かすかな物音と人の気配に目を覚ました。寝返りが打てない狭さに自分がソファーで眠ったこと、それから芋づる式に昨日の夜のことを思い出す。じわりと痛む頭を押さえながら目を開いた。
物音はキッチンの方から聞こえたと思う。おそらく食器を洗っているのだろう、テーブルの上に置いたままだったはずのグラス類が全てなくなっていた。体を起こし「浮奇」と発した声は寝起きですこし掠れてた。
「ん! おはようふーふーちゃん、ちょっと待ってて」
「ああ、いや、いい。俺がそっちに行くよ」
寝癖で乱れた髪を適当にかき上げながらキッチンに顔を出し、洗い物をして手を濡らしている浮奇を見つけた。化粧をしていない顔は昨日の夜も見たけれど、あの時は気を紛らわすために酒を飲んでいて、素面で見てもやっぱり可愛いなと確認する。手を伸ばして顔にかかる髪を耳にかけてやると浮奇は俺のことを睨んだ。
「悪い、つい」
「……いいよ、ふーふーちゃんにされて嫌なことなんてないし。けど、……あーもう、あんまり簡単にそういうことしないで」
可愛いと言葉にしてしまいそうで咄嗟に自分の口を押さえると、洗い物を終えて手を拭いた浮奇が訝しげな顔で首を傾げた。咳払いで誤魔化し、雰囲気を変えるため別の話題を振る。
「あー、浮奇、今日の予定は?」
「休みだから何もないよ。ふーふーちゃんは? 今日はお店開ける?」
「浮奇が店で飲みたいなら」
「……それって、さ、ここでふーふーちゃんと二人で飲みたいって言ったら、それでもいいの?」
「……もちろん?」
「じゃあ一回帰る」
「え?」
「服着替えたいし化粧もしたいもん。でもまたすぐ来ていい? お昼一緒に食べようよ。何か他に、映画見るとか、なんでもいいから、ふーふーちゃんと一緒にいたい」
「……わかった。駅まで送る」
「うん、迷子にならないようにちゃんと道覚えるね」
「覚えなくてもいいよ。迎えにくらい何度だって行ってやる」
そう言って笑うと浮奇は拗ねた顔をして上目遣いで俺のことを見つめ、ちょんと服の端を引っ張った。「どうした?」と顔を覗き込めばぎゅっと体を抱きしめられる。何か言う前に浮奇は逃げるように寝室へ引っ込んでしまい、キッチンに一人残された俺はしばらく立ち尽くした。……あー、オーケー、あとでやり返してやろう。
しばらくの間リビングで待っていると静かに寝室の扉が開いて浮奇が顔を覗かせた。バツの悪そうなその表情に思わず笑って、おいでと手招きをする。
「ごめんなさい……」
「怒ってないから謝る必要はない。……一応、聞いておくけど」
「うん……?」
「浮奇は誰彼構わずああいうことを?」
「は、……しない! しないよ! ……ふーふーちゃんだから、抱きしめたくなったんだもん」
なあ、わざわざ一度家に返す必要があるか? このままここで二人で何か食べて、映画を見て、夜になったら浮奇の好きな酒を作って酔わせて、……酔ってなくたって可愛いことを言い出すようになったこの子が昨日みたいに酔ったら、どうなるんだろう。
「ふーふーちゃん……?」
「……なんでもない。もう行けるか?」
「うん。……待っててね、すぐ戻ってくるから」
「……ああ、待ってるよ」
浮奇の思わせぶりな態度を真に受けないように気をつけていたのに、昨日の酔っ払った浮奇の言葉はあまりに一途で、忘れてとお願いされても聞き入れてやることはできそうになかった。「だいすき」だなんて無垢な言葉をこの歳になっても言われることがあるとは。この歳になっても、その言葉がただただ嬉しいとは。
