曦澄処女作 ゆっくり、ゆっくりと深いところから自分に還るような感覚だった。
朝だと気づく前に思い出すのはあの人の事と昨夜の事。鮮やかに蘇る睦言――激しくだらしなく求めて求められた熱い夜――に全身がこそばゆくなる。
「おはようございます、阿澄」
「ん…藍渙」
初心な乙女にでも振れるかのように、優しい手つきで俺の頬に触れる。昨夜はあんなに熱烈に愛し愛されたのをもう忘れたのか。
何度か頬を撫でると、悪戯な指は今度は俺の唇で遊びはじめた。上唇をなぞり下唇へ、親指で唇を押して離して……なんだか焦れったくてくすぐったくて、けれども余裕そうに微笑む男から睨みあげる。
「ふふっ、そんなに可愛い顔をされると困ります」
「なにが可愛いだ。全く、一体どう困るっていうんだ……」
横で肘をついて寝転がっていた藍渙が前屈みになり少し近く。手のひらが視界を遮ると、唇に柔らかな感触。ちゅっ、と可愛らしい音を立てて名残惜しそうに離れた。
藍渙の艶やかな髪が俺の頬を撫でる。視界が開けると美しく、そして恐ろしく整った顔がある。嗚呼、流石、世家公子の風格容貌格づけ 第一位だ。
「離してあげられない。愛することを止めてあげられない」
その瞳に吸い込まれそうになるくらい目が離せない。囚われ、愛される。
この世界で誰もが憧れる男が俺の手の中にいる。この甘美な優越感は誰にも譲らない。この気持ちもこの男も、三千世界で、これまでもこれからも俺だけのものだ。
「可愛い…仕方ない。俺の夫は我儘だな 」
「ふふっ、許してくれるんですね」
返事の代わりとして髪を梳いて口付ける。彼はそれでは物足りないようで、朝から淫らに求めてくる。昼間は性の香りなんて漂わせない清廉潔白な男なのに、此処では別の顔を見せる。何処まで魅力的な人だ。
こんなに穏やかな朝はいつぶりだろうか。普段、朝は慌ただしく過ごすものだから、なんだか罪深い様な気がしてしまう。
「ふわぁ…んぅ」
昨夜、と言っても彼が俺を寝かせてくれたのはもう東の空が白み始める頃だった。欠伸が零れてしまう。
気を引き締めないといけないな。そろそろ身支度をするためにここから離れないといけない。寂しくて恋しいが、その前に背後の愛しい人にもう一度触れたい。
振り返ると、俺の欠伸につられて欠伸する藍渙がいた。驚いた、あの沢蕪君も欠伸をするのかと。そうは言うが藍渙の欠伸は豪快に大口を開く俺のものとは異なり、お上品な深い溜め息みたいなものだった。
「驚いた…あの姑蘇藍氏も欠伸をするのだな」
「眠くはありませんが貴方につられてしまいましたね」
嗚呼、幸せだなぁと噛み締める。緩む頬が抑えられない。こんな可愛いことをされて離れ難い、いやここで離れて堪るものか。ふらふらと誘われてやる。彼の胸に還ろう。
一人だと、こんなこと起きない。二人だから起きる幸せだ。
藍渙の欠伸に誘われて、ゆらゆらとまた彼の元へと帰る。俺の決意もこの人の前では簡単に覆されてしまう。
「おかえり、阿澄」
「早い帰りだったな」
俺の帰るところは此処だ。誰にも譲らない。
「いつか…」
「はい」
「いつか役目を終えたら旅に出るか。魏無羨の様に自由に気の赴くままに旅がしてみたかった」
「お供しても?」
「勿論、貴方がいなくちゃつまらない」
遠いいつか旅路を違えても終えたとしても、最後に還るのは貴方の元がいい。ずっとこれからも囁かな二人ぼっちを分かち合いたいから。
出来ればその先も生まれ変わっても、ずっと。その度、傷付いて思い悩んで恋に堕ちて惹かれ合おう。
運命なんて信じない俺が、貴方となら少しは信じてやってもいい気がした。