coeur rouge「先輩が学生の頃って、どんなことが流行ってましたか?」
仕事中の雑談で、江澄と同じチームの女性の後輩が江澄に話題を振ったのがきっかけだった。
ここで出ている流行りというのは、一般的な流行ではなく『いわゆる恋人同士になったらみんなやっていたこと』だ。
「俺はそういうのに疎かったから同年代の奴らがどんなことをしていたかはよくわからん。そういうお前の頃は何が流行っていたんだ?」
江澄は面倒になって、話を振ってきた後輩に話を戻した。
「私の頃ですか?そうですね、真ん中バースデーが少し流行ってましたね。」
初めて聞く単語に、江澄はその単語を鸚鵡返しした。
「真ん中バースデー?」
江澄の思いの外素っ頓狂な返事に、気をよくした後輩は真ん中バースデーの説明をしてくれた。
「真ん中バースデーっていうのは、恋人とか仲のいい二人それぞれの誕生日の、ちょうど中間をお祝いしたりするものですよ。」
「それを祝って何になるんだ……?」
意味がわからないと、眉間に皺を寄せる江澄だったが、
「確かになんででしょうね?私もわかりません。あははは…」
と、箸も転がっていないのに笑う後輩に、
「ほら、休憩は終わりだ。さっさと仕事に取り掛かれ。」
と言って、この話題を強制終了させたのだった。
◇
業務も一通り終わり、帰る前に一息……と会社の自販機の前でホットコーヒを啜りながら、江澄はスマホを眺めていた。何の目的もなしにSNSを見流していたが、ふと仕事中に話に出た真ん中バースデーを思い出し、検索サイトで調べてみる。
「真ん中バースデー……勝手に計算してくれるサイトなんかもあるのか……」
と、何気なくそのサイトを覗いていたら、江澄の脳裏に一人の男が浮かんだ。
「まぁ、何をするでもないが……」
と自身の誕生日と、同棲している恋人の藍曦臣の誕生日を入力した。計算するのボタンをタッチすればあっという間に恋人との真ん中バースデーが算出される。
「十月二十二日……今日じゃん……」
少しだけ画面を見つめた江澄は、残っていたコーヒーを飲み干すと、立ち上がりオフィスをあとにした。
◇
主に純文学を書いている作家の藍曦臣は、普段の仕事は自室で行なっているが、この日は原稿がひと段落していたので、次作のヒントを得ようと街に出ていた。
街の雑踏を聞きながら散歩をし、時には喫茶店の窓側の席に座り、人間観察をしてみたりする。しかし今日の気分はブラックコーヒーの気分だったので、美味しい深煎りのストレートを出してくれる店に向かった。
「いらっしゃいませ。」
言葉が静かな髭面のマスターがいつも通り迎えてくれた。
「お久しぶりです。今月のコーヒーは何ですか?」
カウンターしかない小さい店なので、曦臣は空いている席に腰掛け、マスターに尋ねた。
「お久しぶりです。今月は少し早いんですけど、トラジャです。」
喋りも静かで言葉数もさほど多くないマスターだが、客の顔と職業はしっかり覚えているようで、昼間のこんな時間でも「お仕事終わりですか?」と聞いてくれて、曦臣は少し心が癒された。
「この時期のトラジャは少し珍しいですね。でしたら、一杯目はトラジャをお願いします。」
と、今月のコーヒーを注文し、そうして一杯ずつ丁寧にネルドリップされたコーヒーは、深煎りの豆でも苦味の角がたたず、シルクのような舌触りで、曦臣はそれが好きで自宅から少し離れたこの店の常連となったのだった。
「トラジャ、お待たせ致しました。」
と、こだわりのカップに注がれたコーヒーの芳しい香りが、曦臣の鼻腔を擽る。香りを楽しみつつ、曦臣はお待ちかねのコーヒーを一口含む。
「やっぱり、マスターの淹れるコーヒーは美味しいですね。」
とマスターに向かって笑顔を携え感想を言えば「ありがとうございます」と控えめに返事を返してくれる。
今日は、客足もだいぶ穏やかな日だったようで、曦臣とマスターはぽつぽつと会話をしていた。一杯目を飲み干した曦臣は、
「二杯目はいつものセラードでお願いしたいのだけれど、今日はそれと一緒におすすめのケーキをお願いします。」
普段はコーヒーだけを頼む曦臣だが、今日は少し小腹が空いたのでトーストより軽いもの……とケーキを頼んだのだった。
「でしたら、今日は二十二日なのでいちごのショートケーキはいかがですか?」
マスターのその言葉に、曦臣は少しきょとんとしてしまった。
「なぜ二十二日だといちごのショートケーキなんですか?」
曦臣は頭上にハテナマークを浮かべたような表情で、マスターに尋ねた。
「毎月二十二日は、ショートケーキの日なので、うちの店もこの日だけはいちごのショートケーキを出しているんですよ。」
おすすめのわけを聞いた曦臣は、
「マスター、そのケーキはテイクアウト出来ますか?」
と聞き、店ではスフレチーズケーキを注文したのだった。