家を出て大通りまで並んで歩く。そういえば浮奇の隣を歩くのは初めてかもしれなかった。カウンターのむこうでもソファーの隣でもない、俺より少し低い位置から俺のことを見上げて幸せそうに笑う子の存在で、街の様子すらいつもと違って見える気がして自分に呆れる。初恋でもないのに、あまりに恋愛と離れてしまっていたからだろうか。
駅で分かれた時、何度も振り返って俺と目が合うたびに手を振る浮奇が可愛くて、緩みそうになる顔に力を入れて彼を見送った。ああ、年甲斐もなく浮かれてる。もう浮奇のことをただの店の客や飲み友達とは思えなくて困った。
インターホンが鳴ったのは昼前だった。読んでいた本を閉じてテーブルに置き、玄関まで行って扉を開ける。そににはメイクも髪型も綺麗に飾り立てて美しくなった浮奇が買い物袋を下げて立っていた。
「お待たせ」
「……おかえり、浮奇」
「あ……えっと、……ただいま? えへへ、ね、食材買ってきたから俺がお昼ごはんを作ってもいい?」
「ほとんど使っていないから俺には使い勝手も分からないけど、それでもよければ」
「うん! まずはふーふーちゃんの胃袋を掴んでやるから、覚悟しといて!」
まずは、って、他にも何か段階を踏むつもりだろうか。すでにおまえに支配されているところは多いのだけれど。
朝と同じようにキッチンに立った浮奇は荷物の中からエプロンを取り出してそれを身につけた。腰の後ろで結ばれた紐が浮奇の腰のラインを際立たせる。自分の家で、好きな子がキッチンに立っている。悪くないシチュエーションだ。俺のほうを振り向いた浮奇が機嫌良さそうに「なぁに?」と首を傾げた。
「なんでもないよ。見ていてもいいか?」
「料理に興味ないんじゃなかった?」
「料理にはあまり興味はないな」
「ふふ、じゃあ俺のことでも見てるの?」
「ああ」
「……わお。……ふーふーちゃん、酔ってる?」
「昨日の酒はスッカリ抜けてるよ」
「だよね。……あー、えっと、……ごはん、つくる」
「……ああ、よろしく」
昨日から何度も同じ顔を見る。俺のことを瞳に映して、開きかけた唇をすぐに閉じる仕草。何かを我慢しているような、焦がれているような心惹かれる表情だ。何か言いたいことがあるのだろうか。浮奇が言いたくないのなら無理矢理言わせたいとは思わないけれど、言いたいのに我慢しているのなら、多少強引にでも言わせてやりたいな。
宣言通り料理をする浮奇を少し離れたところから見続けて数分。手際よく食材を刻んだり鍋に入れたりしていた浮奇の手がピタリととまり、彼は「あぁー」と大きく息を吐いた。どうしたのかと瞬きをする俺を浮奇が振り返り、すこし赤くなった顔で睨みつけてくる。
「無理だ」
「……? 何が……?」
「集中できない。ふーふーちゃん、お腹空いてる?」
「まあまあだけど、どうした?」
「言いたいことがあるんだ。本当はごはんを食べたあととか、お酒飲みながらとか、タイミングだって気にしたかったんだけど、でももう今すぐがいい」
「ああ、ええと、……どうぞ?」
「俺、ふーふーちゃんが好き。大好きなんだ」
「……、あ」
そうか、昨日から浮奇が言おうとしていたことはこれか。俺の背中で酔っ払った浮奇からも聞いた言葉だけれど、真正面から目を見て言われるそれの威力はすさまじいものだった。間抜けに口を開けたまま浮奇を見つめ続けて、浮奇も何も言わずに俺を見つめ続ける。
……ああ、俺も、何か言わないとか。
「……うき」
「っ、うん」
「……ありがとう」
「……、うん」
