っておかれてとてもつまらなさそうにしているが。すでに誰もが見慣れた不機嫌そうな表情をうかべている江澄をちらりと横目にみる。
     いつになく着飾った江澄は、自分のもくろみと外れてしまって白磁の杯を片手にとうとうふてくされていた。
     俺はいつもそうだ。期待したら天にも人にも裏切られる。
     蓮花塢へ戻ってから藍渙と文を何度か交わしたが直に会うのは金麟台以来だった。清談会が始まる前に少しばかり言葉を交わしたが、今夜はこの格好で彼と長く語らうのはきわめて難しそうだ。
     まあいい、明日は白蓮蓮を連れて蔵書閣を案内してもらう約束になっている。
     金光瑶の一件以来、蔵書閣へ入るにあたってさらに別の通行玉令が必要になったそうだ。彼が閉関している間にそう変更されていたと文に書かれていた。妥当な対応だろうが、藍渙自身が原因でそうなったのであの人はさぞ心苦しかろうなと江澄は気の毒に思った。
     がらにもなく慰めてやるつもりだったが、古参の人々から縁談話をひっきりなしにもちかけられている藍渙はこんなにも近いのにはるか東の海に浮かぶ東瀛にいるかのようだ。もっとも蓮花湖の主は海などじかに見たことはない。
     あのとき欲望のままに彼を受け入れていたら今彼は江澄の隣で微笑んでくれていたかもしれない。
     望んで選んで進んでいる道ではあるが、選ばなかった道に後悔や未練がまったくないわけではない。あんな絵を見せられてしまったらなおさらだ。
     己の煮え切らなさに呆れも戸惑いもしてそれをごまかすように江澄は味気ない酒をのどへ流すのだった。
    「ところで江兄に会ったらぜひ見せたかった絵があるんだけど、ちょっと見てくれる? 思わず膝まづいて拝みたくなるような興味深い絵なんだけどさ」
    「見ない。俺は絵には興味ない」
     江澄はにべもなく答えた。だが旧友の奥に座っている蓮のかんざしがわずかに揺れたのを聶懐桑は見逃さなかった。
     へええ、と聶宗主は興味深く思った。どうやら彼女もこの絵にまつわる事情をよく知っているらしい。絵師白木蓮が描いた江宗主の姿絵を。
     蘭陵金氏の印刷所を調べたところ、若い娘が江宗主の姿絵と夜叉の姿絵を持ち込んだかと思えば人気が出るや否やすぐなぜか江宗主の原版だけを回収したという。
     なるほど。彼女から詳しい事情を聴かなきゃいけないようだね。
     たった一枚の姿絵もまた、人の心を操るという点において剣どころか陰虎符ほどの威力があると他の世家に知られてしまっては困るからだ。
     彩衣鎮の菊酒に使われる酒は飲みやすいが、酒精が思いのほか強い。それをよく知っている聶懐桑は自分の分を江澄へすすめることにした。
     遠くから太刀筋のような険しい気が飛んできたが彼は扇子を大きく広げてかわした。
     そんなに夫人が心配ならさっさとそこから離れて迎えにくればいい、この臆病者と心の中で義理の兄を軽く罵る。
     あの歩く修士の模範のような義兄は世間体を考えて同性の情人に近づかないのだと聶懐桑は思っていたが、実のところ藍曦臣は江澄との距離をどう取ればいいのかわからなくなっていた。口づけようとしたら自分たちは知己だと拒まれた。かと思えば、今まで見たことのないぐらい華やかに着飾って現れ、晴れやかな笑顔で話しかけてきた。江澄が何を考えているかまったく読み通せなくて藍曦臣は混乱するばかりだった。
     白蓮蓮もまた水のように酒をごくごく飲み干す師に内心、あわわとうろたえていた。
     彼女の師匠は酔っても顔が赤くならない。その分酔っているのかいないのか一見わかりづらいのだ。ごく平然とした様子で懐かしそうに昔話をしゃべっていたら突然卓に突っ伏する。かと思えば何度ゆすっても朝までてこでも動かない。そんなときは蓮蓮たちと何を話したかなどちっとも覚えていなかった。もっとも師父がきまって深酒するのは江厭離様の命日とご両親の命日――雲夢の小さな子供でさえ知っている蓮花塢が温氏に襲撃された日でそれ以外で師父が酔いつぶれた姿を蓮蓮は見たことはない。
