散文6 誰かと一緒に寝るときには枕だけではなくて上掛けの寝具も二つ以上はマストだろうとドクターは思っている。
蜜月ならそりゃあ一枚を分け合って足らない分を体温で温め合うのもよいだろう。逆に付き合ってからずっと一枚で寝ているパートナー同士を否定するつもりも勿論ない。
だが、ドクターとしては誰かと付き合いだしたなら寝具は二つ以上は早急に用意しろと言いたい。
なぜ二つ”以上”かというと、夜具から抜け出して戻った際に上掛けを相手に取られた場合にはもうひとつ必要になるからだ。
今日も今日とて深夜に喉の渇きを覚えて覚醒したドクターがベッドを抜け出す。隣の部屋に置いた小型冷蔵庫からペットボトルを二本持って戻ってくると、上掛けが消えていた。
視線を移せば安らかな寝息を立てているパートナーが自分の代わりに放置していった上掛けを抱き寄せて枕のようにして眠ってしまっているのが見えた。
背を丸め、横向きになってしっかと上掛けに顔を埋めてすうすうとした寝息がドクターの耳にも届く。
彼の名前はリー。あの龍門で探偵事務所を経営している男だった。
彼がドクターの部屋に泊まりにくるのはもう慣れっこのことで、上掛けをとられるのも一度や二度でないドクターはこの後の対応についても慣れたものだ。ペットボトルに入った水の一本で口を湿らせると、開いてない方と共にサイドボードに置いてクローゼットから予備の上掛けを抱えてベッドに戻った。
尾が窮屈にならないように外側に垂らしてあるのを踏まないようにそっと跨ぎ、ベッドの隅から上がって足の辺りをそうっとまたいで隣へと戻る。リー側の上掛けを尾が寒くならないように腰の辺りをしっかりと包み直してあげて、持ってきた上掛けを自分の体にかけて再び目を閉じる。
しんとした中で、ゆっくりと呼吸をする。
温みが血液を巡って全身を覆い、再びとろりとした眠気がドクターの体に沁みていくのに身を任せていると、隣で身じろぎした感触と振動を感じた。反射的にドクターはうっすらと目を開く。
暗さでぼやける視界の端に尾がゆるりと持ち上がり、そして力を失ったようにまたするりと消えたのが見えて、暑かったかしらとドクターは思いながらも再び目を閉じて適当な思考をめぐらせて楽しんだ。
───例えば、先ほど脳裏をよぎった寝具は二枚以上が望ましい説。
そもそもに置いて、尾を持っている相手と一緒に寝る場合はまずふたりで一枚なんて甘いことを言わずに初手からひとり一枚以上がいいと追唱したい。
理由も大した話ではない。当人の意識がなくとも寝返りを打つとそこから寒い空気が入り込んでくるので目が覚めることがあるからだ。
まだお互いが寝慣れていないころは、それで寒くて起きてしまってリーの尻尾と体に挟まった上掛けが取れずに起こしてしまったことがある。起こされた方はドクターの安眠を妨害したことをずいぶんと気にしていた。リーを気遣わせたくなかったドクターは、そこで寝具を二枚にしたのだ。
だが次は今のように上掛けを取られて風邪をひきかけた。そこからの物量作戦としての三枚体制になって、睡眠生活は劇的に改善したことは今後周りに大いに誇るべきことではないだろうか。
過去、真にそう思ってケルシーに寝具は二枚以上が良い説───備品として常に二枚支給しておくべきでは───を語ってみたことがある。
しかしケルシーは湯気の立っているコーヒーに息を吹きかけて冷ましつつ、カップに視線を落としたままぽつりとこう言った。
「君の頭は日常生活においては……いや、口にすることではないな。今のくだりは気にするな。夜よく眠れているのならそれでいい。しかし睡眠の質の改善点という観念においては周りに聞かれてもそれは答えるべき回答ではない。そもそも一人用の部屋にも寝具を倍にするということは、かかる手間も現実的ではない。それも含めて、答えるべき回答ではないと言う。───いいな? 特にアーミヤには絶対に言うな。絶対に、だ」