「…………あー、えっと」
「……ごめん、やっぱり、迷惑?」
「は? なんでそんなこと、……あ、違う、おまえに好きと言われて困っているわけじゃなくて。なんて言えばいいか悩んで」
「そんなの、……そんなの、ふーふーちゃんも、好きって言えばいいじゃん……」
俺の反応で目を潤ませていた浮奇はそう言いながらとうとう涙を零してしまった。宝石のように綺麗なそれが床に落ちて散ってしまうより先に、俺の手は浮奇の肩を掴んで腕の中へと抱き寄せた。昨日背負った感覚より小さく感じるのはなんでだろう。
「優しくしないで……」
「無理だ。好きな人が目の前で泣いていて放っておけるか」
「……ま、まって、いま、なんて」
震えた手で俺の肩を押す力はうんと弱かったけれど、俺も顔を見たかったから少しだけ身体を引いた。涙で濡れた顔で目を見開いて、浮奇が真っ直ぐに俺を見つめる。涙の溜まった目元を擦らないよう指先で優しく拭ってやるとぎゅっと目をつむる仕草が可愛かった。
「好きだよ、浮奇。言わせてばかりでごめんな?」
「……夢じゃない?」
「夢でも嘘でもない。頬でもつねってやろうか?」
「つねって」
浮奇の柔らかい頬をつまんで伸ばす。餅みたいに伸びるのが可愛くて笑えば浮奇もへにゃっと気の抜けた笑みを浮かべた。
「ねえ、じゃあ、俺はこれからふーふーちゃんに甘えてもいいの?」
「もうだいぶ甘やかしてると思うけど?」
「もっと。俺だけ、一番甘やかして」
「……オーケー?」
「えへへ、ふーふーちゃんも俺に甘えていいよ。ふーふーちゃんならハグはいつでもフリーだからね」
「フリーなのはハグだけか?」
「……あと、なにがほしい?」
「どうだろう、思いついたら言うよ」
「ねえ! もう、イジワルしないでよ!」
おまえの拗ねた顔が可愛くて仕方ないんだよ。大人げなく揶揄って反応を楽しんでしまうくらいに、浮奇の前では格好がつけられない。それでもそんな俺を浮奇が好きと言ってくれたんだから、それでいいんだろうな。
俺の胸をトンと叩いた浮奇の拳を掴んで、もう片方の手で背中を抱き寄せた。浮奇が顔を上げたままでいてくれたから俺が俯くだけで簡単に顔が近づく。目を見開く浮奇と距離を詰めて、額をコツンとぶつけた。
「キスはフリー? 何か支払いが必要か?」
「……フリーだよ、いつでも、好きなだけ」
色味の違う煌めく瞳が俺を写して、それからそっと瞼が閉じられる。瞼もキラキラと輝いていることに今さら気がついた。どこを見ても美しい男が、俺みたいな何でもない男に惚れているなんて。
目を閉じながらそっと重ねた唇は同じ男のものとは思えないくらい柔らかく、すこし離してからすぐにもう一度キスをしてそれを舐めてみるとわずかに甘い味がした。ここに来る前にお菓子でも食べてきたのか? 止まってしまった俺の舌を浮奇の舌が迎えにきて、絡め合う気持ちよさに味のことなんて吹き飛んでしまう。
「ん……ふーふーちゃん……。……ふ、へへ、こんなに気持ちいいキス初めてだ。ふーふーちゃんのこと大好きだからかな?」
「……浮奇」
「うん」
「いつでも、好きなだけ、フリーだって言ったよな?」
「……うん? 足りない?」
「足りない」
「うわぉ……。初めてそんな顔見せてくれたね、すごく嬉しい。もちろん、好きなだけ」
そんな顔ってどんな顔だ。好きなヤツに煽られて、キスがしたくて仕方ない情けない男の顔か。浮奇の拳を掴んでいたはずの手はいつのまにかてのひらが重なって指が絡まるように繋がれている。背中を抱き寄せていた手で浮奇の後頭部を支え、後ろに逃げてしまわないように押さえた。好きなだけ、ね。