     実家が料理屋だから彩衣鎮の菊花酒は酒精がことのほか強いのを彼女は知っている。師父にこんな強い酒をせっせと飲ませて聶宗主は一体何を考えているのだろう、師父もどうして断らずにこんなに酒をあおるのか、若い弟子は困惑していた。
     一問三不知は羊の皮をかぶった狼だから気をつけろと師父が言っていたのに。
     人の輪の中心にいる沢蕪君が「もう飲ませないように」とうるさく視線を蓮蓮によこしてくるがどう対処したものかわからない。師父の代わりに蓮蓮が聶宗主から杯を受け取ればいいが「お前にはまだ早い」と飲酒を師からかたく禁じられていた。
     こんなことになるなら沢蕪君が金麟台にいらっしゃる間金丹で酒精の消し方を教えてもらっておけばよかった。若い修士たちの間で囁かれている噂の真相をせっかく確かめる機会でもあったのに、と歯噛みする。
     そもそもどうしてこちらへいらっしゃらないのだろうと接待とはいえ人の輪から離れようとしない沢蕪君を白蓮蓮はいぶかしく思った。おまけに師父が沢蕪君を見ていないときにかぎって彼はこちらに視線をよこしてくるのだ。まるでこちらとの距離を探っているかのようだ。
     白蓮蓮が師父に激しい雷を落とされたあの夜、二人の仲に決定的な亀裂が入ったわけでもなさそうだが、何かはあったようで、それが原因で師父が沢蕪君のために着飾ってもあの方は師父に近づかずそれに苛立ってしこたま酒を飲んでいるのではないかと弟子は推理してみるものの実際はわからない。師はなかなか胸の内をみずから明かしてくれないからだ。
     若い弟子は師父に気を配ることに集中していて、足元で彼らの様子をうかがうとても小さな影に気付かなかった。紙人形に身をやつした魏無羨である。
     魏無羨は藍忘機の道侶ではあるが藍家の長老方からどの清談会への出席も許されていない。二人の仲は仙門百家はじめ江湖で周知の事実ではあるが、藍家から魏無羨は未だ受け入れられてはいなかった。
     藍忘機によると、宗主に復帰した沢蕪君は藍啓仁やお歴々方に魏無羨が清談会へ出席できるよう掛け合ってくれたそうだが根強い反対の声に押されてしまってやはり叶わなかった。
     常なら静室に大人しくいるが、病み上がりの義弟の様子が知りたくなった――沢蕪君との関係も――彼は藍忘機や姑蘇藍氏のお偉方に見つからないように紙人形になってぬけだしてきたのである。藍忘機には言っておいてもよかったが江澄がからむと夫は機嫌を損ねがちだ。
     江澄の隣に座る娘が着ている青紫色の襦裙に魏無羨は見覚えがあった。師姉が嫁入り前に着ていたものだ。
     おそらく彼女は金凌が先日言っていた雲夢江氏の弟子で江澄が特別目をかけているという娘だ。江澄が療養中金麟台へ花のしずくを運ぶ係兼主管との連絡係を任されていたそうだ。名前も聞いたはずだが魏無羨はすっかり忘れてしまった。
     たしか史上最短記録で結丹した際立った才能の持ち主だと聞いた。たった二年で六芸を一通りみにつけなおかつ門弟の中で群を抜いて秀で、女子ながら剣術と弓術の才がとくに突出しているそうだ。それでいて決しておごることなく師や先輩への敬意を忘れない。おかげで目立ちはしても誰からも好感を持たれているという。けれど、六芸の大会で甘酒を売り歩き馬術武門へ出場するのを忘れてしまったせいで大会の成績は取り消され、大会後の清談会で『出場者は大会中物販すべからず』という規則まで作らせたそうだ。金凌の話を聞いている限りは実に雲夢の自由闊達な空気を纏った娘だ。
