何でもない日 時折、思い出す程度の数字の並びだった。
例えば、必要があり仕方なく広げた書類に、日付を書く時。
(そういえば、今日だっけ)
けれど、審神者の手が止まったのは一瞬だ。日付以外に必要な情報も書き記し、受付係に渡す。待機していたこんのすけはふんふんと頷きながら目を通し、「問題ありません」と頭を下げた。
審神者の継続確認でなぜわざわざ現世の施設まで出向かなくてはいけないのかとか、どうしてこの時代にアナログ式なのかとか、答えてはもらえないそんな質問は最初の数年で出尽くしていた。
政府から知らせがくる。心身ともに健康であるから、審神者を継続しても良いと許可が出る。許可が出たら、継続する意思があるかどうかを伝え、継続するのであればその手続きをする。実際のところ、継続しなければ身一つで現世に放り出されるだけだ。本丸という閉じられた世界で生活している内に年月の経過も分からなくなり、親兄弟や友人達と違う速度で生きている自分がその後どうなるのか想像もできないので、選択肢は一つだ。そんな事実に気付いて取り乱したこともあったが、今となってはそれも遠い過去のことだった。書いた日付も、意識すれば思い出すが、審神者になる際に本名と一緒に捨てた情報だ。
心が凪いでいる、と言えば聞こえは良いが、わざわざ憤ったり悲しんだりするのは無駄だし面倒だ、別に本丸での生活が嫌なわけではないし、と極端な結論に達しただけの話だ。審神者でいられる内は諦めた方が楽なのだと、同じ結論に達したのはきっと自分だけではない。待合室にいる審神者の半数ほどは、似たような表情だった。手続きは面倒だけど、現状維持がいちばん楽だ。
「長谷部、終わったよ。帰ろう」
「はい、主」
施設の入口で待っていた長谷部に声をかけ、連れ立って歩き始める。審神者を続ける限りは毎年のことなので、今年もそれについて別段話すことはなかった。本丸へ続くゲートはすぐそこだ。
「腹減ったなあ。夕飯なんだろ」
「確か、良い鯵が手に入ったと今朝厨当番が話していました」
「鯵! いいねえ。鯵のたたきかなあ……なめろうもおいしいし、あ~でも塩焼きもいいよな。天ぷら、煮つけ、……長谷部、何笑ってんの?」
「いえ、別に」
年を重ねても、何もかもを諦めても、夕飯が好物だとうれしい。うれしいし、そう感じられる心があることに審神者は安堵している。それを微笑ましいものでも見るように穏やかな顔で笑っている長谷部と無理矢理手を繋ぐ。ゲートはとうに抜けていて、目の前はもう本丸だ。
「! 主、」
「俺のこと笑うやつには手繋ぎの刑~。いいじゃんべつに。隠してるわけじゃないし。いや?」
「そういうわけでは……」
もごもごと口ごもる長谷部と恋仲になってからも随分と長い年月が過ぎている。それでも未だに人目につく場所で触れることを拒まれるのは今に始まったことではないので、審神者は別段気にしない。気にしないが、普段真面目で凛々しく、仲間には厳しく接している様子も知っているから、態度の違いが面白くて揶揄っている節もあった。
「じゃあいいだろ。さて、夕飯は鯵の何料理かな~」
鼻歌交じりで門をくぐる。手は握り返されなかったが、ふり解かれることもなかった。
***
「……全部ある」
もう準備はできているから、とせかされるまま座って、審神者は食卓に並んだ食事に目を丸くした。鯵の刺身、たたきをはじめ、天ぷら、煮つけ、南蛮漬けなど、思い浮かべていた鯵料理は全て所せましと並んでいる。
「昨日今日で良い鯵がたくさん手に入ってね」
「好物だろう? せっかくだから色々作ってみたんだ」
燭台切、歌仙が得意げに笑っている。
「あ、この天ぷらは俺が揚げたんだよ」
湯気が立っている一角を指差し、加州が得意げに言い、横から大和守もにやにやしながら口を挟んだ。
「主、もう少し早く帰ってくれば面白いものが見られたのに。清光ってばへっぴり腰で、鍋の蓋をこう、盾みたいにしてさ」
「言ーうーなー!」
「あはは、がんばってくれたんだな。ありがとう清光」
せっかくだから熱いうちに、とその天ぷらをとって頬張る。さくっとした衣の触感に、脂がのった身の旨みが口の中に広がった。
「ん、おいしい」
「……良かった」
ほっとしたように息をつく加州を見て、さっきまでからかっていた大和守も満足げだ。
食卓についた刀達も次々に皿に手を伸ばしていく。おかずだけでなく、骨を使ったせんべいなども追加され、それならばと酒飲み達がそれぞれお気に入りの酒を持ち出してきたので、その日は夕飯から軽い宴会へと発展した。
***
刀達との宴会は楽しいが、それほどアルコールに強いわけでもなく、軽く付き合うのみにして審神者はそっと広間を抜け出した。少し酔いをさまそうと縁側に出ると、そこには先客がいる。
「あれ、長谷部?」
「主、」
月明りに照らされながら、長谷部は一人で杯を傾けていた。
「手酌? 中で飲まないの?」
「いえこれは、待ってる間、手持ち無沙汰で……」
「待ってる間?」
「はい。……主を、待っていました」
「……俺を?」
首を傾げながらも隣に腰を下ろす。杯に残ったものをぐっと飲み干し、長谷部は据わった目で審神者を見つめると、手を伸ばしてその顎を捉えた。
「はせ、んぅ」
避ける間もなく、唇が重なる。
「ん、ふぁ、」
重なるだけでなく薄く開いた唇から舌がさしこまれた。濃い酒の味が残る舌が絡まり、舐られる。
「…っ、ん、んむ」
「は、ぁ……」
ちゅ、と音を立てて舌を吸われ、離れていった。
「……」
「……」
互いに無言だった。審神者の手は宙を彷徨い、長谷部に触れそうになったものの、広間から漏れる笑い声にびくりと肩を震わせ、また所在無さげに下ろされる。
「な、に? 急に……ここ、廊下なんだけど……」
非難するような声は審神者の方から出たが、いつもならこんな状況を普段厭うのは長谷部の方だった。二人が唇を重ねるのも、触れ合うのも、決まってふたりきりの時だけだ。今もふたりきりと言えばふたりきりだが、いつ広間へ続く襖が開くかも分からないというのに。
「いいじゃないですか、別に……」
長谷部にしては珍しく、拗ねたような口ぶりは夕方の審神者自身と髣髴とさせるので、審神者は思わず噴き出した。
「っふ、はは」
「! 何故笑うんです」
「ふふ、いやあ、ごめんごめん」
笑いながら、長谷部の手に触れる。酔いのせいか、じんわりと熱かった。
「何でもない日でも、ここにいると毎日楽しいなあって、実感しただけだよ」
「……」
複雑そうな顔をした長谷部に「それで?」と畳みかける。触れた手の甲に指を這わせ、袖口から覗いた手首をするりと撫でた。
「キスだけ? 酔いが回って、もう何もできないってことはないよな?」
「……もちろん」
挑発に乗った手が、審神者の手を握り替えす。
「……部屋に、伺っても?」
手と同じくらい熱い視線に、審神者も同じように「もちろん」と返し、今度は自分から噛みつくように口づけた。
終