貴方の糧になるならちりっと腕に走った痛みに、鈴蘭は顔を顰めた。痛みの走った其処を、反対の手で押さえる。ジクジクとそこから血液が溢れているのを感じて、背筋が冷えた。掌には真っ赤な血が流れていて、止血しなければとそこにぐっと力を込める。
「大丈夫か、鈴蘭!」
アキラが声をあげ、目の前に切りかかってきた敵を薙ぎ倒した。どうやら、それが最後の一振りだった様で、これ以上向かってくる者は居なかった。ホッとため息をつき壁に背を預ける。よくよく見れば他の隊士の多くも傷を負っていて、皆満身創痍なのがよく分かる。アキラちゃんが居なければどうなっていたか分からないと、鈴蘭はホッと胸を撫で下ろし、きゅっと唇を噛み締めた。
「追手が来るかもしれない。みんな此処から早く離れよう」
身体を動かせば腕が痛む。けれど、早く動かなければ、皆を守らなければと脚を懸命に動かした。
「鈴蘭殿ッ…!」
普段から真っ白な顔から血の気が引いて。真っ青になったソウゲンが、隊舎に戻って来た鈴蘭へ駆け寄った。押さえていた手を払い、着物の袖をたくし上げる。腕に入った傷跡と真っ白な腕に血が流れているのを見て、ソウゲンはギリッと歯を食いしばり唇を歪めた。
「早く、治療を…」
手を掬い、中へと導こうと歩をすすめる。けれど、鈴蘭は困惑した表情でそこに立ち尽くし、1歩も動けなかった。否、動かなかった。
「鈴蘭殿…?」
パチパチと瞬きを繰り返した鈴蘭は、俯いてソウゲンの視線から逃げる。そして再びその傷に触れた。
「血も、もう…ほとんど止まってるし、大丈夫だよ…」
「しかし…」
「心配ないよ。…それより…」
鈴蘭は後ろを振り向く。そこには自分より遥かに傷の多い隊士達が大勢居るのだ。
「…ソウゲンちゃんにはやらなきゃいけないことがあるでしょ。君にしかできない事。…今僕のこの傷を見てる場合なの?」
見上げて真剣な眼差しで訴えると、ソウゲンの表情は明らかに曇ってしまった。そうですが、しかし…と小さな声が漏れる。けれどこうしている今も、皆苦しんで居るのだ。
「僕は本当に大丈夫だから。……お願い」
血で汚れてしまわない様に、気をつけながら袖を引いてじっと見つめる。するとソウゲンは、苦虫を噛み潰したように、納得いかないと言いたげな表情を浮かべながら、頭を抱え2、3度ため息を付いて、首を縦に振った。
「わかりました。…鈴蘭殿はそこを綺麗に洗って、清潔な布で押さえておいてください。あとで、必ず小生が診ますので。いいですか」
ソウゲンは握っていた手にギュッと力を入れて、まるで言い聞かせるようにして。鈴蘭が、分かったよと返事をしたのを確認して、漸くその場を離れた。
「鈴蘭、手伝おうか」
そう声をかけたのは後ろでやり取りを見ていたアキラだった。
「……アキラちゃん…うん…ありがと」
さっき、真剣に見つめていた表情とは一変し、まるで何かに絶望でもしたかのように、その瞳から光が失われていた事に、アキラは驚いた。
「大丈夫か?……痛むのか?」
「……ん。ちょっとね」
そう言って、鈴蘭は胸元をぎゅうと握る。一番に心配してくれるのは嬉しかった。でも。それより、他の人みたいに研究対象にしてくれるのではないかと少しだけ期待した自分が居て。そんな邪な想いに反して真剣に心配してくれる彼が居て。最後の最後、もし先立つ事があっても、自分は彼の役に立つ事は出来ないのだとわかってしまったのが、酷く悲しくて胸にぽっかりと穴が開いたようだった。
「…ならなぜ早く言わないんだ、ソウゲンに…」
今し方離れたソウゲンを追いかけようとしたアキラに、待ってと静止をかける。
「大丈夫、そのうち塞がるから」
ポツリと小さく呟いた声は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
…………
無い物ねだり。愛されている癖にそれ以上を望む。自分がそんなに欲深い人間だったと思っても居なかった。月夜に照らされた影をじっと見つめて、その影のように自分の中も真っ暗なんだろうなと、鈴蘭はため息をついた。
「なにを考えているのです?」
腕に一線残った傷跡に薬を塗りながら、ソウゲンはポツリと紡ぐ。
「まるで、此処から魂も抜け出てしまったようなのです」
その言葉に、はっと息を飲んだ。瞬きを繰り返しソウゲンを見つめると、優しく微笑まれて。なんだかそれが酷く心苦しかった。こんな靄のかかったような気持ち抱えたまま、優しくしてもらうなんて、出来なかった。
「……ちょっとね、嫉妬しちゃった」
「…嫉妬?」
きっとこの感情は、そう表すのが一番近い。
「…ソウゲンちゃんの、研究の……力になりたかったな……なんて、…なんか、そんな感じ。……変だよね…」
はははと、乾いた笑いで誤魔化せる訳ないのは知っているけれど。言葉が続かなかくて、思わず視線を逸した。
「……小生は……死んだ後、小生の為に上げられる、鈴蘭殿の経を聞けないのが、……酷く寂しいのです」
傷付いた腕に包帯を巻きながら、言葉を選びながらゆっくりと話す。
「他の方は、鈴蘭殿に弔ってもらえるのに。………そう思う事があるのです。……鈴蘭殿が言いたい、その嫉妬も同じ様な気持ちでしょうか?」
自分の経を聞きたいソウゲンと。ソウゲンの為に研究対象にしてほしい自分と。同じ様な、違うような。でも彼が言いたい事は分かるような気がする。
「…似てるかも」
「それなら、よかったのです」
巻き終えた包帯の上から、其処へ唇を寄せる。淡い竹の様な色の瞳が、じっと射抜くように見つめて、ドキッと胸が跳ねた。
「安心してください。…小生は鈴蘭殿の一挙手一投足、感情に至るまで全て知りたいと常々思っているのです。…研究ではないのですが。…これは個人的な趣味で」
全身の隅々至る所まで、まるで強い酒を一気に飲み干したように熱くなる。
「こんなに赤く、火照った理由、教えていただけますか?」
そんな所に興味を示さなくていいから。そう言いたいのに、口から漏れるのは言葉にならない小さな声だけで。握られた手も離して貰えず。心に空いた大きな穴を、夜が明けるまで優しく丁寧に埋められた。