     先日合同の夜狩りから宿へ帰る際、金凌が夜市で甘酒を買ってみたところ、六芸の大会で買った甘酒より非常に安い値段だったのに驚いて彼女の話になった。あのクソガキ俺にふっかけやがったと地団太を踏む金凌に魏無羨は噴き出して笑いが止まらなかった。金のお嬢様におかれては雲夢の商人気質に直に触れていい勉強になったことだろう。
     その娘に江澄が江厭離の独身時代の衣を着せて清談会へ連れてくるということは、彼女は将来雲夢江氏の重要な地位に就くと暗に言っているようなものだ。
     大胆不敵な逸話を持ちながらもその大人しそうな顔立ちは、記憶の片隅にある誰かに似ていて魏無羨はひどく懐かしい気持ちにさせられた。江家の血筋ではなくとも魏無羨が育ったかつての蓮花塢に縁のある娘であるのは間違いなかった。
     若い弟子は黙々と酒を飲んでいる師匠を心配そうにみつめている。師の監視が緩んでいる今のうちに、商売用の人脈を作るため宴の会場を歩き回るかと思いきやそうではないらしい。
     まだ子犬だが江澄にとってこれはまたとない忠実な番犬だと魏無羨は思った。番犬には噛みつかれても吠えられても面倒だから、やはり犬にはなるべく近づかないにこしたことはないだろう。
     少女は給仕におかわりを頼む聶宗主をみて卓から立ち上がった。もう我慢ならないという様子だった。細い白磁の酒瓶を両手にもって笑顔で聶懐桑の卓の前に立つ。
    「聶宗主。僭越ながら不肖の弟子から一献宗主へ差し上げてもよろしいでしょうか?」
    「ふふ、そうだねそろそろいい頃合いだ。ねえ、江兄。愛しの曦臣兄様があなたを待っているよ。早く行ってあげたら?」
    「うん? しーちぇん? 誰だそれ?」
    「……ああそういうことか。藍渙だよ藍渙兄様。江兄、あなたの大好きな人でしょう。ほらあっちにいるよ。早く迎えに行かなきゃあなたの夫君(フージュン。旦那様の意味)はじじいどもに連れ去られて帰っちゃうよ」
     聶懐桑はそうやって江澄の耳元でささやき彼をそそのかした。
     江澄は椅子から立ち上がると、ずいぶん酔いが回っていたらしくゆらゆらと体を左右に動かしながら沢蕪君の方へ歩いていく。白蓮蓮は当然支えにいこうとすると、懐桑が後ろから強い口調で引き留めた。
    「おっと、君は僕にお酌してくれるんじゃなかったの? 白公主」
     ぎょっとする娘に大世家の宗主は扇子の奥でうっすら笑った。
     なるほど江澄を囮にして本丸は彼女の方だったか。
     座学時代年上でしっかりもので巨乳の仙子が好みだと彼は言っていたので、あんな年端もいかない娘に本気でお酌してもらいたいはずはない。さてどういう動機であの狼は子犬にじゃれつこうとしているのだろう。
     同門の先輩としてここは困っている後輩に手を差し伸べてやるべきなのかもしれないが、羊の皮をかぶった狼の罠にそうやすやすとひっかかっているようじゃ江澄を守れないぞと魏無羨は心を鬼にすることとした。あの腹黒い狼は、将来江澄の飼っている子犬を目障りだと思うかもしれないが今すぐここで命までは取るまい。
     おぼつかない足取りの江澄の裳裾へ、紙人形の魏無羨は引っ付き虫のようにくっついていく。
     江宗主が椅子から立ち上がるのを見るなり、沢蕪君はすかさず人垣をかきわけて彼の前に立った。江澄はためらうことなく寄りかかって、その広い肩に額をすりよせる。
     あの人を寄せ付けない江宗主が酔って沢蕪君にしなだれかかっている。沢蕪君も彼を突き放すことなく抱き寄せている。見てはいけないものを見てしまったような微妙な空気が場内を流れた。
     周囲の好奇と緊張が入り混じった視線をよそに江澄は呑気に大きな欠伸をした。
    「藍渙、眠い。部屋へ送ってくれ」
    「清談会であんなに飲み続けるなんて君らしくもない」