そう念押しされて何度も頷いた。わかったならいいとケルシーは答えて手元のタブレットを操作していたことをドクターは思い出す。あの時は、そのあと何を話していたのだったか。砂虫の栄養効率においての食堂への常時缶詰補給だったか。それともロドス外壁の塗装についてだったか。いやいや、それとも休憩室の模様替えについてだったろうか。───考えているとゆるゆると頭の中に考えていたことが続かなくなって、飛び飛びになっていく。眠くなってきた。
明日の最初の予定はなんだったか。たしか、ミーティングがあって、その場所、が、アーミヤの、違う。あれは、オンラインの……。ねむい。
───……。
かすかな息苦しさにぱちりと目を開けると、リーは上掛けを抱きしめて寝ていて、己の鼻先をふさいでいたことに気づいた。腕を緩めて上体をそらし、丸めたのをぐいぐいと伸ばして体にかけ直そうともぞもぞとして、すでにもう上掛けをかぶっていると気づく。
つまり二枚手元にあるということだ。寝る前との違いに脳はこれをエラーと判断し、現状を把握しろと命令を受けた肉体が稼働を始める。
眠気で支配された手足がゆるゆると周りを調べるように左右にぽすぽすと動いて、足がベッドの縁からはみ出たあたりでベッドの狭さにドクターの部屋だと思い出した。
ああ、またやったかとリーは顔を覆って吐息をする。
おそるおそると手で目の前の上掛けを持ち上げ、隙間からその向こうを見れば、やや横向きにこちらを向いて無防備な姿で動かないドクターが見える。肘をついて起き上がり、丸めた上掛けを顎乗せにしてしょぼしょぼとした目で見れば、おそらく予備の上掛けを持ち出してきたのか、しっかりと上掛けを羽織った胸元から肩にかけてゆるく上下していたのを確認してそっと安堵する。
実はリーは普段寝汚い方ではなく、なんなら側に誰かが近寄ってきた程度でも起きるような体質であるのだが、ことドクターに関してはそれが全く働かない。
現に、最初の頃はドクターに揺すられるまで朝に気づかず迎えてしまった。感覚が衰えてしまったのだろうか、いよいよ探偵業もお終いだろうかと天を仰いだものだ。
何度か繰り返してそれはドクターの部屋で共に寝ている時だけに限るとわかってからは、自己に頼らないセキュリティ面を上げることで滅多にない経験を楽しもうと改善を放棄したのだが、寝ている間にドクターの上掛けをはぐと言う悪癖だけはなんとか止めたいと一応は考えていた。
考えただけで、どうにもはなっていないのだが。
起きたついでにとリーは体を完全に起こして、周りのチェックを行う。顔をこすり、暗い部屋を見回す。
二人以外の気配はない。オーケー、問題はない。
ふとサイドボードに置いたメガネの脇に封を開けられてないペットボトルと飲みかけがそれぞれあるのを見つける。
上掛けを取られて起きたのか起きてから自分が上掛けをとったのかは定かではないが、リーは後者であることを願いつつ、恐らくは自分のために持ってきてくれたであろう未開封のペットボトルを手に取って喉を潤した。
まだそこそこ冷えているので、ドクターが起きていたのもついさっきなのかもしれない。同じタイミングなら会話がもう少し出来たかもしれないのにとリーは残念に思った。
暗闇に慣れてきた目で時計を見れば、何にしても起きるには早過ぎる。周りの状況も問題はない。なら寝ようとリーはさっさと決めて、尾が間違えてドクターに当たらないように体勢を調整しつつドクターの隣へ体を伏せた。
丸まった上掛けは枕と共に顎乗せにそのまま使うことにして、愛しい人の寝顔をじっくりと眺める。
はらりと口元にかかる髪を起こさないよう細心の注意でもって指先で後ろに流した。寝る前の昨日のことを思い返して、明日の無事を願う。そんな、些細なことが今はとても難しくて、そしてなによりも愛おしい。
リーはしばらくドクターを眺めていたが、やがて顎を乗せていた上掛けをベッドの下へと落として、そうっとドクターの方へと寄り添い、思い切って彼を上掛けごと引き寄せて抱きしめた。途端、ぐぅとかきゅぅみたいな小さな鳴き声がした気がして、そうっと体を離して覗き込めば。
どんな夢を見ているのか、ふわふわとした顔で笑うドクターが居た。
起きた時にもし夢の内容を覚えていそうなら問うてみようか。リーは朝を楽しみに思い、そしてそのまま目を閉じた。