どれくらい時間が経ったか、はぁはぁと呼吸が荒くなった浮奇を見てキスを止めると浮奇はその場で小さくしゃがみこんでしまった。俺もしゃがんで浮奇と視線を合わせる。
「悪い、つい、夢中になった」
「……ふ、は、それはよかった」
「嫌な時はちゃんと言ってくれ。おまえに嫌われたくない」
「……そんな簡単に嫌いになんてならないよ。ふーふーちゃん、なんでそんなに可愛いの?」
「は? 可愛いのはおまえだろ」
「え! 俺、可愛い!?」
「……かわいいよ。俺は浮奇のことが好きなんだ、可愛いに決まってる」
「うん? 可愛いから好きなんじゃなくて、好きだから可愛いの?」
「ん? どういうことだ?」
「ふーふーちゃんがそう言ったでしょ?」
「どっちが先とかないだろう。俺は浮奇のことを好きで、可愛いと思ってる」
「……もう、今日、だめかも。オーバーキルだよ、わかってる?」
「はぁ? ……可愛いって言うのがダメなのか?」
「そうだけどそうじゃなくて、……ふーふーちゃんのこと、大好きだから、幸せ過ぎて泣いちゃいそう」
「泣いてる顔も可愛かったけど、笑ってる浮奇が好きだよ」
「……本当になんにもわかってないな、バカふーふーちゃん」
また泣きそうに目を細めて微笑み、浮奇は俯いて顔を隠してしまった。泣き顔も可愛いって言ってるんだから、見せてくれたっていいのに。数回頭を撫でて手を下ろすと「もっと」と甘えた言葉が聞こえたから、浮奇が泣き止むまで頭を撫で続けてやった。
くぅっと俺の腹が鳴って浮奇が笑い声を溢し、ようやく顔を上げてくれる。少し赤くなった目元も浮奇の美しさを際立たせるだけだなんて、どこまでも隙がない。立ち上がり作りかけの材料が転がるキッチンを見て浮奇はふふっと笑った。
「ごはん遅くなっちゃったね。すぐ作る」
「何かデリバリーを頼もうか?」
「せっかく材料があるから作らせて。とりあえずパンがあるからそれを食べて待っててくれる?」
「……出来上がるまでくらい待てる」
「ふーふーちゃんのお腹が待てないって言ってたよ」
「浮奇が作ってくれたごはんでお腹いっぱいになりたい」
「……ん、じゃあ、ちょっとだけ待ってて。また俺のこと見てる?」
「キスをしたくなりそうだからむこうに行ってる」
「あはは、オーケー。ちゅってするだけなら、……だめかな、俺ももっと欲しくなっちゃうし。一番最初は凝った料理を作ってふーふーちゃんのこと驚かせたかったんだけど、簡単にできるパスタとかでもいい?」
「なんでもいいよ。手作りの料理なんて久しぶりだし、浮奇が作ってくれたものならなんでも嬉しい」
「……もう一回ハグさせて」
「言い忘れてたな、俺もハグとキスはフリーだよ」
ぎゅっと俺に抱きついて数秒で浮奇は満足して離れてしまったけれど、そんなんじゃ俺のほうが物足りない。とはいえ料理をする浮奇の邪魔をするわけにはいかないから我慢してリビングに移動した。料理ってどのくらい時間がかかるのだろうか。簡単にできると言うが俺の思う簡単と浮奇の簡単はすごく差がある気がした。
本を開いてみたところで集中できるわけもなく、俺は目をつむって浮奇の立てる物音に耳を澄ませた。包丁で何かを切る音、鍋の中で跳ねる油の音、お湯が沸騰する音。料理の音なんて聞くのは何年振りだろう。しばらくすると物音に混ざって楽しげな鼻歌が聞こえてきて、俺は声を潜めて笑った。
もしかすると今日は、俺の人生で一番幸せな日かもしれない。