     藍宗主は不機嫌もあらわに言った。それからごく当たり前のように江澄を公主抱っこした。江澄も怒るわけではなく彼もまたごく当たり前のように沢蕪君の首に腕を回した。
     このとき、静かなそれでいて大きな衝撃が宴会場に走った。藍湛など呆気に取られているし藍啓仁は茶杯を手から落とした。会場のあちこちで床に固いものが落ちて割れる音が聞こえる。魏無羨は彼の兄が江澄に恋している話を藍忘機にはまだ伝えていない。
    「江宗主はご気分がすぐれぬようだ。私は彼を客坊まで送ってまいります。みなさんは引き続きご歓談をお楽しみください」
     江宗主を抱え上げたまま、藍宗主は参加者に一礼すると宴会場を後にした。


     外に出れば、さめざめとした涙が流れているかのような雨音が耳を打った。吊るし灯篭が二つの影を青白く浮かび上がらせる。
     沢蕪君は渡り廊下を進み会場からそう離れていない江澄の客坊に着くと、彼を寝台におろし呪符でろうそくに火を灯した。魏無羨は物陰に隠れて二人の様子をうかがうことにした。
    「せっかくのきれいな衣が皺になる」と寝台の脇に腰かけた沢蕪君は呆れたような怒っているような口調で言うと、江澄の上半身を起こして衣を脱がせようとした。
     すっかりうたた寝していたらしい江澄は不満げにひとつ唸り声をあげると、閉じていた紫紺の瞳を大きく開き、意外そうにまたたかせた。
    「うん、藍渙。なぜあなたがここにいる? あーそうか、これは俺の夢か。夢ならあなたにこうしてもかまわないよな」
     そう言うなり、江澄はなんと沢蕪君の頬を両手で挟むと自分から口づけしたのである。沢蕪君は石像のように固まった。江澄は膝立ちになると、衝撃を受けている彼を見下ろして小さく舌打ちした。
    「おいそんなに驚くなよ? 俺の夢なんだから、あなたは俺に口づけられたらもっと嬉しそうな顔をしろ」
     理不尽極まりないことを命じられ沢蕪君は愕然としている。江澄の意図を図りかねているようだった。しらふのようにみえて瞼が重そうなのでおそらくは酔っ払いの戯言なのだが、きっと沢蕪君は泥酔した者に絡まれ振り回されたことなど一度としてないのだろう。
    「江澄」
    「待て待て藍渙。俺の夢ではあなたは俺のことを夫君と呼べ」
     お前は何もわかっていないなと言いたげに人差し指を振る。
    「ふ、夫君?」
    「ふふそうだ。よく言った。褒美をやろう、藍渙」
     言う通りにしてもらえて気をよくしたのか、江澄は口づけの嵐を沢蕪君の顔中に浴びせた。かかる息が酒臭かったのか、沢蕪君は一瞬眉を寄せたが手はしっかり江澄の腰にそえている。
     実をいうと、酔っぱらった虞夫人が江おじさんに同じことをしていた場面に幼い魏無羨は遭遇したことがある。夫人は日ごろの気性の荒さはなりを潜め別人のように愛を囁いていたが江おじさんはすっかり腰がひけてむしろ夫人の醜態にうんざりしているようだった。  
     据え膳食わぬは男の恥と言うが、愛を語ってもらうなら素面が嬉しいだろう。けれど酒の力がなければ自分の気持ちを表せない人たちもいるのだ。恋仲になる前の酔っぱらった夫の姿を思い浮かべる。心が通じ合った今はもう素面で魏無羨を身もだえさせるような愛を彼に毎日囁いている。
     藍曦臣もあのときの江おじさんや魏無羨のように酔っ払いに驚き戸惑っている。『うちの江澄がご迷惑おかけしてすみません』と彼は少し申し訳ない気持ちになった。
    「江澄」
    「だーかーらー、ここでは俺のことは夫君と呼べと言っただろう。同じことを二回言わせるな」
     言うこと聞かない奴にはこうだと、頬を寄せたり伸ばしたりと撫で繰り回した。
