《綾人蛍》雨のちハレ 綾人が雨男なのか、蛍が雨女なのか、またはどちらも、かもしれない。
二人に添えられる大きな和傘は、ついに雨避けとしてここに開かれている。打ち付けた雫は端から零れ落ち、きらりと輝いた。跳ね返った雨が袴の裾を濡らす重さに、自然と背筋が伸びる。
彼に会ったのも、こんな雨の日だった。
綾人の行く手を塞いだ見知らぬ少年は、一目見ただけで例の"兄"だと察せられた。ゆったり開かれた瞼から覗く蜂蜜色は綾人が愛する色そのもので、しかし綾人を溺れさせたあの温度は持たない。
知っているものより少しだけ硬そうに見える金糸の髪を雨に濡らしながら、幾分か高い位置からの視線が綾人を捉えた。
「不幸にするつもりなら、返して」
その鋭い目からすればずいぶんと丸い声だったが、たったそれだけの言葉も後ろめたさを抱えるばかりの綾人には深く刺さる。じっと見つめ合ったのは数秒か数分か。口を開けずにいた綾人に意気地なしはいらないよ、と吐き捨てた少年は雨に溶けていくように姿をくらませた。
あの時揺れた三つ編みと同じ色の髪は、今は綿帽子に覆い隠されている。ぱっと目を惹く紅が、綾人に微笑みかけるその口元を飾っていた。行方知れずの彼が見たかったであろうこの笑顔を、今は独占させてもらおう。
「本当に、綺麗です」
「うん、綾人さんもかっこいいね。でももう何回も聞いたよ」
「何回でも言わせてください」
白無垢に浮き上がる椿をひと撫でした蛍は、緊張する、とひとりごちた。
「ではキスでもしますか」
「しないよ」
「……そう、ですか」
「お化粧落ちちゃう」
拗ねないで、とけらけら笑う蛍の表情は、大人びた化粧の向こうにいつもの変わらぬ優しさを残している。飽きもせずに綺麗だと繰り返す綾人に、すっかり肩の力も抜けたようだった。
ありがとう、と言われても、口づけに関しては本気なのだが。化粧が落ちなければいいのか、と思案する綾人に、咳払いが割り込んだ。
もう童とも呼べぬな、と眉を下げたのはただのからかいか、それとも本心か。瞬きひとつで表情を切り替えた宮司の後ろに続いて、町へと踏み入れた。ひとつ、ふたつ、慣れぬ服装によたよたと歩く蛍を支えてその石段を進んでいく。
最後の一段を踏みしめ、ようやっと顔を上げた。
二人の姿を一目見た民が、わあっと歓声を上げる。色とりどりの和傘が、綾人と蛍が行くその道を彩った。ずっと向こうまで、その花道が途切れることはない。
呆気にとられる綾人と蛍を、雨の音をかき消す程の拍手が迎える。鳴り止まない隙間から漏れ聞こえる、おめでとうございますなんて声。名を呼ばれるままにそちらを見やれば、当人たちよりも先に涙ぐんだ年寄りが皺だらけの手を握りしめていた。並ぶ賑やかな和傘に負けじと花開く櫻は、きらめく露を携えてその枝を揺らす。
口をあんぐり開けたわけのわからぬ表情の子供さえ、皆。目の前を通り過ぎていく綾人と蛍に、惜しみない祝福を贈る。今日の稲妻の城下町は、二人のためにあった。
柄にもなくつんと痛む鼻が、気づかぬうちに感じていた緊張を示す。民の参列は期待していなかった。悪意のある言葉が投げられることだって覚悟していた。二人の婚姻は祝福されるはずがないとのそれは、結局ただの思い込みだったのかもしれない。
ふと隣を見やれば、同じようにこちらを見上げる瞳。その目尻にはきらきらと滲むものがある。それを拭えば、いたずらっぽく笑った蛍も綾人の眦を撫でた。
綾人が全てを捧げて守ってきた民たちが、今度は綾人と蛍を守ってくれている。これだけの味方がいるのだから、これから先のどんな苦難も簡単に乗り切れるのだと。そう考えるのは、いささか浮かれすぎだろうか。
時おり、美しい、綺麗だ、とそういうため息を聞くたびに、そうでしょうと頷いて回りたくなる。私の妻ですと、一人一人に紹介してやりたい。
「お兄ちゃん」
「……え?」
隣からぽつりと聞こえたその言葉。道端の人群れの中を探ってみても、いつか見た金髪はない。
それでも、そっとこちらを見上げた蛍は、幸せを映すその瞳を柔らかく緩めて教えてくれた。
「お兄ちゃん、いる気がする」
後ろかな、と呟いた彼女は、綾人の向こうで目を輝かせる幼子に手を振り返し、にこりと微笑んだ。
この花嫁行列の後ろには、綾華にパイモン、トーマも続いている。並ぶのは、新郎新婦の縁者であった。
そこに、いるのだろう。
この列に知らぬ参加者がいれば大騒ぎにもなりそうだが、そっと気づかれずに後をつけるくらいは彼女の兄なら当然にやりそうだとも思われる。
認めて、くれるのか。
「幸せにします」
雨に紛れさせてそう呟いたのは、自分自身への決意か、姿の見えぬかの兄への宣言か。隣に立つ愛しい人への誓いかもしれない。背を押されるまで踏み切れなかった臆病な男は捨ててきた。これからは、この手に抱えたものは全て。
奉行所の前まで絶えなかった人群れを過ぎ、大きな橋を渡る。道端に、前に後ろに手を振り続け、綾人も蛍も肩まですっかり濡れていた。
水を滴らせたまま神に会う人間など、そういないだろう。
「終わったらすぐに着替えなくちゃ」
「ええ、風邪を引いてしまうかもしれませんね」
神像はその雨を涙のように流して二人を祝福する。ふと見下ろした町には、未だにこちらを見上げる和傘が並んでいた。
綾人と蛍の神前での誓いを、皆が見届ける。