◇
江澄は帰路を急いでいた。偶然にも今日が恋人との真ん中バースデーで、幸運にも仕事が早く終わり、普段は絶対に間に合うことのない自宅近くの洒落たケーキ店の営業時間にギリギリ間に合いそうだったのだ。
最寄駅の改札を通った後は、ケーキ店まで早足で向かった。たまに走ったりして、どうにか営業時間内に滑り込んだ江澄は、少し困った表情を浮かべたが、第一印象を信じて目についたケーキを二つ買って、自宅へ向かった。
「ただいま。」
江澄は無事帰宅し、曦臣に帰宅したことを知らせる。その声を聞いて曦臣が今日は玄関先まで顔を出した。
「おかえり、晩吟。」
「仕事は終わったのか?」
玄関先まで出てくる時は余裕がある時ではあるが、江澄は曦臣に尋ねる。
「あぁ、おかげさまで終わったよ。」
そう言って江澄に抱きつこうとした曦臣は、江澄が手に持っていた箱に気付いた。
「晩吟、これはどうしたの?」
江澄がケーキを持ってくるなんて、と曦臣は珍しがっているようだった。すると江澄は少し顔を赤らめ、
「あー、これか?……まぁ、後で話すよ。とりあえず、着替えてきてもいいか?」
と濁すので、曦臣はとりあえずそれに応じ、夕飯の支度の続きをした。
江澄が手洗いうがいをし、部屋着に着替えた頃にはダイニングテーブルに二人分の食事が用意されていた。今日の夕飯はビーフシチューだ。作り置きの曦臣特製のマッシュポテトも添えられている。この家のマッシュポテトは、曦臣が原稿に行き詰まった時に量産されるものだが、味は美味しいし、何よりどこのお店で食べるマッシュポテトより滑らかなので、江澄の好物の一つだった。
「「いただきます」」
二人揃ったところで、手を合わせていただきますを言い、二人は夕飯を食べ始めた。二人の空腹がある程度収まった頃に、曦臣は先程の話の続きを江澄に振った。
「ところで晩吟、今日はなぜ珍しくケーキを?」
買ったか、もらったかわからなかった曦臣は、言葉尻を濁した。急に先程の話題に戻って、江澄は思わず口に入っていたものを吹き出しそうになり、咽せてしまった。
「ゴホゴホッ……あぁ、あれか?」
ケーキというごまかしきれない存在がある以上、先程の話題からは逃げることなど出来ないのだが、曦臣がそのまま話は流してケーキだけ食べてくれたらいいなと思っていた江澄だったので、すぐには言葉を続けなかった。
「晩吟大丈夫?お水飲んで。」
と、江澄に水分を摂らせ、話の続きを目で催促する。曦臣は案外頑固な一面があるので、観念した江澄は『真ん中バースデー』のことを曦臣に話した。
「本当に偶然なんだ!今日の今日まで、そういうのがあるなんて知らなかったし……クソっ、こんなに恥ずかしいもんなのか⁉︎」
と最後の方はブツブツと独り言も混ざっている。そんな様子に、曦臣はふふっと柔らかく笑った。一人赤面して焦っている自分を笑われたと思って江澄は少しムッとしたが、それは勘違いだとすぐにわかる。
「私たちは本当に気が合うね。」
そう言って曦臣は立ち上がると、冷蔵庫から先程江澄が持って帰って来たのとは別の箱を取り出した。
「実はね、今日はショートケーキの日だって知って、理由は違えど、私もケーキを買ってしまったんだ。」
と、いちごのショートケーキを見せながら、曦臣が肩をすくめて笑うと、江澄は眉を下げて、目尻にはひっそり涙を滲ませ笑った。
「本当だな、俺たちはどこまでも気が合う。」
そう言って、江澄は改めて曦臣を見つめると、
「俺はそういうあなたが大好きだ。」
と唐突に、そして珍しくまっすぐに愛を向けた。しかしすぐに照れてしまって、頬杖をついてそっぽを向いてしまう。けれど曦臣に向けられた横顔は耳まで真っ赤に染まり、江澄の心情を表していた。
「晩吟、私もあなたが大好きだよ。」
ケーキを置いた曦臣は、江澄を背中から抱きしめ愛を囁いた。そっぽを向いたまま抱きしめられた江澄だったが、頬杖をしていた手の平を返したと思ったら、その手を曦臣の腕にそっと添えて、言葉を介さず曦臣の言葉に応えたのだった。そんないじらしく可愛らしい江澄を曦臣は更に抱きしめ、静かに「愛してる」と囁く。すると江澄は、自身が買ってきたケーキのように顔を真っ赤にして、消え入るような声で「俺もだ……」と言い、曦臣を振り切って机に突っ伏し、可愛い顔を隠してしまった。
「晩吟はそういうところ可愛いよね。」
いつの間には自席に戻った曦臣が、ニコニコしながら江澄に言えば、
「あなたはそういうところが意地悪い。」
と、恨みがましく言った江澄が、突っ伏した状態から目だけ見えるように顔を半分あげれば曦臣と江澄は目が合い、二人は同時に吹き出してしまった。
「さぁシチューが冷め切る前に食べてしまおう。食後は私がコーヒーを淹れるから楽しみにしてて。」
さて江澄は一体どんなケーキを買ってきたのやら。