     江澄はあの世家公子格付け一位の顔を好き放題変形させてげらげら笑っている。もし魏無羨は酒を飲んでいたら江澄と一緒に笑い転げていただろうが、素面の彼は「江澄お前沢蕪君相手になんつう無礼なことをしているんだ」と青ざめるほかなかった。愛想つかされても知らないぞ。
     沢蕪君は江澄の両手首を静かにつかんで顔から外させた。幸いなことに彼は江宗主の暴挙にちっとも怒ってはいなくてむしろ触れられて嬉しそうだった。目に入れても痛くないといったところか。
    「はい、すみません。夫君」
     沢蕪君はそのまま江澄の手を引いて寝台に座らせると、その背中に腕をまわし頭の後ろに手をやるなり強く引き寄せた。二人の間に一分の隙間も作ってたまるものかといいたげに。
     みるからに深い口づけだ。
     舌が絡み合う音が耳に響いて魏無羨は背中がぞわりと粟立った。
     これは、沢蕪君は江澄に相当惚れこんでいるようだった。江澄も江澄で彼に遠慮なく甘える様子といい、金麟台で二人はすでに恋仲になっていたようだ。
     魏無羨は江澄の濡れ場に遭遇して大層いたたまれない気分に陥った。実の両親のそういう場面に出くわすよりもずっと気まずい。
     相手はおまけに伴侶の実の兄だ。おっぱじめられでもしたらどうしようかと、人にも夫にも恥知らずと言われがちな彼が柄にもなく顔を赤くも青くもさせた。
    「おい、俺の夢なのになんでこんなに息苦しいんだ?」
     江澄が沢蕪君の胸を両手で突き放すと、口回りの唾液を乱暴にぬぐって顔をしかめた。みるからに不満そうだ。どうやら完全に酔っぱらって夢と現実の区別がついていない。そもそも酒のせいで前後不覚になっている江澄など魏無羨は初めてお目にかかった。
    「夫君」
     沢蕪君のほうは熱のこもった切なげな声で江澄を呼んだ。彼をこんなに煽ったのは江澄である。酔っているとはいえこんなにも江澄の方から沢蕪君を求めているのだから、このまま江澄を組み敷いて交合しても沢蕪君に非はあるだろうか。魏無羨はむしろこの状況でも江澄を素っ裸に剥がない彼の理性に感心していた。
    「これはいらないな。ここでは邪魔だ」
     一方、これが夢だと思っている酔っ払いは、沢蕪君の滝のように流れている後ろ髪の上を、二匹の白い龍のように飛んでいる抹額の一方に手を伸ばした。そして何も知らない幼子のように遠慮なくぎゅうぎゅう引っ張った。
     江澄お前やばいってそれ。魏無羨は声にならない叫びをあげた。
     さすがに憤慨するかと思いきや沢蕪君はその無礼な行動に怒ることもなく、言われた通り片手を江澄の腰に回したまま片手を結び目にのばし抹額を自らほどいた。何らためらうことなく。巻雲紋が入った長く白い霊器はしゅるしゅると音を立てて床にただの布のように伸びた。
     魏無羨は、本気かと天を仰ぎそうになった。
     それは姑蘇藍氏の者にとって心の帯を外すに等しい行為で、両親や伴侶にしか触れさせずその前でしか外さないものだ。つまり、沢蕪君は江澄を生涯の伴侶と心にすでに決めているのだ。
    「こんな鉢巻きつけてない方がずっと男前じゃないか」
     江澄は沢蕪君の丸裸になった心を見せてもらえて上機嫌である。
     自然な流れでふたたび二人は口づける。さっきほどよりもより長くより深く。
     透明な糸をひかせながら唇を離すと、江澄はとろんとした表情を浮かべ沢蕪君の肩に顎をのせた。安心しきったように瞳を閉じる。
     魏無羨は彼と長く一緒にいたがこんなに誰かに心許している姿を見たことがなかった。
    「江澄、君は私のことをどう思っている?」
     沢蕪君は幾分緊張した声で、ふたたび寄りかかってきた江澄に問いかけた。
     え、今更そこなの? 魏無羨は拍子抜けした。彼らはすでに想いを交わしあったわけではないのか。江澄など自分のことを沢蕪君に夫君とまで呼ばせているのに。お互いの心は火をみるより明らかだった。
    「ううん、どうって?」
    「君は知己に口づけするのか?」
     責めているような怒りを抑えているようなどちらともつかない声音に江澄は藤色の瞳を開けようとするも、瞼は重くのしかかっていて彼はまさに夢の中へ入ろうとしていた。日ごろ口を開けば皮肉ばかりの彼はいつになく穏やかな口調で言った。
    「まさか。知己にするわけないだろう。俺は、あなたが好きだからあなたに口づけした。これは俺の夢だから俺は俺の好きなようにあなたに触れているんだ」
     沢蕪君の背中に回した腕に力をいれる。ひねくれものの江澄は、酒の力でこれは夢だと信じて疑わないせいか、たやすく心情を打ち明ける。ひょっとしたら夢の中でしかこいつは人を恋しいと伝えられないのかもしれない。
    「江澄」
    「あのとき俺たちは知己だって言ったのは嘘だ。もしあなたがただの絵師だったら、あのときあなたを受け入れて雲夢へ連れて帰った」
     喉へ息を吸い込む音が大きく聞こえた。
     沢蕪君がどんな表情を浮かべているのかは江澄の陰に隠れてわからない。江澄はふたたび瞳をふせた。
    「あなたが何も背負ってなかったら俺たちはともに暮らせたが、藍家を背負っているから俺はあなたと出会えた。この世はまことままならぬものだな」
     はっ、とあざけるように鼻で笑った。彼が笑うのは家というしがらみなのか、しがらみから離れられない自分なのか。
     江澄はそれから頭を沢蕪君の肩にうずめてぐりぐりこする。涙を拭いているかのようだった。
     そのまま二人は離れるのを惜しむようにずいぶん長いこと無言で抱きしめあっていた。
     やがて江澄の規則正しい寝息が聞こえてきた。
     沢蕪君は上衣を脱がせ髪冠を外させて寝台に横たえさせた。床に落とした抹額を拾い元通りにしっかり結ぶと彼は静かに彼ら二人以外誰もいないはずの部屋へ呼びかけた。
    「魏公子、いるんだろう?」
     沢蕪君に声をかけられ魏無羨は飛び上がりそうになった。ばれていたのか。
     藍曦臣は足元へひょこひょこと現れた紙人形を掌にのせて肩の上においた。客坊を出て宴会場へ戻りながら彼は前を向いたまま紙人形に語りかけた。
     雨はさきほどよりも激しくなっていた。どしゃぶりの雨は闇をより深くする。
    「魏公子。君には感謝するよ。君がいてくれたおかげで私は眠る江澄を抱きかかえて雲深不知処を飛び出さずにすんだ」
     やけに柔らかい口調は、まるで君さえいなければそうできたと言いたげだ。
     魏無羨は一瞬喉に鋭い刃を突き立てられたようで心底寒気がする思いだった。これは雲深不知処へ冬が近づいているせいでは決してない。
     彼の夫に勝るとも劣らない激情をその兄も抱えているようだ。けれど底冷えのするまがまがしさは彼の夫である藍忘機にはないものだ。
     藍家の血筋といえば簡単だが、姿絵の夜叉が魏無羨の脳裏を横切った。
     なぜだろうか、世をせせら笑うあの夜叉こそが金光瑶を藍曦臣の元へ呼び寄せ数々の惨劇を招いたようにも思えた。誰もが尊敬する聖人君子沢蕪君から長年抑圧されていた彼を解き放つために。
     だが、江澄は沢蕪君が夜叉になることをおそらく望まないだろう。
     さきほどの会話からすると、江宗主はどうやら自分への恋情を優先させて彼に藍家を捨てさせたいと思っているわけではないようだ。
     もし藍曦臣が次男だったらそれは可能だったかもしれない。そしてもし藍忘機が長子で藍家の宗主だったら、自分は藍家の長老方に問答無用で雲深不知処を追い出されていただろうと魏無羨は思った。それどころか藍忘機は不夜天で夷陵老祖を助けた後、一族によって一生幽閉されたかもしれない。
     藍曦臣が長子で宗主であったので、藍忘機が自由に動けた面も少なからずあるだろうし彼が宗主だったがゆえに悲劇も起きた――やめよう、いくつもの『もしもあのとき』を思っても過去は変えられない。変えられるのは常に未来だけだ。
     江澄は自分の望みよりも家の未来を優先してしまうのだろう。家をつなぐ存在として育てられ本人もとても意識していたから。
     もし彼の父親、江おじさんが存命ならきっと今の彼にこう告げると魏無羨は思った。
    『明知不可而為之』と。家よりも己の望みに従って生きるようにと息子を諭したかもしれない。けれど、もう彼はこの世にはいないし存命だったとしても意地っ張りの江澄がその言葉を聞き入れるかどうかもわからない――あなただって望んだ結婚をしなかっただろうとでも言って、父親を虞夫人のように詰るかもしれない。
     観音廟で『お前はなんでも俺より上だ――だったら俺はなんなんだ!?』と江澄は声を荒げて問うてきた。
    『青取之於藍、而青於藍』(青は藍より出でて藍より青し:弟子が師より優れるという意味)という格言から すると、魏無羨はたしかに青だろう。しかしながら青から藍は生まれない。江澄は色彩を生む側、世界を彩る無数の青を育む藍の側であるはずなのに彼はまだそれに気づいていなかった。もともと立っている位置が最初から違うのに魏無羨に嫉妬するなんて心底馬鹿らしいことなのだが、虞夫人に叱責されている場面や魏無羨の出生に関する心無い噂を思い出せば彼の心はおそらく魏無羨が蓮花塢へ来てからずっと追いつめられていた。
     それでも負けず嫌いのあの男が、魏無羨よりも早く結丹して六芸に秀で商魂たくましい娘に嫉妬することなくそばにおいていると聞いたとき、自身が幾千幾万もの色彩を生み育む立場であることをようやく理解してくれたかもしれないと期待した。だが今度はその立場に縛られているようだった。
     どこまでも不器用な奴。
     江澄がその心のつぶやきを聞いていたら、お前が器用で潔すぎるんだと怒鳴り返していたことだろう。
     灯篭の青い光が冷たい風雨の通る闇をぼんやり照らす中、渡り廊下の向こうから夫がこちらへ寄ってきた。彼にも魏無羨がとっくにあの会場にいたことがばれていたようだ。
    「魏嬰」
     呼ばれて魏無羨は沢蕪君の肩から夫の肩へすっと飛び移った。今見てきたもの感じたことを彼にすべて話したくてたまらない。沢蕪君も少年たちにかけたような禁言術を魏無羨にかけるそぶりもない。彼は弟に江澄への恋情を知ってもらいたがっていた――つまり、藍宗主の地位を辞したがっていることを。
    「兄上。私たちは先にさがらせていただきます」
     紙人形に耳たぶを引っ張られて何かを察したらしく、藍忘機は兄に拱手した。
     沢蕪君は一つ頷くと、同じようにゆったりとした足取りで宴会場へ戻った。

     戻った藍曦臣が最初に目撃したのは、江澄が座っていた席の近くにできている人だかりだった。
     彼らの中心にいたのは、酒瓶の割れた残骸とともに「知りません、知りません。わたしなーんにも知りません!」と床に座り込んで大泣きしている白蓮蓮と珍しく険しい表情を浮かべて座っている聶懐桑だった。
     次の朝、二日酔いで頭を抱える江澄からは「昨日俺はいったい何をしたんだ? 何を言っていた? あなたに迷惑をかけなかったか?」と蔵書閣で小さな声で矢継ぎ早に問われた。藍曦臣はあいまいに笑ってどの問いにも答えなかった。
     彼の中の夜叉はこう囁いた――生涯忘れられない夜にしてやればよかったのに、と。

     雲夢江氏の宗主と若い弟子はしばらくの間、そろって酒癖の悪い師弟だと仙門百家で噂になった。
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